「七松先輩、煙草吸うんですね」
「んー、たまに!」

 それは、ちょっとショックなことでもあった。七松先輩の部活後の薄暗い部室の中で、私は先輩の上着から香る独特の匂いに気づいてしまった。彼は大学のエースなのに、スポーツマンなのに、いいのかなあ。…あんまり良くない、よね。別に年齢的に叱られるわけでも、犯罪を犯しているわけでもないけれど、ちょっとの何かが引っかかる。

、なんで分かったんだー?」
「匂い、染み付いてますよ」
「え、まじで! うっわやべー」

 焦るふりもしないで悠々と笑ってる先輩は、いつものように私に覆いかぶさるように抱きついてきた。そんなときにもふわりと私に届く、あの肺に悪そうで、それでも中毒者が絶えないあの匂い。小さい頃はあの細い筒を咥える格好に憧れたものだけれど、学校やらなんやらで再三注意されると進んでそれに手を出す気にはなれなくなっていた。

「あー、いい匂い」
「先輩、…先輩、煙草くさいです」
「俺はの匂いしかわかんないからいいー」

 そんな横暴な、なんていまさらすぎることは口には出さない。出さないけれど、溜息としてそれを一応表現しておく。その音の無い苦情は七松先輩の項をくすぐったみたいで、彼ははしゃぐように身を捩じらせた。そのどこまでも無邪気な振る舞いが七松先輩らしくて、どうしようもなく愛しい。

は、煙草嫌いか?」
「…体に、悪いですよ?」
「体に悪くなければいいのか?」
「そうじゃなくて…」

 幼稚園の先生にでもなった気分になる。でもこのとっても大きな可愛い人は、私の問いかけに真摯に返してくれている。それだけはよく分かるから、私は目を瞑って、もう一度の溜息。上着に染み付くくらいの量を吸っててあの肺活量、…本当にこの人、人間なんだろうか…。煙草吸うと肺活量が落ちて体力も落ちるって聞いたことあるんだけど、この人いろんな意味で元気なんだよなあ…。
 すとん、と、七松先輩が腰を落とす。視線が私より下になって、物珍しい光景だ。

ー」
「…なんですか、先輩…」
「……煙草、そんなに嫌い?」
「………」

 さっきの話題を蒸し返してくるなんて、ちょっと意外だった。七松先輩は叱られそうな話になると逃げちゃうか、話題を逸らしちゃう人だから、きっと私のこんな面倒そうな話なんてさっさと流してくれるものだと思っていたのに、…意外にも目の前に居る七松先輩は真剣な顔を、微かな不安に曇らせている。

「…一カートン、どのくらいで空けます?」
「……三日くらい?」
「無茶です」

 いくらなんでも…子どものガムの食べ方とは違うんだから、そんなスピードで空けてて体にいい訳が無い。でも、それくらい空けることが出来るということは禁煙させるにも中々難しいっていうことで、…、……。

「…」
「七松先輩」
「…ん」

 すっかり元気を無くしてしまった七松先輩の髪に、顔を埋める。ふわふわして、ところどころ切れ毛もあって荒れ放題なのに、なぜかとっても落ち着くのだ。私は、七松先輩の頭を抱えるように抱きしめる。先輩はさすがに驚いたみたいで、ちょっと身じろぎしたけれど動かない。そのまま、私は七松先輩の頭を撫でながら、子守唄を歌うように呟く。

「…私、怖いんです」
「……なにが?」
「煙草、…煙草のせいで、先輩が早死にしちゃったら、って」

 ぞく、背筋が凍る。
 もう本当に、怖いんです。貴方が居なくなってしまったら私は太陽を失ってしまったも同然の草花、もう一度首を擡げることなんて絶対にできなくて、多分そのまま追うようにふらふらとどうでもいい人生を送るだろう。嫌です、私、…七松先輩が、好きなんです。
 本当に、後戻りできないくらい、好きです。

「…死なないって」
「で、も」
「だって俺、煙草大好きだけどさ」

 ぎゅ、腰辺りを腕で挟まれて、七松先輩はそのまま私を抱きかかえた。ふわりとした浮遊感と一緒に、もう七松先輩の一部のような煙草の香りが私も包む。…もしかしたらこの香りは、私から香っているのかもしれない。こうやって抱きしめて抱きしめられてを繰り返している私たちの間に、違う香りなんてもう存在しないと、いいな。


のほうが、無いと寂しーもん」


 そのまま、キスをされる。ほんの少し、舌根に残る苦味は私の味わったことの無いもの。でも、こうして共有していければいいんですよね、七松先輩。