ペッシが鏡の中から出てきて最初に目にしたのは、床に見知らぬ男を引き倒し、馬乗りになっているメローネだった。思わずぎょっとして鏡の枠に跨るようにして動けなくなる。
メローネは左手で男の首を押さえ、だらだらと血を流す右手にダガーを握っていた。刃先は喉にひたりと押し付けてられている。下に敷かれている男に見覚えはなかった。床に散らばる金髪はプロシュートやメローネとはまた色味の違う、濃い金髪だ。
「おいペッシ、早くどけよ。出られな、い、だろ……」
出入り口で微動だにしなくなったペッシに焦れたイルーゾォがひょっこり顔だけ出したかと思えば、彼もまた同じように固まる。端から見ればまるでハンティングトロフィーが二つ並んだようで、いつもなら真っ先に爆笑するはずのメローネはこちらをちらりとも見なかった。
男に跨るメローネは昨日とはまた違った普通の格好をしていたが、「彼が本物だ」とペッシは直感で理解した。昨日のメローネより少し長いアシンメトリーカットは、彼の表情をカーテンのように覆っている。
「嘘だろ」
すぐそばで、イルーゾォの呟きが思わずといった感じでこぼれた。掠れた声はペッシだけがやっと聞き取れるほどの大きさで、たぶん口にしたつもりもなかったのかもしれない。
メローネは大きく息を吸い、吐いて、絞り出すように言った。
「アンタ、誰だよ」
彼のこんな弱弱しい声は、聞いたことがなかった。
「アンタ、誰だ。何のために……他のヤツならまだしも、その顔を使ったのが運のつきだったな……手加減なしでブチ撒けてやるからぜんぶ吐けよ。どこの人間だよ、どこでその顔……なんで……」
「メローネ」
「呼ぶな」
混乱したように取りとめなく呪詛めいた言葉を吐くメローネへ、男は一言呼びかけた。まるで自分の状況が分かっていないような、ゆったりした声だった。ダガーは男の頸動脈を確かに捉えているのに。
メローネの傷つけられた右手から流れる血が、ジャケットに染み込んでいく。そこでペッシは、男が着ているのが見慣れたチームメンバーの服であるのにやっと気付いた。
「メローネ」
「呼ぶなって」
「『メローネ。かわいい名前だな』」
聞き惚れる明瞭な発音だった。
何を言ったのかその場の全員がわからなかったが、たった一人だけは理解できた。そのたった一人、メローネはダガーを握る手からふと力を抜き、床に転がした。鋭い刃先が首筋をなぞり、ぷっつり切り傷を残したが、男は構わなさそうに笑う。
「……なんだね」
「ああ」
「生きてる、んだね」
「残念ながらな」
男はメローネを乗せたまま、のっそりと上体を起こした。場所が悪かったのか浅いはずの傷からは血が滴り、白いジャケットがさらに血に染まる。あれはクリーニングで落ちるかどうか、とペッシの思考がよそに飛びかけたとき、意識の端で動く気配があった。
今までリーダーの隣で事態を静観していたはずの黒のスーツの男は、金髪の男へ黙って歩み寄る。
「おい」
「あ?」
男が顔を上げた瞬間、プロシュートの拳が振り上げられた。
「だ」
左頬を真っ赤に腫らし、首にガーゼを当てた満身創痍の男は、ソファに身を沈めながらそう名乗った。テーブルを挟んで向かい合うように座ったペッシも慌てて言う。「ペッシです」緊張しているペッシはそれだけ言うのが精一杯で、見合いかよ、とイルーゾォが茶化した。
「ペッシ。昨日は悪かったな、脅かして」
「昨日……? え、ええと、初対面っすよね」
ペッシはまじまじと男、を眺めた。濃い金髪とアンバーの瞳。自分の兄貴分もずいぶんな美丈夫だが、彼もまた街中では人目を惹くだろう。会ったことがあるなら見覚えがあって当然の顔立ちだったが、さっぱりピンとこない。
は、切れた唇を気にしながら、右手で顔を覆った。
「気付かれたんじゃねえかとか色々考えてたけど杞憂だったか。まあでもディ・モールト痛くて面倒なことになったし、昨日のうちにバラしときゃよかったのかもしれないなァ」
「え、……え?」
