素麺はおいしい。いつも通りの安心感。薬味を変えたり冷やし中華もどきにしてみたりとアレンジも効く。何より茹でるだけなのが手軽でいい。しかし、何だろう、この物足りなさ。
フリルシャツを着たお天気お姉さんが笑顔で梅雨明けをお知らせしてから一週間。どんよりと空を覆い隠す雨季を踏み越え、迎えた季節は灼熱の夏だった。窓とドアを開いて部屋に風を通すたびに吹き込む空気が熱を孕んでいて汗をにじませる。夏だ、まごうことなき、夏。夏といえば何だろう。素麺、冷やし中華、かき氷。思い浮かぶものはどれも夏に相応しい冷涼さを備えている。それに惹かれてここ数日は似たようなメニューで夏到来を楽しんでいた。しかしどこか物足りない。何かが。
大学生の夏は遅く始まり、遅く終わる。ボーダーに夏休みの生徒が増えるのと引き替えにレポートの締め切りや試験前の追い込みに追われる学生が増えるのも例年通りだった。
狙撃手の全体訓練を終えた私が荷物片手に廊下を歩いていると、前に見慣れた顔を見つけた。取っている授業が数個被っているとはいえ、しっかり顔を合わせたのは久々だったかもしれない。
「お疲れ、二宮」
「ああ」
夏っぽい色のシャツ姿の彼も荷物を手にしていたので、帰りかと聞けば肯定される。時間は昼過ぎ。
「時間ある?」
彼は一秒考えて、ゆるく頷いた。私も満足げに頷いて二宮と並ぶように歩き始める。
「なに食べようか、昨日素麺だったな。二宮なにかある?」
「いや」
「迷うな」
パスタ、天丼、ハンバーグ、今まで食べに行った色々を思い浮かべては消していく。こんなときこそと三門市周辺の食べ物屋がわかるアプリを立ち上げた私は、そこで衝撃を受けた。
「二宮、これだ」
夏。
夏といえば何だろう。素麺、冷やし中華、かき氷。思い浮かぶものはどれも夏に相応しい冷涼さを備えている。それはそれで大好きだ、暑さに冷たさで対抗するのは正道である。しかし、夏の楽しみはそれだけじゃない。暑さに熱さで対抗するのもまた夏の醍醐味だった。
――そう、カレーである。
ボーダーからバスで二十分、蓮乃辺方面へ向かう大通りの途中で二度ほど角を曲がると、ふんわりスパイスの香りが漂うエリアがある。店内に待ちスペースがないため、外に並んでいる人がそのまま待ち時間の目安になる。私たちは前から三組目だった。
「ここはポークカレーがおいしいんだって」
二宮は私の差し出すスマホをよくわからない顔で眺め、「そうか」と静かに言った。店先に置かれたブラックボードによると、今のおすすめは期間限定の夏野菜カレーらしい。旬の夏野菜をふんだんに使っているらしくナスとトマトの彩りがたまらない。噛みしめれば肉と変わらないほど主役級の味わいがするに違いなかった。
暑い夏こそカレーというのは鉄板である。食欲減退しがちな夏に食欲をそそるスパイス、野菜や肉で栄養補給、さらにお米まで楽しめる万能の一皿。アプリを開いて『夏バテ予防』と銘打ってカレー特集のポップアップが出てきた瞬間に心が決まった。ここ最近の物足りなさは素麺やうどんのような食べやすさを優先していたことによる刺激不足だったのである。
「そういえば二宮、今期の宗教学取ってたよね。どうだった? 難しかった?」
「難しくはない。指定図書と配られるレジュメを読めれば解ける」
「そっか。今期は抽選漏れしたから後期で申し込もうかと思って」
「お前は何を取ったんだ」
「宗教学落ちたから生命科学、結構面白かったよ」
それからさりげなく二宮にレポートの進捗を聞いて、案の定きちんとオンスケ以上で進んでいるのに感心してしまう。防衛任務、チーム内コンビネーション訓練、隊長としての雑務、そういうことと並行して学業が修められる人でなければ隊長業務は無理なのだろう。改めて二宮の株を上げていると、当たり前のように私の進捗に話が及ぶ。中身は胸を張れる内容ではないが、遅れてないだけ褒めてほしい。正直に掻い摘んで話すと、二宮は何も言わなかった。叱られも諫めもされなかったので、及第点ということである。私はちょっと喜んだ。
「あ、次だ」
会計をした人と私たちの前に立っていた人が入れ違いになり、とうとう待ち行列の先頭に立った。振り返ると四組ほど増えている。店が小さいので行列ができやすいが、回転率はそんなに悪くないので予想より早く入れそうだった。
