暖簾をくぐった先があまりに暖かいので、急に眠気がやってきた。湧き出たあくびをため息にすり替えたはずが隣に座る男には隠しきれなかったらしく、無言の視線を投げられる。軽く謝って霞んだ目元を擦った。
「レポートに時間取られてさ」
「やらないお前が悪い」
「おっしゃる通り」
「いい加減に学習しろ」
二宮の呆れのため息も道理だろう。ボーダーとしての防衛任務やランク戦、それに伴う準備の合間に学生としての本分を全うしている彼とは違って、こっちは責任も軽ければ自由気ままな平隊員である。俺にできてお前にできないわけがない、とは二宮の言い分だったが元の出来を鑑みてほしいものだ。
「二宮はえらいな」
「お前が怠惰なだけだ」
「そうかなあ」
店員さんが差し出してくれた湯呑みを啜ると唇と目元が緩む。外気に凍えた体を芯から温めてくれる香ばしい玄米茶は人を幸せにする。レジに茶葉が並んでたな、買って帰ろうかな。
狭い店内はそこそこに賑わっていて、二人で通されたのは落ち着いたトーンの木目が美しいカウンター席だった。二宮のシンプルなマフラーがカシミヤだと知って触りたいと言ったら拒否されたので、とくに気にもせずお茶をもう一口。
「気になってたんだよね、ここ」
「そうか」
「はい、おしぼり」
置かれたおしぼりが湯気が上がるくらい温まっていたので季節を感じてしまった。前々回にこっちのチョイスで遅めの冷やし中華を食べに行ったばかりな気がしたけれど、もう夏の気配はアスファルトの下に埋もれてしまっているようだ。
「おい」
眠気のまま重たい瞬きを繰り返していると、ふと低音が左耳を打った。振り向くと、肩が触れ合うほどの距離に真顔。
「うわ」
「なんだ」
「びっくりしたから」
「動くな」
二宮の指先が、ぼやけるほど傍に寄る。眉間に指を寄せると嫌な感覚になるあれの我慢勝負でもするつもりか? と思った矢先に、頬あたりに触れられる感触。何をしたいのかわからない。つい怪訝そうな顔をしてしまったからだろう、二宮が低く「ついていた」と呟いた。
「……あ、ごみ? まつげ? ごめん、ありがとう」
二宮は目を伏せて返事はしなかった。口で言ってくれればいいのにと思わなくもなかったけれど、どちらにせよ教えてくれる二宮はいい奴だ。離れていく指先をぼんやり眺めてみる。短く切り揃えられた爪と、肌にうっすら染みた群青。そういや二宮、前に筆記用具忘れたって言ったら万年筆貸してくれたことあったな。あのとき取り扱いに苦労して指先をインクで汚した私をやんわり小学生レベルだと言ったくせに、自分もやってるんじゃないか。
彼が姿勢を直した後もそのまま二宮の造形を眺めていると、視線を湯呑みに落として知らん振りをしていた彼もとうとう諦めたように顔を上げた。
「なんだ」
「二宮って目まで色素が薄い人なんだなと思って」
「は?」
「なんとなく見てた」
二宮はまた眉間に皺を寄せたが、これは怒っているんじゃなくて困惑の表情だ。私が考えなしに話す内容に付いてこれないときは大抵こんな顔をしているから、今では見慣れたものだった。二宮は深いため息を吐くと、勝手にしろなんて言って湯呑みを啜った。
そのタイミングを見計らったように、盆を二つ持った店員さんが滑り込んで来る。甘そうなたれと油の匂い。立ちのぼる湯気の存在感に期待が募った。
「なにこれすごい!」
「箸」
「はいはい」
差し出された青い人差し指の手に塗り箸を渡してやり、私もまた構える。こんなに色鮮やかな茄子天は初めてだ。サイドを固める芋天も蓮根も測ったように均一な円である。そしてその中央に轟然と鎮座する主役は、美しく衣を纏った大きな海老が二尾。
天丼である。
手を合わせて箸を丼に差し込むと、二宮もそれに合わせて口を付け始めた。揚げたての天ぷらはまだ温かく、齧り付くと弾けるような軽やかな音が立った。追うようにたれの絡んだ白米を頬張ると、至高のひと口がそこにある。
今日は二宮のチョイスだ。これを食べさせてやりたいと思ってくれたのなら、改めて心から感謝したいと思った。
「……黙って食べろ」
「黙ってるよ」
わかってる、視線がうるさいんだろう。咀嚼しながら二宮の青い指を眺めて、何ならこの嬉しさのお返しになるだろうと考えていた。
しみじみ思う。二宮は、いい奴だ。