それは、明らかに耐え忍ぶべきものだった。

「……」

 気づくべきではなかった。気づいてしまったら、自分がどんな行動を取るかだなんて分かりきっていたからだ。私は必死にその衝動に耐えようとしたのに、すぐに心はぼっきりと折れてしまって、洪水のような感情の波に押し流された理性とは、そこでお別れしてしまった。さようなら、もう会うこともないだろう、私の理性。手を離してしまったら、私をちゃんと間違った方向から正してくれるものは、もう無い。

「…おい、
「何でしょう」
「てめえ、ふざけるのも大概にしろよ」
「理解不能です」

 目の前で、潮江が私を見下ろしている。廊下の真ん中で、私の行く先を塞いで、あの重たい算盤を持ったまま私を睨んでいる。私は無表情でそれを見上げて、もう一度、唇を動かす。「どいてください」私と同い年である六年生とは思えない、幼稚な行動だ。人の迷惑になるようなことはするなと一年のときから厳しく教わってきたのではないのだろうか。

「質問に答えたらどいてやるよ」
「では、質問とは」
「てめえ、いつまでふざけてるつもりだ?」
「理解不能です」

 潮江の目元が、ふっと力を無くし、それからまた怒りが唸りをあげた。近頃は会計委員会の決算が近いとかで忙しいと聞いているのに、こんなところで油を売っている暇なんてあるわけがない。それなのに、潮江はまだ私に用事があるらしく、筋肉で重たいであろう体を、私の前から動かそうとはしなかった。一歩たりとも動かない潮江に、私はやっぱり無表情で問いかける。

「なんと言えばいいのでしょう」
「…、……てめえな」
「理解不能です」

 三度目の答えを返すと、潮江は、重たい算盤で私の額をごつんと叩いた。思わず声を上げるくらい痛かったけれど、本当に手加減してくれたような衝撃で、こぶになったりはしなさそうでほっとする。でも頭部への衝撃は、私の視界を一瞬暗くするのには十分だった。立ちくらみのようなそれに襲われて、壁に手をついて俯く。ものの二秒で綺麗になった思考をまわして顔を上げると、もうそこに潮江は居なかった。

「……潮江」

 確かに居たのは、額の痛みが証明してくれる。
 …というか、私は今、ちゃんと喋れていた? 目の前に誰かいたのは、叩かれたのはわかるけれど、あれは本当に潮江だった? 実は食満でしたとかいう落ちはない? え、やだ、私、私はちゃんと…理性、理性を取り戻そう。

 がつん! 壁に頭を叩きつける。一度、二度、三度とぶつけたところで、慌てて誰かに肩を掴まれた。

「何やってんだ、ばか」
「…食満! わ、私、私の額、赤い?」
「真っ赤だよ」
「うわ、あの、あのね、し、潮っ、潮江が」
「落ち着け」

 落ち着いている。私はしっかりと落ち着いているから、こうやって話せている。
 本当に、「理解不能」なのだ。ちゃんとこうやって話したいのに、潮江が来ると、目の前に居ると、視界に入ると、いっぺんの感情をも表に出せなくなってしまう。理解不能としか言いようがない、なんで、あんなにそっけない反応しかできなくなっちゃうんだろう。潮江のことについて、自分の気持ちに気づいてしまったら、もういつも通り、こうやって接することができなくなってしまった。

「うあ、あああ、ばか、ばかだよ私…!」
「保健室で額、冷やしてこい。な?」
「うん」

 潮江に、いつか謝りたい。ごめんなさい、違うの、嫌いになったんじゃない。
 本当に、これは、気づきたくなかった。私は、痛くて熱くて痺れている額を、そっと撫でる。


 バカタレ。
 廊下を大股で歩きながら、先ほどの、何もかもを削ぎ落としたような視線を思い出す。なんだ、なんなんだ、あの瞳は、あんな瞳をするなんて、俺は知らん!

「伊達に、六年、一緒なんじゃねえんだぞ」

 がどうしてあんな行動を取るようになったかなんて、今までの六年間のことを思い出してみれば合点がいった。あいつは覚えているか知らんが、二年生のとき、卒業してしまうという先輩に対してそっけなくしてしまったと泣きながら俺に訴えてきたのは、あいつ自身なのだから。

「…」

 気づかないとでも思っていたのだろうか、どれだけ長い間、耐え忍んで見てきたと思っているのか。あいつはきっと何にも気づいちゃいない、だけれど、あいつが俺への気持ちとやらに気づいただけ、待った甲斐があったということなんだろうか。算盤を額にぶつけてきたが、大丈夫だったろうか。素直に、照れなくてもいいぞと告げてやれないのは、俺の悪いところなのだろうか。

「……バカタレ」