しかし、日陰とはいえ暑い。じわりと滲む汗がべたつく。私は髪をかき上げてタオルで首筋を軽く押さえながら、なんとなく隣の男を見上げた。涼し気な顔をした二宮、その首に汗が浮かんでいる。
「……二宮って汗かくんだ」
「お前は俺を何だと思ってるんだ?」
「はは」
前にも同じことを言わせた気がする。何も考えずに口から零れた言葉が二宮の眉間に皺を寄らせてしまったが、タイミングよく店員から声がかかったので誤魔化し笑いでその場を凌いだ。
向かい合うテーブル席に案内され、メニューを開いたが心が夏野菜カレーに惹かれたままだったのでそれにする。二宮はパラパラとメニューを最初から最後まで眺めてから、私を見た。頷きで返すと、二宮が手を上げて店員を呼ぶ。この一連の動作も、もう慣れたものだった。
「期間限定の夏野菜カレー、Aセット」
「カツカレーのAセット」
あっ、カツカレー。いいな。私は二宮の低い声で告げられたカツカレーに揺さぶられた。ポークカレーが美味しいと評判のカレー屋で揚げられるトンカツが美味しくないわけがない。Aセットのドリンクを選びながらサクサクの衣を想像して、次回の楽しみが増えた。夏にカレーと揚げ物、夏バテ防止にぴったりの一食になるだろう。
「そういえば、二宮って夏バテする?」
「しなくはない」
「だよね、私も」
この二宮でさえ夏バテしなくはないそうなので、私も気を付けよう。二宮だって汗はかくし、夏バテもする。
「……お前は」
「ん?」
「たまに俺を人扱いしないな」
「えっ、気にしてる? ごめん」
「していない」
なんとなく気にしてる気がする。二宮はいつもの顔で水に口を付けて、喉を二回鳴らした。二宮だって汗はかくし、夏バテもするし、水を飲む。
私と比べ物にならないくらい頑張っている二宮が、私の前でものを食べて、日々を暮らしている。そうか、二宮って生きてるんだ。こうして一緒にテーブルに着いて食べるものを糧にして。
「」
「なに」
「何を考えてる?」
「深いこと」
「浅いな」
一太刀、一閃。射手のくせに切れ味がよくて、思わず笑ってしまった。
先に運ばれてきたサラダを片付け終わった頃、とうとうやってきたカレーはグレイビーボートに入れられていた。ぴかぴかの銀色のボートにたっぷり入ったカレーはナスと肉がごろごろしていて食べ甲斐がありそうだ。髪をまとめながら深呼吸すると、食欲をそそるスパイスのいい香りが肺いっぱいに染みわたる。カレーは不思議な食べ物だ、匂いだけでカレーの気分にしてしまう。
二宮の前にも皿が並べられた。銀のグレイビーボートと、ライス。私のと違うのはライスに布団をかけたようにカツが寝ているところだ。絶対おいしい。私は二宮の見る目に信頼を置いている。
手を合わせてカレーに手を付けると、やっぱり想定通り、それ以上に美味しかった。瑞々しい野菜の甘さとスパイスの辛さが次の一口を引き寄せる。夏のカレーは最高だ。
二宮もまずカレーを味わって、それからカツに齧りついた。対面するこちらにも聞こえそうな衣の存在感にふと意識が奪われる。もちろん野菜も美味しい。でも肉には別の魅力があるのである。
「いるか」
口の中が空になったタイミングでぽつりと落とされた声だったので、聞き逃しそうだった。二宮を見るとラグなしで視線が合った。こちらを見ていたのだろう。
「いる」
いいの、とか悪いよ、とか、そういうことを言おうかと思ったのに、二宮の凪いだ目を見ていたら素直に頷いていた。たぶん、二宮は気遣いでこういうことを言わない。分けてもいいと思ったから言った。それだけだった。
「野菜も一口食べてよ、おいしいよ。ナスがいい」
フォークで一切れ小さいカツを貰う代わり、私も自分のグレイビーボートをそっと押し出す。二宮は黙って私の夏野菜カレーをひとさじ掬って自分のライスにかけた。ひと口食べて、うまい、と言う。なんとなく嬉しかった。
フォークに刺さったカツ。齧りつく。すぐに噛み切れる柔らかさ、食べ応え抜群、豚肉の旨味で口の中がいっぱいになる。おいしい、と零すと二宮が目を細めて、水に口を付けた。
うん、改めて思う。夏のカレーは最高だ。