ネアポリスの街は、朝から降り続く霧雨で紗がかかったようだった。分厚い雲が隙間なく空を覆うせいで昼間だというのに薄暗く、立っているだけでじっとりと全身が濡れそぼるだろう外を眺め、ペッシは長い溜息を吐いた。こんな日に買い出し当番だなんてついてねえや。そう毒づいてみるものの、チーム内の下っ端中の下っ端“マンモーニ”であるペッシに拒否権などない。
動くのも億劫だと言わんばかりにソファに深く腰掛け、晴れてくれやしないかと天を睨んで十五分。晴れるどころか雲が流れる気配すらない。
「行くしかねえかァ〜……」
霧雨の中で傘を差したってどうせあまり意味はないが、荷物を濡らして煙草が湿気てるだのなんだの文句を言われては困る。いざとなれば自分より荷物を優先しよう、とペッシが意気込んだところで、背後で何かがギイ、と軋んだ。
気配なんてなかったのに。慌てて振り返ると、面食らったような金髪の男が扉のノブを持ったまま立っていた。
「メローネ?」
口から漏れた声は、図らずも疑問形になってしまった。
無作為にハサミを入れたようなアシンメトリーな金髪の男なんてそう居るわけじゃないのにそこに居るのが一瞬誰だかわからなかったのは、薄暗かったせいだけじゃない。あの渦巻模様でつやつやした切れ込み入りの服じゃなかったからだ。ごく普通のシャツにごく普通のスラックス。ついでに片目だけ開いたマスクもない。
メローネはゆったり瞬いて、「なに?」とだけ返した。
「い、いや。ちょっとびっくりしただけだよ」
「俺がアジトに来ちゃ悪いのかい」
「悪かないけど……せっかくの休みだって言ってたろ?」
そうだ。次の仕事がひと段落したらちょっとした休みが取れるとギアッチョに散々自慢して、まだ任務のある彼に蹴飛ばされていたのは記憶に新しい。そのとき巻き添えを食らったせいでリビングの扉はギイギイ軋むようになってしまった。その扉をもう一度軋ませながら閉じて、メローネはリビングをすいすいと通りすぎ、クチーナへと身を滑らせる。
「休みだったよ。でも久々に部屋に帰ったらさァ、冷蔵庫が空っぽで。だったらアジトで何か済ませようかなって」
「買い物したり、バールとかで済ませりゃいいんじゃ」
「節約だよ。セツヤク」
そう言われれば黙るほかない。そっか、節約か。ペッシはおうむ返しして神妙に頷いた。暗殺チームの懐事情は彼も知るところである。
ガコ、と旧型の冷蔵庫が開かれる。
「ンン? こっちも寂しいな」
「あっ……そうだ、俺買い出しに行くとこで」
「お、スフォリアテッラ。なァ、カッフェ淹れてくれよ」
「ええ? お、俺が?」
「嫌なのか?」
カウンター越しのクチーナで、メローネが小首を傾げる。ザク切りにされた金髪が流れ、いつも半透明のマスクに隠れる右目が露わになった。いつもと違う格好をしているだけなのに、まるでメローネじゃないみたいだ。
「買い出しなんてカッフェ一杯のあとでも十分だろ? 熱いの引っ掛けて体を温めてから出るべきだぜ。なんてったってこの天気だし」
「……うーん。わかったよ」
メローネの言うことももっともだ。ペッシは頷いて、メローネと入れ替わりにクチーナに入る。彼は誰かのスフォリアテッラを素手でつかみ、行儀悪くかじった。「バレたら怒られるぜェ」「一個だけだよ」
ペッシはマキネッタの準備をしながら、カウンターにもたれ掛かるメローネをちらっとうかがった。サクサク音を立ててスフォリアテッラを食べすすめるメローネはどこかぼーっとして眠たげだ。
「今日のアジトはやけに静かだな。誰も居ないのか」
「ああ、みんな任務だの用事だので出払ってて……兄貴も今回はイルーゾォと出ちまったから俺は留守番兼買い出しってわけ」
「置いてかれちまったのか。あはは」
