チョコレートが食べたい。
頭が痺れるくらい甘くて、幸福感で満たされるようなやつ。フルーツが入っていてもいい。ヌガーも恋しい。ジャンドゥーヤの香りでいっぱいになりたい。
そういう気持ちで無心に電子カタログを眺めていたので、ふと背後から影が被さるまで、近づいてくる気配に気づけなかった。
「おい」
見上げる。ラウンジの照明を背負う黒いスーツ姿。換装体の二宮だ。標準装備の真顔もいつも通り、調子は悪くなさそうに見える。
「お疲れ。訓練終わり?」
「ああ。お前も全体訓練終わりか」
そう、と頷く。実は、訓練終わりからは既に三十分も経っている。没頭していたわけでもないのに、ずいぶんとぼんやりしてしまった。
「何を見てる?」
「ああ、これ。そろそろ時期だから」
二宮が上半身を倒したので、手元の端末を持ち上げる。
眺めていたのは三門市周辺のバレンタインフェアをまとめた記事だ。ショッピングモール内の催事場の案内図、有名パティスリーの限定品、期間限定で出店している一粒売りチョコレートショップの一番人気。魅力的なチョコレートが芸術品のように整列している画像が並べば目移りしても仕方ない。
トリュフ、マンディアン、オランジェット、ザッハトルテ。彼の少し色素の薄い目が細められて、いま二宮の頭の中には膨大で複雑なカタカナがたたき込まれているんだなと思ったら、少し面白いような気がした。
「詳しい? そもそも好き?」
「いや。嫌いじゃないが、とくにこだわりもない」
「じゃあ気になってる店があって、梅見屋橋なんだけど。菜香楼のランチついでにどうかな」
ゆるりと視線が画面から戻ってくる。
「二宮も気に入ると思うよ」
これまでの経験則からの言葉だが、きっと間違っていない。事実、二宮も否定しなかった。頷き未満の身じろぎと、吐息混じりの肯定のようなものが返る。
「……ああ、構わない。週末でいいのか」
「ありがとう。限定品が欲しいわけじゃないし、問題ないよ。あとで詳細送っておくね」
「わかった」
話が早くていい。私は一体化しかけていたソファから体を引き離し、なんとか立ち上がった。肩口の髪を払い、背中をぐっと伸ばす。
隣に並んでも見上げなければならない二宮がもの言いたげな目をしている気がしたけれど、私は何も聞かずに笑っておいた。
当日は底冷えする寒さだった。
これまでと同じように予定を合わせて、何度か待ち合わせた駅で合流する。いつの間にか二宮と連れ立って出かけることにも慣れた。彼がこちらの歩調に合わせて長い足を動かしていることも、今日のコートがこの冬に新調されたものであることも、なんとなくわかるようになっていた。
口を動かすのも億劫で、二人とも静かに歩き出す。頼みの綱のカイロがぜんぜん温かく感じないので、祈るように両ポケットの中でぎゅうぎゅうと揉みしだいた。
「寒さが体に響くね」
「ああ」
「去年こんなに寒かったかなって毎年思ってる」
「ああ」
「そういえば、今日のお店はかなり種類があって」
「」
その声を聞いて、なんとなく身構えた。
ただ名前を呼ばれただけだというのに。例えるなら、子どもが叱られる前に抱く直感みたいなもの。
「お前、何かあっただろう」
静かな声、でも芯があった。責める意図はまったく感じられない。本当にただの確認だが確信はある、という声色。
「そう? でも、大丈夫だよ」
私は視線を彷徨わせないように二宮を見上げ、あえてしっかりと顔をのぞき込んだ。こういうときこそ冷静に状況を見極めることが大切。東さんの教えのひとつ。
「ありがとう、本当に大したことないんだ」
「……」
「そうそう。今日のお店は種類が豊富らしいんだけど、二宮はプラリネとガナッシュどっちが好き?」
「お前がそうやって話を逸らすのはいつも、都合が悪いときだ」
「はは」
直球な言葉に、素直な笑いが零れた。ばつが悪くなるくらい図星である。私が二宮に慣れた分、逆もまた真なりということか。
私からのぞき込んだ手前、目を逸らせば負けだ。しかし脛に傷を持つ状態では二宮の凪いだ瞳を見ていられる気もしない。削られて圧される感覚。スコープ越しでない今は到底勝てる気がしない。急に足元がおぼつかなくなった気がして、私はとうとう目線を足元に落とした。ブーツのつま先を眺める。ああ、うん。転ばなくてよかった。
「どこか変だった?」
「そうだな。なんとなくは」
「いつも通りやってたつもりだったのにな」
息が白く濁る。冬は呼吸のタイミングがあけすけだから、ため息に見えないように意識して深呼吸した。
単に、少し考えることがあっただけだ。それを易々と見破られただけ。
あの日、隊を組んでほしいと相談された。
狙撃手の合同訓練などでやりとりすることが多かったC級隊員たちだった。今度B級に上がれそうなんです、と報告されたときにはとても喜ばしかったが、それに続いた言葉には思わず目を丸くしてしまった。昇級が決まってあれこれ調べているうちに現東隊の成り立ちを知って、私に東さんのようになってほしかったんだろう。「さんに引っ張ってほしいんです」とキラキラした目で言われて、嬉しく思わなかったとは言わない。
