吹き付ける風が少し冷たくなってきた頃、私はただでさえ冷えるというのに水辺に立っていた。池の中に居る同級生を見下ろしながら肩を下げると、彼は苦笑いをしながら張り付いた前髪を払った。

「……本当……不運で片づけられないんじゃないの」
「あはは……もう慣れちゃったし。大丈夫だよ」

 慣れてしまったのはこちらも同じだ。六年も彼の不運を見ていると、大体予想もつけば対処法も覚える。下級生だったころはよく泣いた彼を慰めたおかげで、私は後輩たちを泣き止ませるのが得意になっていた。

「そうだ、バレーボールは?」
「さっき投げ返しておいた。割れてはいないみたい」
「そう」

 安心したような顔をして、善法寺が眉を下げた。なんてお人よしなんだろう。自分の頭に直撃したバレーボールが割れていたら、同室の用具委員長がきっと怒るだろうから。それで怒られる体育委員長が可哀相だから。そんな類のことが容易に想像できて、私はそっと溜息を吐いた。

濡れた手が、私の手を掴む。肌寒い中で池に落ちたのだから冷えているだろうと思ったのに、それは予想外に温かかった。冷え症の私の手のほうが冷たく、彼の体温を奪いそうで怖くなる。

、ごめんね。私の面倒ばかり見させて」
「好きでやってることだから、謝らないで」
「じゃあ、ありがとう」

 私の手を借りて、善法寺が水から上がる。べったりと張り付いた制服、足元には水が溜まって、じゃぼん、と音を立てた。彼が制服の裾を絞った途端、風が強く吹き付けた。「う」私は思わず身を縮ませたが、濡れ鼠の善法寺のほうがよほど寒いに違いない。どこか室内に、と、少し迷ったが、思い切って彼の手を掴んだ。やはり私の手の方が冷たい。

「え、?」
「そのままじゃ風邪引くから、保健室に」
「……うん、ありがとう」

 彼の手が、ぎゅうと私の手を握り返した。


***


「善法寺、入るよ」
「うん、大丈夫」

 部屋の前を通りかかるだけでも、薬草の匂いがする。目を瞑って歩いても、きっと保健室の前だけは間違えないだろう。その保健室の扉を引くと、中には善法寺が居た。その姿を見た私から、うあ、と妙な声が漏れる。首から耳へと血が上る、なんて格好悪い。

「ぜ、ぜぜ、善法寺」
「え?」
「着替え終わってないなら、言ってくれれば」

 思わず視線を下げ、開けた扉を閉めかけた。しかし、「ま、待って!」と引き留められてしまう。上半身をむき出しにしたままの善法寺は、塗り薬を手にしたまま、困ったように笑った。

「一人じゃ、背中には塗れなくて」

 だから服を着ていないのか。あくまで、仕方ないな、という風にそっと室内に入ると後ろ手で戸を閉めた。私が手に持っているのは、さきほど絞りに絞ってきた善法寺の濡れた制服だ。くの一教室のそれとは勝手が違う上に大きくて少し手間取ってしまったので少し遅くなってしまったが、そのせいで彼が寒い思いをして私を待っていたのかと思うと申し訳ない。

 ……ん?
「善法寺、別に私に塗ってもらわなくてもよかったんじゃ」
「誰も来なかったんだ、仕方ないじゃないか」
「そう」

 じゃあ早く塗ってやって、彼に服を着せてやらないと。近寄り膝をついて、彼から塗り薬の器を受け取る。その時に触れ合った善法寺の指先が熱く感じられて驚いた。そうだ、私は外で洗い物をしてきたばかりで、冷え切った指をしているのだった。

「善法寺、その、ごめん」
「何が?」
「私の手は、いまとても冷たいから」
「構わないに決まってるだろう」

 彼は、私の心配をいとも簡単に優しく笑い飛ばした。ほ、と息をつくと、私の視線は目の前の善法寺の背中に刺さる。きれいに伸びた背すじ、しっかりとした肩甲骨に、ほどよくついた筋肉。引き締まった背中だ。見た目の優男加減からは想像できないぐらいしっかりとした体。

「鍛えてるん、だ」
「不運な分を取り返さないといけないし」
「傷も、たくさんある」
「怪我する機会が多くてさ」

 私は動揺していた。
 いつも笑っていて、不運な目にあって、それでもさらに笑う善法寺の背中が、予想以上に“男”のそれで、いまそこに居る善法寺は本当にいつもの彼だろうかと、わけのわからないことを考えた。指に取った塗り薬が、冷えた私の指の温度でも、徐々に溶けていく。

?」
「ぬ、塗るよ」

 恐る恐る、傷に触れる。熱い。
 背中に薬を塗りこむと、皮膚一枚の下で脈打つ筋肉を感じる。七松や潮江、食満らに比べればずっと細身なのだとばかり思っていたのに、私はいまこうしてしっかりとした体躯を目の前に突き付けられているのだ。

「ねえ、
「なに?」
「私だって、ちゃんと男だろう?」

 ――考えていたことを言い当てられ、私は息を呑んだ。
 え、と掠れた声が漏れ、それが私の想像以上に情けないものだったのでさらに動揺が広がる。

 大人しく座っていた善法寺が、くるりと身を反転させた。彼の瞳が私をまっすぐに射抜き、途端、何も言えなくなる。なんとなく視線を逸らしてしまい、鎖骨へとぶつかる。気恥ずかしくなり更に顔を俯かせれば、彼の腹筋が割れていることにも気づかされた。どうしよう、どうすれば、私の視線の逃げ場所がない。

「っ!」
 優しく、だがしっかりと、私の手を掴むものがある。


「……ぜ、ぜん、善法寺」
「ふふ、耳が赤い。六年になったのに、照れ屋は変わらないんだね」
「ぜん、お、お前だって……!」

 変わらないじゃないか、と、言えなかった。
 彼と同時に入学し、成長し、今に至るのだ。一年生の時の彼は私と身長も体格も変わらず、もしかしたら背は私の方が高かった時期があったかもしれない。そんな彼はよく転んでよく泣いて、喧嘩の巻き添えを食って怪我をして。なのに、今は、背丈も力も、善法寺には敵わない。


「……な……、あっ!」

 握られたままの手を引かれたかと思えば、私の顔が硬いものにぶつかった。思わず目を瞑ってしまう。ぶわ、と強まる薬の匂いに、彼に抱き寄せられたのだと分かるのも早かった。泣き虫だった善法寺のものとは思えない胸板、その下で、いつもよりも早い鼓動を打つ心臓を感じる。

……」

 耳元にそっと唇が寄せられ、低い声でまた名前を呼ばれる。くすぐったくて身をよじると、彼の腕に力が入った。私を呼ぶそれは優しい声色なのに、それは逃げることを許さない。

「もう私は、慰められる方じゃないんだよ」

 彼の握った私の手は、もう冷たくはなかった。