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「よう、ギアッチョ。飯行くぞ」

 暇つぶしにと開いたゴシップ雑誌を放り投げたと同時に扉を蹴破って入ってきたは、三人掛けソファを独占して寝そべっているのが俺だと気付いて意気揚々と近づいてきた。投げた雑誌がローテーブルに広げていた書類に滑って床に落下するが、俺もも無視した。

「メローネは居ねえのか?」

「居ねえけど」

「じゃあ行く」

 俺の返事がおかしかったのか、は喉の奥を鳴らして目を三日月にした。なんだか癪に障ったので睨むが、ヤツが飄々と両手を上げ「行くぞ」と短く言ったので大人しく立ち上がる。だらしなくなったソファのスプリングが情けなく鳴いた。

「どこ行くんだよ」

「向こうの裏路地にいいとこ見つけた。アクアパッツァが美味い」

「肉がいい」

「行けば魚の気分になる」

 歌うように言ったの頭はもうアクアパッツァ一色らしい。俺がどう騒いだって行先を変える気はなさそうだと諦め、のシャツの柄にケチをつけながら並んでアジトを出た。

 は前からよく俺をメシに誘った。というのもと俺の味覚はえらく似通ってるらしく、ヤツの馴染みのトラットリアは俺の贔屓になり、俺の行きつけのバールはヤツのお気に入りになるのが常だったからだ。チームで食事に行けば頼むものが被るなんてこともザラで、プロシュートなんかは俺かの片方の意見だけ聞いて注文を済ませることすらあった。それでも結局好みの味が出てくるから、やっぱり似てるんだろう。

「晴れたのはいいけど湿気でべたつくな」

「昨日まで降ってたからな……クソッ、イラつくぜ」

「どうどう」

「馬みてーに言うな!」

 少し前まで雨続きだったくせに、今日は鬱陶しいほどの晴天だ。頭上高く昇った太陽のせいか、昨日まで僅かに残っていた水たまりは影も形もない。襟元をいじるの左頬もまた、すっかりいつも通りだった。こいつがひょっこり帰ってきてもう二週間経つ。なのに俺はコイツが視界にちらつくのにまだ慣れなくて、落ち着かなくなる。

 新調したばかりでろくに慣らしてない革靴をカツカツ鳴らしながら、は「そういや」と呟いた。石畳を進み、角を曲がる。

「あのスフォリアテッラ。どうだった? 美味かったろ」

「悪くねえ」

「そりゃよかった」

 あの日、俺のスフォリアテッラを食った犯人がまったく悪びれない顔で「あれどこの? すげえ美味かった」と抜かしたから、すでに左頬が腫れあがっていたが関係ねえと俺はやつの鳩尾に向けて蹴りを一発お見舞いしてやった。崩れ落ちたそいつをブチ割るまではいかずとも氷漬けにしてやる気でいたが、代わりだと差し出されたスフォリアテッラが見慣れない店のもので、それがなかなか、いやもう一回食べたいと思う程度に美味かったからしぶしぶ許してやったのだ。

「慌てて買い直したもんだけど、口に合ったならまだまだ俺の目も捨てたもんじゃねえな」

「あれどこのだ」

「メルカートの二つ先の通りの。あそこらへんはよくジェラート屋が出てたけど、今は撤退しちまったのかね」

「最近見ねえからな。そうじゃねーの」

 メルカートの二つ先。クリーニング屋のある通りか。あそこらへんにあんなスフォリアテッラを出す店があるなんて知らなかった。

 が立ち止まり、日当たりの悪い裏路地のドアに手を掛けた。開いた途端、トマトとオリーブとニンニクのまじりあった空気が鼻先を掠める。思わずもうひと呼吸した。脳裏に浮かぶアクアパッツァ。魚の骨からじっくり旨味の出たスープと柔らかくほぐれる身。開いた貝。香ばしいパンの焼ける匂い。

「やっぱり肉にするか?」

 振り返ったのしたり顔に腹が立ったので、踵を蹴りつけてやった。


 の選ぶ店に文句をつけようとすると、店員の接客態度が悪いとか立地が悪いとか、そういう外側の面を愚痴ることになる。俺は口の中をべろりと舐め、魚介のいいところ全部をぶちこんだようなスープの余韻をなぞった。コイツの気に食わないところは山ほどあるが、この一点でそれら全部を打ち消してもいいと思わせるほど店選びのセンスはあると思う。

