「チョコくれよ」
インターホンに応えて扉を開き、夜気を纏った男がべろんともたれ掛かってきてからの開口一番がそれだった。
なあ、と返事を待つ気のない男が頬をすり寄せてきて、ヒゲが首元をザリザリと撫でる。すり下ろされるリンゴ、あるいはアスファルトで転んだ子どもの膝小僧の気分。痛い痛いと邪険にすると、三度往復したあとようやく動きが止まった。服から煙草と酒の匂いがする。正真正銘の酔っ払いである。
「えーと、なに? チョコ? ないよ」
「なんで。一個もねえの」
「一個もない。私がチョコ嫌いなの知ってるでしょ」
「バレンタインなのに?」
「聞いたら要らないって言ったから」
「いつ」
「一昨日!」
はて、と言わんばかりの表情。記憶にございませんとテロップを付けるにはまじめさと老獪さが足りない間抜けな顔だ。
「……あー、お前、二日酔いのときにそんなこと聞くほうが悪いだろ」
「知らないよ」
「マジでない?」
「マジでない」
「そんなこともあろうかと」
靴の紐をぐちゃぐちゃにしながら、私にじゃれついていた酔っ払いがのそりと家に上がり込んできた。ちょっと、まだ上がっていいとは言ってない。
私の体を器用に反転させて、太刀川が後ろからのしりと抱きつく形になる。せっかくの下ろしたての部屋着に居酒屋の空気が染み付いたら嫌だなと思っていると、前でクロスした手がビニール袋をぶら下げていることにやっと気づいた。
嫌な予感。しかも当たるタイプの。
「作って」
「あー、やっぱり?」
「材料全部買ってきたから、これで、作って」
お願い、と人質に取られたも同然のうなじをザリザリされて、腕を叩いて抵抗する。ついでに吸い付かれたので本気で殴っておいた。
「えー、…………やっぱやだ、面倒くさい。ちょっと考えてみたけど、自分で食べないもの作る気分じゃない、死ぬほど面倒」
「そう言うなよ、全部あるんだぞ。全部。ここに」
「いたいいたい、痛いって」
嫌がるのをわかっていて、それでもたたき出されない自信がある振る舞いだ。この男は踏み入るところの線引きがやけに上手いので、私はいつも追い出すタイミングを失い続けている。
「俺が可哀相じゃないのかよ、バレンタインなのにチョコのない俺が」
「繰り返すけど、あなたが要らないって言ったんですよ」
「言ったかもしれないけど撤回」
「朝令暮改やめなよ」
「お、悪口か?」
面白がるような声色。微妙な反応だ。ボーダー推薦で辛うじて大学に入った男であっても四字熟語くらいわかるはずだが、妙に不安にさせられる。
ザリザリ。鳩尾あたりでビニール袋がゆらゆらしている。
「なあ、期待してたんだぞ」
「無駄な期待をしてたわけですね」
「つめてえやつ」
「いた、……冷た、冷たい! ばか!」
太刀川は最終手段と言わんばかりに、極寒の二月を歩いてきたままの素手を部屋着の中に突っ込んできた。冬の夜の概念みたいなものが意思を持って動いている。私の腹から腰周りを行ったり来たりして好き勝手に暖を取る太刀川が「あったけー」と声を蕩かせた。そりゃそうだろう、こっちは三十六度あるんだぞ。
油断していた男の足をギュウと踏みつけ、私は二人羽織のような格好から脱出した。大して痛くもないだろうに、律儀にしゃがんで痛がる姿には騙されない。
「ひでえ」
「どっちが。蓮ちゃんに訴えたら私が勝つよ」
「それはずりーだろ。俺は誰に訴えたらいいんだよ」
誰だろう。冬島さんあたりならのらりくらりとした調子で肩を持ってくれるんじゃないだろうか。最後まで味方でいてくれるかはわからないけど。
私は縮こまっている太刀川を見下ろして、いつものパターンに飲まれかけていることを自覚した。
「ねえ、作らないと帰らないつもりでしょ」
「そりゃまあ」
「開き直るな」
「いいじゃん。俺を助けると思って」
こちらを見上げてくる目。ランク戦で斬り合いをしているとき以外はいつも眠たそうにしている意外と可愛い目。これは欲目か。
「……なに作らせるつもりなの」
「お」
嬉しそうに弾んだ声が癪に障って、私は座ったままの太刀川の額に渾身のデコピンを贈った。
「オーブンで五十分、五時間冷やす……最初から泊まる気だったの」
「バレたか」
レシピ動画を流し見しながらエプロンの紐を後ろ手で結んでいると、カラスの行水で出てきた太刀川が乱雑に髪の水気を取りながら近寄ってきた。私のシャンプーの匂いがする長身の男は何度見ても存在感がある。
「なんでこんなの食べたいの」
「甘いものが食べたい気分だったから」
「もっと一時間でできるやつとか……」
「オーブン、これ余熱してんの?」
