とある夜の話 


 甘やかしすぎだ、と甘やかされ慣れしたらしい二宮に言われたことがある。

 もともと世話焼きなほうだという自覚はある。知識を身につけるのは楽しいし、その延長線で人にものを教えるのも苦じゃない。慕ってくれる年下はかわいい、懐いてくれているなら優しくしたい。だからこそ後輩たちから頼れる、とかいざというときの、という扱いをされがちなのもなんとなくわかる。自分でいうとなんとも面映いものだが。

「東くん」

「ん、どうした。なんか食えないものあったか」

「ないけど」

「じゃあなんかまずい?」

「おいしい」

「そうか」

 だから、これはその癖が年下だけじゃなく、同い年の女にも発揮されているだけだ。

 彼女はテーブルを見つめ、まだ温かい料理の数々を前にぼんやり座っている。彼女もそれと同じくらいほかほかしている。タオルドライしたとはいえ、まだすこし湿った髪がちょっと冷たそうに見えた。あとでドライヤーを貸してやろう。

「知ってたけど」

「ん?」

「東くん、料理できるんだよね」

「まあ、釣りすると捌いたりもするからな」

「なんでもできる」

「なんでもはできない」

 真ん中の大皿には今朝多めに解凍しすぎた肉を市販のたれで焼いたもの。この前の休みに作った副菜が二種類、コンビニで買い足したサラダ、ちょうど残っていた豆腐を半分ずつ。味噌汁はもう面倒だったのでインスタントで済ませてしまった。

 即席の割に、案外ちゃんとした夕食になったんじゃないだろうか。甘さやロマンを語るには所帯染みた食卓にはなったが、今の彼女にはそういう飾りはいらなかっただろう。

 俺は今日、こいつを拾ってきた。

 ボーダー本部での用事を終えてさて帰ろうかというところ、ベンチで荷物を抱え込んだまま身動ぎもしない彼女を見つけて、どうにも無視できなかったからだった。

「風邪引くぞ」

 まず声をかけて、反応がなかったのでちょっと肩を叩く。服のすぐ下で肩骨の感触がくっきりとあった。俺は眉を顰める。彼女が細身なのは昔からだし、今だって一見して華奢だが、それにしても痩せっぽちすぎると思ったからだ。

 は、と音と呼吸の間みたいな声を出して、彼女が顔を跳ね上げた。一瞬だけ混乱した視線がこちらを見て、はたと落ち着く。

「……あ、東くんだ」

「うん、もしかして寝てたのか?」

「寝てない寝てない、起きてたよ。ぼーっとしてただけ」

「お前、そういうところ意外と信用ないからな」

「ええ? ないかあ、困ったな……」

 彼女はへらへら笑って、お疲れさま、と言った。そっくりそのままこっちの台詞だった。疲れています、と頬に書いてあるような顔色をしていたからだ。彼女の携わる業務が立て込んでいた、という噂は聞いている。どうやらここでうたた寝をしているということは、あちこちが各々で多忙なボーダー内でも話題になるくらいにまずいという状況からは脱したらしい。

 頬に手を当て、首筋をマッサージしながら弱々しい声が言い訳を並べる。

「大丈夫だよ。ちょっと休んだら帰るし、いざとなれば申請出して宿舎に行くから」

 たぶん本心だろうが、彼女はこういうところで自分を見誤りがちだ。

「そうは言っても、この前そこで寝落ちて起こされてたって聞いたけどな」

「そうだったっけ? ガセだよそれは」

「あいにく、これは信頼のおける情報筋からのタレコミだ」

「あれえ? じゃあもしかして信用のない私じゃ勝てないか」

「認めるか?」

 彼女は情けなく眉を下げて、降参、と小さく呟いた。ずいぶんと諦めがいい。俺が頷いてやると、彼女は壁に背を預けて伸びをした。

「東くんには敵わないなー」

「今日のところはそうみたいだな」

 吐息混じりの笑い声。本気にしてない証拠だ。

 だらりと垂れていた手が膝の上の荷物を抱え、よろよろと華奢な体が立ち上がる。ここだけ重力が二倍に設定されていると説明されたら信じられそうなくらい覚束ない足取りだった。ついでに、これがこれから一人で道を歩いて家路につくのだと言って無事に完遂できる確率を考えさせられるほど、頼りなくも。

「今日、なんか飯食ったか?」

 静かに問うと、律儀に考える素振りを見せて、彼女が唇をむにむにと動かす。

「食べたよ、ゼ……いやえーと、おにぎり」

「おにぎり一個分のカロリーはおにぎりとは違うぞ」

「ぼんち揚げも」

「お菓子だな」

「東くん」

「うん」

「ごめんなさい」

 顔が笑っていたから、謝罪も軽い音がした。でも申し訳なさはちゃんと伝わってきたので、俺は彼女の耳元で変な方向に跳ねていた髪をゆっくり直してやる。驚かせないようにそっと顔のそばに近づけた手は大人しく受け入れられた。まるで人馴れした野良猫が気まぐれに撫でられているような表情。

「今夜、うち来るか」

 だから拾った。

 彼女の部屋より俺の部屋のほうが近かったから。後輩や大学のやつが泊まる用の布団があるから寝床だって困らない。足りないものはコンビニで調達できる。実はちょっと作りすぎたおかずがある。俺は全然困らない。

 想定できる質問に対して予め答えを準備しておいて、それぞれに最適なタイミングで返す。ほぼ一本道の、勝ち筋の見えた勝負だった。

 さっぱりして腹が膨れたら気が抜けたらしい。髪を乾かし終わってとろとろ眠そうにしている彼女を敷いた布団に誘導する。先週干しておいてよかった。前に諏訪が使ったときは狭く見えた布団が、彼女には余って見えた。

「東くん、東くん」

 布団を被せてやると、枕に埋まった掠れ声に裾を引かれた。俺が布団の横に腰掛けると、散らばった髪の隙間からぽつりぽつりと聞こえるものがある。小さな頭。今だけ俺と同じ香りがする。

「ごめん」

「なんで」

「私が、私がちゃんとしてないから」

「いいよ」

「ごめんね」

「いいから」

 もう言うな、とは言わず、彼女の骨ばった肩に手を当てた。一定のリズムで叩いてやる。子どもを寝かしつけるようなやり方。ついでに歌でも歌ってやれば笑うだろうか。それでも黙って、俺は今夜も彼女の眠りを助けてやる。

 これは今日が初めてじゃない。稀にこうして、弱った彼女を拾って帰る。

 俺がそういう性分だから。彼女はそう思っているだろう。それに甘えている自分が嫌になることもあるかもしれない。だとしても、彼女が本当に嫌がるまではこれを止める気はない。

「この前、廊下で寝ていました」

 食堂で一緒になった二宮はそんな告げ口をしてから、いつもの無表情のまま、甘やかしすぎじゃないですか、と言ったのだ。俺はそれに笑って、そうでもないと返した。甘やかすことで甘やかされているのはこちら側であるという自覚があったからだった。

 一個だけ、想定できても返事に困る質問がある。

『どうして東くんがそんなことしてくれるの?』

 これを持ち出されたら、俺は黙るしかない。あるいは。つまり、向こうは知る由もないだろうが、彼女が俺に敵わないと思うのと同じように、逆も然りということである。

 安心できる場所だと思ってくれれば、ここを逃げ場にするだろう。

 いつでも逃げてくればいい。そうしたら、うまく甘やかしてやるのに。

「おやすみ」

 小さく呟いて、俺は彼女の呼吸が深くなるのを静かに聞いていた。