でも断った。チームは組めない。皆が経験を積むための補助役をするつもりだから狙撃手としての手ほどきはするけど、どこか一つに所属するつもりはない。ラウンジで膝をつき合わせて、強く握りしめられて白くなった指先を解きながら、ひとつひとつ誠実に説明したつもりだ。
「そしたら泣かれた。ちょっと効いたな、人に泣かれるの」
勇気を出して言ってくれたのが伝わって申し訳なさもあった。それでも最終的には笑って受け入れてくれた背中を励まして送り出したのだ。この話はきちんと終わったのに、涙に怯んだ頭の一部がびっくりしたまま余計なあれこれを考えていただけ。それが聡い二宮に伝わって、こうやって気を遣わせている。
もう疚しいことはない。私は街路樹の間を行き来していた視線を持ち上げ、ちゃんと二宮に戻した。彼はちらりと流し目を送り、細い煙を吐いている。もう気圧されない。いつも通りで安心する。
「二宮も、後輩に泣かれたら高いチョコレート買うといいよ」
「ためにならないアドバイスだな」
そりゃできればそんな日は来ない方がいいが、いざというときの薬を知っておくことは意外と大事だ。トリオンの回復が休息でしかできないように、素早い立て直しのためには適切な対応が必要なのだし。
「あ、あった。そこの角を曲がったところ」
ポケットから手を引っ張り出して、冷えた空気を混ぜながら目的地を指さす。店内に延びる列がここからでもわかった。大々的に宣伝していたし、そういうシーズンだから驚きもしない。二宮はこれにも付き合ってくれるだろう。信頼だった。
しかし、列の最後尾に着いたところで新たな問題点が浮上する。
「どうした」
「どれにしようかなと」
「……目星はついてるんじゃなかったのか?」
「つけたつもりだった」
二宮の薄い唇から細い吐息が漏れた。これには含意がない。ただ興味がないんだろう。いま二宮の興味はいつ店に入れるかの一点だと見える。概ね同意だ。私は片手でカイロを揉みながら、空いた片手で商品一覧のページを立ち上げた。
事前にホームページもカタログも見てはいるのだ。狭い店内で注文前に悩んでは他の客への迷惑にもなりかねない。理性ではわかっていても、ふと湧き上がる「それでいいのか?」という囁き。二宮は割と判断が早いので、ここにきて迷いを出した私の横でしーんとした顔をしている。ここが二宮と私の差だろう。あるいは執着心の差といってもいいかもしれない。
「定番もいいし今年の新作もおいしそう。普通にタブレットも捨てがたいな。二宮は決めてる? なに買うの?」
「適当だ」
「てきとう」
これは「うどんの一味ってどれくらい入れる?」とか「緑茶の濃さってどのくらいがいいかわかる?」とか聞いたときとまったく同じ文脈の『適当』だ。たまに放られるこういう雑さを知ると、二宮が私と同い年の男子学生である実感が湧く。B級一位の射手である二宮匡貴も寒さには勝てないし、適当な買い物もするのである。
結局、店内に入ったのは私が最終候補にさらに三種類を追加したころだった。早かったか遅かったかはなんとも言えない。足を踏み入れた瞬間、体全体を包み込むような甘くて香ばしい空気がさらに判断力を鈍らせた。あれだけ求めていたチョコレートが眼前に美しく並んでいる光景。劇薬だった。
「二宮、どうしよう」
意味はないとわかっていて問いかけた私を見て、す、とショーケースを指さす影があった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。上段から下段まで、規則性のない順序で艶やかな粒が選ばれる。
「お前はあれが好きだろう」
私の視線が指定されたものを二周したとき、胸に深い納得があった。それは神託だった。揺れていた心がぴたりと落ち着く。
二宮の腕を掴んで、私は静かに言った。
「……私のも適当に選んでくれる?」
そんな経緯があって選ばれた今年のバレンタインチョコレートは、二宮の迷いないチョイスの切れ味通り、そのどれもが素晴らしいものだった。私は二宮が会計を済ませている間にタブレットチョコを二枚追加で購入し、片方を二宮の紙袋に突っ込んでおいた。お礼のつもりだった。諸々の。
帰宅後に覗いたボックスの中で個性豊かに並ぶチョコレートはどれもこれも、普段選ばないようなものまで美味しかった。わかられてもいるんだな、という生ぬるい感覚を内包した一箱を、私は噛み締めるように味わうことになる。
なお、チョコレートで一日分の迷いを吹っ切った私は菜香楼のランチをメニューを一瞥して直感で選ぶことにした。
「干焼蝦仁、ご飯を炒飯に変更してBセット」
「……同じのを」
低い声が後を追うように言葉を付け足した。
逆もまた真なり。冬にエビチリを食べると、未だに思い出すエピソードである。