|
忍術学園に入ったのは、祖父が学園長と旧知の友だったからだ。忍として生きていた両親は幼子のときに失い、母となり父となり祖父となり自然となり、厳格に私をここまで育て上げてくれた祖父はそういえばあの日珍しく笑いながら、手紙を私に差し出してみせたのだ。 「、ここに行け」 「…何故ですか」 「私の友が居る、世話になるがいい」 「解せません、師匠――」 両親を亡くした私を引き取った祖父は、私を決して孫扱いはしなかった。まるで弟子のように、ただ毎日が鍛錬に重ねた鍛錬で、厳しくて厳しくて、いつの間にか私は祖父のことを師匠と、呼ぶようになっていた。私と祖父の間にある血の繋がり、そんなものはただの線にしか過ぎないのだと思うようになっていった。そう思えば毎日の鍛錬すら苦にもならなくなって、その代わりに何もかもが色褪せるように意味をなくしていった。 (爺さま。爺さま、雪が降りました。これはなんと読むのですか爺さま、爺さま――) 色褪せたはずの私の中に、いつの日かの、目が眩むような想い出が咲く。差し伸べられたから握った掌はいつの間にやら皺だらけで、それでも暖かい。爺さま、囁くように呼べば、彼は嬉しそうに頬を緩めた気がした。 その日のうちに祖父は永い眠りについた。まるで眠るかのように、だけれども確実に祖父がそこから居なくなる。祖父は夏だというのに、触れれば氷のように冷たく、硬く、決して二度と開かない、彼にしか開けることのできない瞼はもう二度と、開きはしない。 「」 「…、食満先輩」 「珍しいな、呆けてるなんて」 「申し訳ありません」 「いや、別にいいんだが…」 だから口など動かす必要も無い。目で見て、手で触れさえすれば分かる。私には分かる。ざぶん、櫂を上げるたびに跳ねる水しぶきが一瞬だけ煌き、そのまままた池の中へと消える。ボートの修繕が終わったための試験運用中に呆けるだなんて、私もまだまだ未熟だ。何も考えず作業に没頭できる用具委員は居心地がよい、放っておいてくれれば更によいのに、…どうして三年の富松を使わず私を試験運用に誘う? 「ちゃんと順を追って櫂を漕がないと、裏返るぞ」 「はい」 人間も水のように、元はひとつで――皆の考えていることを共有して、嬉しいと思えば皆が嬉しく思い悲しいと思えば皆で落涙すればいいのに、なぜ個体で存在せねばならないのだろう。そうしたらきっと私だって理解できる、理解できるはずなのに。 「…い、聞いてるのか? 」 「え、…あ」 「だから、…っ!」 ふわ、風に煽られてボートが振られる。風の様子を観察していたらしい食満先輩は何事かを言葉にしていたみたいだけれども、私はそれを耳にしていない。そのままゆっくりと、船首飾りのアヒルが傾ぐ。食満先輩は素早くボートを水平に立て直そうと努力するけれども、私はそれを無視するように風に煽られるままに、背中からどぱん、波飛沫を上げて池へと、半ば飛び降りた。 「!」 食満先輩が私に、手を伸ばしたのは何故だろう。 手を取らず、そのまま池に沈みこんでいく体はどうしてだか全くもって力が入らないのに浮かび上がらない。ああそうか、祖父が呼んでいるのかもしれない。この冷たさ、あの日触れた爺さまの頬の冷たさ、私の冷たさ、ここに居るのですか爺さま、言葉を用いなければ分からない世界というものは私にはとてもとても辛すぎます。 どうかこのまま、連れて行って下さい。 …そう思った瞬間、がしりと手を取られて、まるで本当に爺さまが迎えにきてくれたのだと錯覚するほどに急激に私の体が浮上していく。驚いて閉じていた瞳を開くと、そこには深緑が必死に水面まで私を引き上げようとするのが見えた。その手を振り払おうとするのに、深緑は暴れる私の手を決して離さない。それどころか、ふと力を緩めたところで私へぐんと急接近して、腰を絡め取られてそのまま急上昇した。息苦しくて圧迫感が煩わしくて、私は口の中の酸素を泡にして吐き出した。水面へ、出る。 「げほっ、はっ、…はっ、はあっ」 「大丈夫か!?」 「…はあっ…はあ、っ」 何故、助けた? 何故ボートから自分まで飛び降りて私を助けに来た? 何故拒否した私をそのまま放っておかずに無理やりに引き上げた? 何故、そんなに優しい顔をして、私を、見ている? 分からないことばかりで、どくどくどく、心臓が波打つのが頭蓋骨に響いて頭痛がする。でも、どうして、頬に生暖かいものが流れる。 「…?」 食満先輩の指が、私の目元を擦る。その指の感触が、ごつごつしていて柔らかくて、暖かくて、なぜだかその指の温もりが心地よくて、生暖かいそれは止むのではなく増幅する。あたたかい、これは、なに? 心臓の辺りがどくどくして、目の前のこの人の温度が知りたい。自分だけ分かればいいと思っていたのに、違う、食満先輩のことが知りたい。 今まで閉じてきた私の扉は、こちら側からしか開くことのできないものでした。 初めて人を知りたいと思った今、こちらから心を開けるから、どうか受け止めてくれますか。 |