10:ただの雑談


「あれ、お疲れさま」

「ああ」

 ぎく、と反射的に体が強張った。

 ここは廊下で、行き違う二人が肩をぶつけない程度の空間には逃げ場がない。無意識に視線が下がる。自覚のある過剰反応だ。ランク戦でも弱点になるぞとあれこれいじられているのも知っているが、でもどうしたって苦手意識があるのは仕方ないだろう。相手が全員、慣れた相手じゃないのだし。

 すると、つま先にかかっていたはずの眼前の影がゆるりと移動した。

「東さんがこの前言ってた資料、アーカイブに上がってたね」

「見たか?」

「うん。やっぱり時間はかかったけど」

「あれに慣れれば大抵の資料は読める」

「はは、それはそう。訓練したらね」

 和やかに続く会話を聞きながら、ゆっくり顔を上げる。さっきまでは真横に立っていたはずの彼女は、いまは眼前の隊長の体を挟んだ向こう側で笑っていた。気を遣われた、と気付く。

 この人、という狙撃手は、実はまったく関わりがない人というわけでもない。

 もともと鳩原先輩とは付き合いのある人だったし、どちらかと言えば見知った顔の部類に入ると言える。ただそれと慣れが直結しないだけだから、こういうさりげなくて柔らかい配慮には、たまに申し訳ない気持ちが湧く。穏やかないい人だとは思っている。本当だ。

「そういえば、今夜の集まり行けそう?」

「ああ」

「そこそこ人数居るらしいね、三輪くんが来るって加古は喜んでたけど」

「……お前は?」

「防衛任務が入ってるんだ、急に空いたところに入ったやつだから抜けられなくて」

「そうか」

 気安い会話。同級生らしいから当然かもしれない。A級の隊長やB級の隊員と話す姿はよく見かける。

 でも、彼女と話す姿は最近になって頻度が増えたようだった。あまり意識していないからはっきりとは言えないが、そう思う。逆に、意識していないのに「増えたな」と感じたから確かだと言えるのかもしれない。

「いやあいいね、今日の主役」

「からかうな」

「からかってはないけど、いい響きだとは思う」

「……」

「馬鹿だと思ってる顔」

「訳のわからないやつだと思ってるんだ」

「うーん、馬鹿よりはましかな……」

 さんがあまり笑いもせずに言って、二宮さんも真顔で返す。二人のやり取りは楕円のタイヤが進むような独特のリズムで刻まれる。本人たちがあまり疑問に思っていなさそうだから、これが二人の自然体なんだろう。例えば自分と氷見さんのような、そういう気の置けない空気感。

 そんなふしぎなやり取りをしていた声が途切れた隙間、ふと床の影が時計を見て、ゆるやかに息を吸った。

「それじゃ、今夜は楽しんで。みんなによろしく伝えてくれると嬉しい」

「ああ、伝えておく」

「お誕生日おめでとう、二宮」

 さらりと祝いの言葉を残して、さんは踵を返した。去り際、二宮さん越しにこちらを覗き込んで「辻くん、邪魔してごめんね。お疲れさま」と付け加えることも忘れない。こちらはと言えば急に水を向けられて反応しきれず、閊えながらなんとかお疲れさまですのような音を返すに留まった。慣れない。あのリズムにはまだ慣れない。

「悪かったな」

「い、いえ……」

 まだ落ち着かない心臓を持て余している俺を知ってか知らずか、彼女が去った先をちらりと見て、二宮さんが呟いた。

「あいつも悪いやつじゃない」

 ごく僅か、その声がいつもと違ったような気がして、思わず彼の表情を横目で窺ってしまった。涼やかな目元も、笑っていない口元も、前髪の影の掛かり方も、いつも通り。ただ、ふとまつ毛が伏せられた。

「そういや、犬飼はどうした。一緒じゃないのか」

「ああ、犬飼先輩はちょっと遅れるそうです。学校の用事があるとかで」

「そうか」

 気のせいだったのだろうか。あまり意識していなかったから、思い違いかもしれない。あるいは、逆に。

 取り止めのない思考を打ち切って、廊下を進み始めた隊長の背を追う。

 ふと、今日の主役か、と先ほどの会話が蘇る。

 主役というとなんとなく愉快で、明るくて、朗らかだ。この人に当て嵌めるにはちょっと違う形をしている言葉たちが、形を変えて寄り添い、今日の二宮さんを飾っている。

 なるほど確かに、いい響きかもしれない。

 なんとなく口元が緩んで、悟られないようにそっと俯いた。