「ありがとう、とても美味しかった。アクアパッツァが食べたくなったらまたここに来るよ、ぜひ握手してくれ」

「そ、そうですかァ? 嬉しいな、こちらこそどうも……」

 会計を済ませた店員は差し出された手を握り、照れくさそうに笑った。そして気弱そうな顔をちょっぴり赤くしたそいつはぺこぺこ頭を下げ、店を後にする俺たちを見送る。それに対してはちらりとも振り返ることもしない。アンバーの瞳は俺を見てにやっと細まり、ヤツは「どうだった?」と答えの決まりきった問いをした。

「……悪くねえ」

「そりゃよかった。ギアッチョとはメシの趣味合うからいいわ、食べるスピードは合わねえけど」

「うるせえ、オメーが遅いんだろ」

「はいはい」

 人気のない裏路地をぶらぶら歩きながら、は機嫌よさそうに握手した右手を握って開く。先ほどこいつと握手した店員、あいつはあの一瞬で何が起こったか理解できただろうか。自分の掌から『何か』が抜き取られたことに、気付いただろうか。

「あの店員、ちょっとフィレンツェ訛があったな」

「……集め始めたってこたァ、任務出るのかよ?」

「まあな。たぶん、直近はお前とだけど」

「チッ。足引っ張ってんじゃねーぞ死にぞこない」

 にたっと悪人みてえに――いや悪人の顔をして笑ったの右掌に、ぱっくりと切れ目が入る。深い切り傷のようなそれは、血を噴くことはない。その切れ目がぐぐっと上下に割れ、ぎょろっと透き通るレンズが顔を出した。まるで一眼レフか映写機が掌に埋め込まれたような右手はの額に添えられ、額から顎へとまっすぐに下ろされる。

「――あ、アー、ンン。ひどいなァ、あの『アフアパッツァ』、気に入ったんでしょ? もっと感謝してくださいよ」

「言ってろ」

 一瞬の変身劇に鼻を鳴らす。咳払いをしながら俺に営業用の笑顔を向けるのは、僅かなフィレンツェ訛が耳につく気弱そうな目をしたネズミに似た男だ。猫背気味のひょろっとした体を自信なさげに丸める姿は、なるほど、さっきのトラットリアの店員そのものだ。

 のスタンドの擬態精度は、チームの誰もが認めるレベルに完璧だ。だが、無条件の無制約でもない。見知らぬ人間や紙面上の人間にはなれねえし、化けるためにはターゲットに直接触れなきゃならない。性格やらを誤認させる能力もねえから、成り替わる相手の研究も必要だ。面倒でくだらねえスタンドだが、コイツには似合いのスタンドだなとも思う。

 俺は黙ってネズミ店員を見下ろす。より身長が低くなったせいで余ったスラックスを掻きあげながら、そいつは怯えたようにどもった。「な、なんですかァ? 睨まないでくださいよ……」凝視していただけで、睨んだつもりはなかった。ヤツの擬態変化の境目はスタンドが視覚を誤魔化してるらしくあまり不自然に思わないが、実際のところどうなってるのか。骨格からして変わるのだから相当えぐいのかも。

「いや。相変わらず他人の猿マネが得意だと思ってよ」

「ンだとォ〜〜? テメー……馬鹿にしてんのか、この俺をッ!」

「お、俺の顔で喋ってんじゃねエーッ!」

「お前ほんっとうるせーな!」

 目の前の眼鏡をかけてねえ俺がぎらっと眼を鋭くしたが、すぐに相好を崩して左手を顔に宛がう。気付いたときにはもう一人の俺は金髪の男に戻っていた。左手で顔を撫でるのはスタンド解除の合図。変化は一瞬だ。

 何が面白いのかげらげら笑って、は革靴の踵を二度踏み鳴らした。縮んでまた元に戻ったせいか、靴のすわりが悪いらしい。

「帰るぞ。しっかしフィレンツェかァ、前に食べた屋台のトリッパが美味かったな」

「ほんっとオメー食い意地張ってんのな。メシ食ったばっかだっつーのによォ」

「いま食いてえとは言ってねえだろ」

 振り返らず裏路地を進むの背を黙って追う。目を離せばまた別の誰かになってるんじゃねえかと思ってじいっと後頭部を視線で殴っていたが、やつはやっぱり金髪のままだったし、振り向きもしなかった。