「これからするの、危ないから向こう行って」
この男はブレード型トリガーは誰より上手く扱うくせに、本物の刃物を持たせると割と危なっかしくて見ていられない。もしかすると私が我慢弱いだけで、放任主義で置いておけばきちんとできるのかもしれないけど。
「なんか手伝う?」
「じゃあチョコレート細かく割って、二枚とも」
「うん」
狭いキッチンに太刀川が立って、風呂上がりの肌と触れあう腕が温かい。ていうか温かい体でチョコレート割ったら手がべたべたになるから、ちゃんと包み紙越しにやるか包丁で砕きなよ。言おうと思って、いややっぱり我慢弱いのかな、と口を閉じた。いくらなんでも子ども相手みたいな台詞すぎる。
クリームチーズに砂糖を加えて練りながら、口の中に辛みの強いガムを放り込む。隣から漂う甘ったるい匂いをかき消すためだ。
「今夜は寝かせるから、明日の朝ちゃんと食べてよ」
「食べる食べる」
「でも半分だけね。もう半分は蓮ちゃんたちにあげるから」
「んー」
パキ、ポキ、と軽い音。生返事なのは熱中しているからだろうか。ボックスから延々とティッシュを引き出す子どもか、新聞紙を破るのが楽しい猫。一八〇センチの成人男性を前に抱く感想じゃないな。
「……風呂上がりの手で割るのやめなよ、溶けるよ」
「どうせ溶かすし一緒一緒」
ついでに我慢に負けてあしらわれた。板チョコ二枚を小山にして、親指を舐める太刀川。そんな適当だからきなこ餅禁止令なんて出されるんだろう。やっぱり私が我慢弱いんじゃないのかもしれない。ちょっと自信が湧いてきた。
温めた生クリームで砕かれたチョコレートを溶かし、練ったクリームチーズと合わせる。空気の甘さはガムの清涼感が薄れそうなくらい。
「もうできる?」
「粉ふるって焼いて冷やしたらできる」
任せた仕事が終わったかと思えば、大きな体が私に覆い被さるようにくっついてきた。正直ものすごく邪魔だが、湯上がりの体がまだ温かかったので好きにさせておく。背中が温かいと気持ちがいい。
型に向けて生地がとっぷり注ぎ落とされる様を見て、背中の塊が興味深そうな声を上げた。びりびりと伝わる振動。
「すげえ、ぽいな。さすが」
「夜になってからこんなのするの面倒だから次はやめて」
「はいはい」
なんて信用ならない返事だろう。前科持ちの自覚はあるのか。
去年はそろそろ寝ようとしたところに「唐揚げ作ろうぜ!」とか言う非常識なヒゲ男がやって来て、すったもんだの押し問答のあと、深夜一時に揚げたての鶏の唐揚げと白米とキャベツとマヨネーズが机に並ぶことになった。あの件に関しては私も変なテンションで深夜の唐揚げ丼にはしゃいでしまったので、あまりうるさくは言えないが、だとしてもあれを許してはいけなかったのでは?
振り返れば、私は太刀川に甘すぎる気がしてきた。ゲリラ的リクエストに際限なく答えていては示しがつかない。ここでガツンとひと言伝えて、太刀川の中の私の認識を改めさせる必要がありそうだ。都合のいいやつ、とか、チョロいやつ、とか。そういうの。
「太刀川って私のことなんだと思ってるの」
「んー、好きだと思ってる」
予想だにしない返答に声を失っていると、うなじをザリザリしていた太刀川がふと首を伸ばして唇をくっつけてきた。
「うわ、ミント辛いな」
喉の奥で静かに笑う声。振動。なんとなく腹が立って、私は黙って太刀川の脇腹をつねった。「いてて」痛くなさそうな声。
翌朝、私は絶句した。
「お。おはよう」
勝手知ったるという様子でお湯を沸かしてインスタントコーヒーを溶いている太刀川はいい。その手にあるのが私のお気に入りのマグカップなのもまだ許す。
でも、この蛮行はどうだろう。
「……半分って言わなかった?」
「いつ」
「昨日!」
既視感のあるやりとりをしながら、私はテーブルの上の惨状を見下ろした。
昨夜、私が混ぜて焼いて固めたテリーヌ。型からきれいに外されたブロックくらいの塊は艶やかなチョコレート色をしていて、過不足なく成功したことはわかる。でもその上に、白いチョコレートペンで「太刀川けい」とでかでか書いてあるのはなんなんだ。『慶』を頑張った跡すらないのがいっそ清々しい。
「俺のチョコだから名前書いといた」
まったく当然だ、と言わんばかりの供述だ。確信犯だといってもいい。
私は何かを言おうとしたが、急にふと全ての気力を失って、太刀川の持っている黒いマグカップをもぎ取って口を付けた。まだ砂糖が入る前のいつもの味だった。
「……ちゃんと全部食べてね」
「任せとけ」
太刀川は自信ありげに笑って、テリーヌを切り分けもせず、フォークを差し入れた。