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(――絶対お前を一人になんかさせねえよ) 「う、嘘、嘘つっ……嘘、つきいぃ…っ!」 私は重たい雨粒の降りしきる中、ぐちゃぐちゃの地面に横たわっているものを見た。戦場で横たわっているというのに彼はどろどろになってはいるものの原型を留めているし、顔まで見ることができる。せめて色んなものに踏まれて踏まれて、顔の判別さえできないくらいになっていてくれれば、私は薄っすらとした希望をもてたかもしれないのに、彼は残酷までに死に顔を私に晒しているのだ。私が抱き起こしたせいで空を仰ぐ形になっている彼は顔に雨を受けて、雨粒は泥も血液も洗い流してくれて、目を瞑っているその顔はまるで学園に居るときのような、顔! 「いや、い……いや、いやぁあ…! ――、…あ、ああぁあ!」 叫んで叫んで、咆えるように叫んだ。ああ、もう半分くらい――の中身が雨によって流されているのに、あなたはこんなに重たくて、冷たい。私がそれを急き止めようと必死になっているのに、掌から零れ落ちて、段々冷たくなっていく。この燃えるような悲しみをもってあなたを暖めるから、お願いお願いお願いお願い、目を、もう既に落ち込み始めているその双眸を開いて! 「絶対、絶対っひとりにしないって…っう、言ったじゃない…言ったじゃないぃっ…!」 自分の頬に伝う雨粒か涙か分からない液体が止め処なく顎から――の顔へと落ちる。いつもなら、ここで小さく唸りながら少しだけ不機嫌そうに、でも薄い笑みを浮べながら寝起きの低い声で「」と名前を呼んでくれる。ちょっと前髪に触れたくらいでも目を覚ましてしまうくらいに神経質だったのに、なんでこんなに揺さぶっても起きないの起きてくれないの目を覚ましてくれないの、私はがくがくと揺さぶっていた腕の力を抜いた。そうするとどさりと、まるで徹夜明けの夜みたいに私の腕の中に転がり落ちてくる。私の肩に触れる――の頬は、装束越しにでも分かるくらいの冷たさを持って私に絶望を与えてくる。重たいその体を抱きしめて、私は空を仰ぐ。ああああ、ああ、あああぁ…! 「っ、あ」 ――またこの夢だ。 がんがんと頭に響く鈍痛を押さえ込むように私はベッドサイドに置いておいたぬるいミネラルウォーターをペットボトルから一気に胃まで飲み下す。荒れた呼吸を抑えるように目を瞑ると、ぐるぐると落ち着かない視神経が塞がれて聴覚が鋭敏になった気がする。外の雨音、アパートの前を通るバイクのエンジン音、部屋の時計の秒針の音、いつもの私の部屋の音。そうか、今日も雨なのか。 「………雨」 雨の日のあの夢、私は誰かを抱きかかえて絶望を声が嗄れるくらいに叫んで悲しみを咆えている。その「誰か」は確実に「私」が見つけたときには事切れていて、私は彼の名前を呼びながら雨の中でずっと彼を抱きしめているのだ。 …名前も知らないのに。 夢の中のその誰かは、なぜか名前を必死に呼んでいるのは分かるのにそれだけ、ノイズがかったように聞こえない。きもちわるい。胃に何も入っていないのに押し寄せてくる嘔吐感を抑えるように、また水を飲む。そのとき、携帯に設定しておいたアラームが起動したのだろう、携帯が震えた。見やればいつも起きる時間のほんの少し前に目を覚ましたようで、別段焦ることもなくそれを、とめた。 「…あなたはだれ」 私の中、奥深くに勝手に入り込んできて、雨の日だけに訪れて、その度に暖かさを求めたくなってしまう。一人暮らしにしては広いこの部屋に嫌気が差してきたのも絶対に「誰か」さんのせいなのだ。朝起きると勝手に涙が溢れて、誰も居ないはずの隣に、骨ばった手を捜してしまう。…ずっとずっと見続けている夢の中の誰か、でも探しているんだろうか、だとしたら自己嫌悪するに値する行為だ。夢の中の人を恋しがるなんて、それじゃあまるで私がその人のことが――、……その人の、…ことが? がんっ! 「は、っ?」 がんじがらめになっていた思考を一瞬で焼き切るような音が、玄関から聞こえた。その音に反応しかねていると、もう一度同じ音が、がんっ、と響く。この音、まさか、ドアを、…蹴られている!? そんな非常識なことをする人は近所には居ない。大学で同じ学科の食満でも来たのだろうか。両手に物を持っていたら蹴るしかないだろうが、食満は律儀に頑張ってインターホンを鳴らす。ならば誰だ、学科が同じでドアを蹴る友人など持った覚えがない。 がんっ、ああ、三回目。これ以上やられてうるさいと怒られたり、最悪ドアが壊れたりしたら責任を取るのは私だ。そんな無責任な行動を取るのは誰だ、ちくしょう。私はいらいらしつつ、寝巻きにしていたスウェットのまま怒りに任せて玄関のドアを乱雑に開いた。 「ちょっと、何の用……、…」 「………」 私を迎えたのは、沈黙だった。相手を責めようのない、完璧な静寂。雨音と雨粒がぱた、とリノリウムの床に落ちる音だけ。私は全ての責任を相手にとってもらおうと思っていたのに、次の言葉が何一つ出てこない。その代わり、ざあっと涙が私の目から、私の意志とは関係なく洪水のように溢れた。目の前の、男は、声も発さずにぱたぱたと髪から水を垂らして私の目の前に立っているだけなのに。私の夢の中のノイズが晴れた。 ――「もんじろう」。 潮江文次郎。私の恋うて恋うて止まなかった、優しくて不器用で、頭の固い、私の、私の大事な人! 「…あ、あ…ぁあ、あ」 「……約束守りに来たぞ、」 「ば、ばっかじゃないの、っや、約束…ま、まもらなかっ…くせに…!」 「だから、もう一度だ」 彼は何の断りなしに、ずぶ濡れのままの格好で私を抱きしめた。雨の沁みこんだ服は冷たくて冷たくて寝起きで暖かいベッドの中に居た私には酷い体温差だったけれど、私も必死に彼の背を引っかくように握り締めた。ああ、夢じゃない、だってほら、冷えた服の中には確かにどくどくと脈打つ心臓が息づいている。 いきている。 「うっ…あ、む、無責任、無責任だ、ドア蹴るなんてばか、っみたい!」 「…」 「なんで今まで放っておいたの、ばか、ばかぁあっ…!」 「同じ大学だっていうのに、昨日気づいたんだ」 「守れない約束っするしー…!」 「守る」 ぎゅう、と、抱きしめられる。夢の中ではあんなに抱きしめても何の反応も示さなかったのに、何よ、押しつぶされそうに力強い抱擁に涙腺は決壊したままで私は彼の濡れた胸板に顔を埋めた。強く降りしきる雨音が私の泣き声を消してくれているようで、あんなに憎たらしかった雨がどうしてだか今は愛おしくさえ思えるのだ。 「…もう一度だけ、信じてくれないか?」 返事なんてしてやらない。私は顔を埋めたまま、彼の背中に回した手に力を込めて、力加減というものをしらない彼にお返しといわんばかりに必死に抱きつく。これでわからなきゃ、もう、キスくらいしてあげないとだめなのかもしれない。だけれどもそんなことを考えていたというのに彼が先に私の顎を掴んで、強引に唇を塞いできた。本当に、ばかだ。私はそっと、目を瞑った。 |