Scene 4


 提督の声は、低くて優しくて、よく通る。


 寒い。指先を擦り合わせながら、那珂は廊下を早足で進む。靴音がぱたぱたと響いて、乾いた空気に飲み込まれていく。自主練も終わったし装備だって申請を出して整備に回した。あとは自分の部屋に戻って、のんびりストレッチをしたり歌ったりして過ごそう。

「――――?」

 冷えた空気がどこかで震えた気がして、那珂は足音を忍ばせた。

 この廊下の並びには、確か提督の執務室があるはずだ。それに気付いて、那珂は口に手を当てた。「驚いた!」と、「しまった!」のポーズ。執務室では重要な話をしたり来客があったりするから、その周囲ではおしゃべりも控えてね、と秘書艦からよく注意されているのだ。靴音、うるさくなかっただろうか。那珂はひっそり執務室の扉に近づく。

「それでは――では? ……しかし……」

 提督一人分の声しか聞こえない。どうやら電話中のようだ。静まり返った鎮守府に響く提督の声。聞き慣れているはずのそれが、まるで別人のように冷え切っていた。底冷えする、背すじにくるような、低くて、表情がまるで読み取れない声。

 訓練場を出る前に覗いた入渠ドックはすべてに使用中の札がかかっていて、声から察するにあれは正規空母や戦艦たちだろう。そういえば、提督はいま新海域の攻略に取り掛かっているらしい。軽巡洋艦の自分に出番はなさそうな、そんな暗い暗い海の話だ。

 提督はいつだって、那珂や艦娘の前では笑っていた。そりゃ装備が壊れただの艤装が傷ついただの言えば苦笑いをしたし、無茶して怪我をすれば目を吊り上げてお説教をし、でも慌ててドックに入れてくれる。提督はいつだって優しい。

「――」

 受話器を置く気配。呼吸ひとつするのも躊躇われるような、妙な緊張感が、那珂の肩にのしかかった。

 那珂の手が、ゆっくりと胸元へ上がる。心臓を落ち着かせるように一呼吸して、また腕を引き上げ、口角あたりを揉み摩る。

 そして、音を立てぬよう、そっと踵を返した。

 軽やかなノック音が二つ、執務室に転がり込んできた。秘書艦の陸奥は入渠中のはずだし、遠征部隊の帰還にしても早すぎる。「はい」、思ったより強張った声が出て、誰に向けるでもない苦笑いが浮かんだ。書類の文字が、疲れ目からか、じんわりと滲んで見えた。

「提督! 那珂ちゃんでーすっ」
「那珂?」

 扉が開き、ひょっこりと那珂が顔を出す。ほんの少し上目遣いの、きらきらした笑顔。艦隊のアイドルを自称するだけあって、那珂の笑顔にはオーラがある。

 後ろ手で扉を閉めながら、那珂が私に歩み寄ってきた。

「提督の部屋あったかーい! あっ、そういえば新しい家具カタログが送られてきたって聞いたんですけど、新調しないんですか? こたつとかー暖炉とかー」
「いいねえ。こたつから出られなくなりそうだ」
「でしょー? で、そうそう、提督におすそ分けにきたんです!」
「おすそ分け?」

 那珂は少し得意げな笑みを浮かべ、「じゃーん!」なんて自分で効果音をつけながら細長い箱を差し出してきた。すわ何事か、と視線を落とすと、目に飛び込む間宮印。

「あ、間宮さんの羊羹? ……私に?」
「なんか急に食べたくなっちゃったんですけど那珂ちゃん一人じゃ食べきれないしーアイドル的にもダイエットもあるしでー、どうせなら提督と一緒に食べたいなーって! 時間的にもちょうどいいでしょ?」

 ね? と見事なウィンクを投げられる。確かに、時計はいつの間にかおやつ時を指していた。軽い昼食を取ってから何時間も経っていれば目も疲れるわけだ。

「そうだな、じゃあ今日は那珂に甘えようか」
「えへへ、皆のアイドル那珂ちゃんも今だけは提督のアイドルですよ?」
「光栄だよ。座ってなさい、お茶を淹れるから」
「えっ!? あ、て、提督っ、那珂ちゃんがすぐおいしいの淹れるから……」
「いいから」

 でも、となおも食い下がる不安げな顔をする那珂の頬に、人差し指を添える。手袋越しにもわかる、よく手入れのされたきめ細かい白い肌。那珂の大きな目が丸くなった。

「そんな顔せずに、笑って。ほら」

 空いた片手で自分の口元をつりあげてみせると、私の意図を汲んだのか、那珂は輝くように微笑んだ。「那珂ちゃんスマイル!」そう、つられそうになるようなこの笑顔だ。

「ありがとう、那珂」
「もう、別にいいですよー! あ、羊羹切っておきます!」
「頼んだよ」

 ――気配一つも読めなければ、こうして軍人として生きていけない。

 それに気付いているのかいないのか、それでも那珂は自分のスタンスを崩そうとしないから、私もそれに甘えることにしよう。優しい彼女へのせめてものお返しに、今日はめいっぱい美味しいお茶を淹れるのだ。