「わ、笑うなよォ」
それからマキネッタが音を立てるまでぽつぽつと話す間も、メローネはどこかぼんやりしていた。そういうペッシも、太陽が隠れているせいでハッキリ目覚めた気がせず、朝から眠気がまとわりついている。お互い中身のない会話の間に数回あくびをかみ殺していた。
「メローネ、入ったよ。熱ィから」
湯気を上げるカップを差し出すと、気もそぞろなメローネがグラツィエと手を伸ばす。外の天気とは正反対の歯切れのいい発音だ。まるで国語の教師のような。
「あッつ!」
「うわっ、もう何やってんだよォ! 熱いって言っただろ」
「悪い悪い」
ろくに話も聞いていなかったらしいメローネは、案の定やけどしたらしい長い舌をべろりと出した。それを反面教師に、ペッシは慎重にカップに口を付ける。じんわりと喉元をすべり落ちていく熱のおかげで、思ったより体が冷えていたのが分かる。ほう、と息を吐くと同時に、メローネが何事かを呟いた。「兄貴か」、そう聞こえた。
「え? 兄貴がどうしたって?」
「いや、お前の兄貴分は頼りになってるかって」
「当たり前だろッ、兄貴はいつだって頼りになるさ! 兄貴は本当にすげえんだ……そうだメローネッ、聞いてくれよ、この前兄貴に褒められたんだぜ!」
「ふうん、そりゃすごい。よかったじゃないか」
ふうん、だって。聞いてきたのはあっちなのに、びっくりするくらい気のない返事だった。
いささか興を削がれたペッシは、また黙ってカッフェを含む。どんより曇った外はカップ一杯分の時間でも晴れない。天気予報では明日まで降り続くらしい。
「ご馳走さま。じゃあ買い出しがんばれよ」
「カッフェ代に手伝ってくれたりしねえのかい」
「しないね! 帰って寝るさ」
意地悪く笑ったメローネは、カップをカウンターに放置したまま、本当に行ってしまった。来た時と同じように掴みどころなく消えたその後ろ姿を見送って、ペッシはもう一度窓の外を見た。どうやら荒れそうだ、と慌ててペッシも飛び出す。
そしてペッシの予想通り、その日の夜は“大荒れ”だった。
「俺のスフォリアテッラを食ったヤツが居やがる」
怒りを押し殺そうとして失敗した声色で、任務帰りのギアッチョが歯ぎしりしながらそう言った。テーブルでポーカーに興じていたホルマジオとイルーゾォ、プロシュートがちらりと顔を上げたが、「知らねー」「同じく」「知らねえな」と各々同じようなことを返して駆け引きに戻っていった。今日の敗者にはバールでの支払い権が与えられるらしい。
その中で、ペッシだけが返答しそこねた。ここに居ない犯人を知っているからだ。ワンテンポ遅れたペッシが「何か」知っているらしいと踏んだ鋭い男は、眼鏡の下の目をぎらぎらとさせて詰め寄る。
「テメーか? ペッシ……」
「ち、ちげーよッ。昼間、メローネが」
「メローネェ〜〜?」
ギアッチョの瞳が、剣呑な光を帯びた。火に油を注いだ、と気づいたが時すでに遅し、凶悪に眇められた双眸に射殺されそうなほど睨まれ、思わずペッシは両手を上げた。昼にメローネが使ったカップが、まだカウンターにぽつんと放置されていた。
「あンのクソ野郎ッ! どこまでも俺をイラつかせやがってええエエエ」
「……何を騒いでいる?」
今にも壁を蹴りはじめそうなギアッチョの声に呼ばれたのか、リビングに顔を出したのはリゾットだった。相変わらずどこか不健康そうな顔だ。実はメローネが、とペッシが事情を説明したところ、意外なことにリゾットは眉を寄せてペッシを制した。
「どうしたんですかい」
「ペッシ。それは本当にメローネだったか」
「は?」
「メローネの休暇は昨日の夜中に取り止めになって、今頃はローマで任務中のはずだ」
口の端が引きつった。