喋っている間に、まるでギターをチューニングしたように声色が変わった。雰囲気が、髪が、顔つきが変化する。の右手が通り過ぎたあと、その下に瞬いた瞳は狼のそれではない。
右目にかかる金髪を鬱陶しそうに払うその男は、まさしく“昨日見た”男だった。
「め、めめメローネッ!?」
「ンー、やっぱ髪の長さ違うかな。アンタから見てどうだい?」
「ベネ! 動く写真見てるみたいでディ・モールト面白いよ」
「それにしてもメローネ、ホルマジオの服似合わねえな……」
血で汚れたジャケットの襟をいじって、メローネはいたずらっぽく笑った。「そうかい?」愉快そうな声も、そっくり。彼の左隣を陣取るメローネと顔を合わせて含み笑いをする姿は双子というにも似すぎていて、まるで間違い探しをしているようだ。
「あ、もしかしてこれもスタンド……」
「『他人に化ける』――この一点特化な上に条件付きで、攻撃にはクソほども使えねえスタンドだぜ。おら幽霊野郎、顔戻しな」
「能力のくだるくだらねーってのは使いようだっつってんだろ……いで」
後頭部を叩かれたメローネが左手で顔を一撫ですると、その顔は見慣れぬのものになる。一瞬の変化をペッシは見逃したが、彼の頬の腫れが先ほどよりひどくなっている気がして、痛くもない自分の頬を摩った。
乱暴に投げ渡された氷の詰まった袋を頬に押し当てると、は痛みか冷たさかに目を細めた。どっかとペッシの隣に腰掛け、プロシュートも濡れタオルで右の拳を冷やしながら溜息を吐く。
「その、さん、もチームのメンバー……ってことでいいんですかい」
「ああ。一年以上前の任務からようやっと帰ってきた野郎だ」
「い、いちねん」
「だからァ」
「これのせいなんだろ」
問いかけというより、確認のような声色だった。メローネは了承も取らずの着たジャケットとインナーを遠慮なくめくりあげ、その下にあるものを晒した。の右隣に座ったイルーゾォがひょっこり身を乗り出して、「うげ」、小さく声をもらした。
鍛えられた胸からあばらとわき腹にかけて、白い裂傷の痕と引きつった火傷が組み合わさり、まだらの蛇のように大きくうねっている。今は見えないが、きっと背中にも伸びているだろう。古傷には見えない、これは新しい傷跡だ。
「まだ痛む?」
「いや、もうほとん……バカかテメー頬は痛いに決まってんだろうが触んじゃねーぞ」
「ああ、だ。んふふ」
こっそり腫れあがった頬に伸ばしていた手を叩き落とされ、胴に肘打ちを食らっても、メローネは嬉しそうに笑っていた。
プロシュートは黙って大きな傷を眺めていたが、呆れ顔で「一年だぞ」と呟いた。
「怪我して動けなかったっつーのが言い訳か」
「まあ」
「だとしても連絡くらいしろよッ、電話するとかあったろうが!」
「携帯壊したし、番号も忘れちまってね」
正論を言ったはずのイルーゾォは、あんまりに堂々とした開き直りに唖然とするほかない。ばかじゃねーの、と力なく言うと、ぼすんと背もたれに身を任せる。
沈黙を縫って、思い出したように雨音が部屋に戻ってきた。が袋の中の氷をカラコロ鳴らすと、プロシュートはふと思い出したように言った。「」
「スフォリアテッラは買ったか?」
「は?」
「ブチ割られたくなきゃ用意しといたほうが身の為だぜ」
それだけですべてを正しく理解したは、苦々しく頬を痛めながら笑った。「そっか。そりゃ美味いはずだ」軽口を叩く余裕もある。
「これ以上殴られたくねえし、着替えたら出るわ」
「全員分だぞ」
ぼそっと付け加えたイルーゾォに、はちょっと物言いたげにしたが、結局何も言わずにメローネをくっつけたまま出て行った。
「ったく」
苛立ったようにプロシュートはソファを軋ませたが、その目が言いようもなく和らいでいるのに気付いて、ペッシの見知らぬ男への緊張がやっと緩んだ。あの兄貴がこんな顔をする相手なら、大丈夫だ。伸びていた背をちょっと丸め、同じようにソファに体重を預ける。
これはある雨の降る日、という男が暗殺チームに帰ってきた日の出来事だ。