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「留さん」 私はそこそこレベルの高い大学生だというその人のことを、留さんと呼んだ。本名は食満留三郎という古めかしいいい名前なのだけれど、彼はそれを長ったらしいからという理由で縮めて呼ぶように、と私に言った。幼いころ、そのことで少しからかわれ続けたのだと教えてくれたのは、留さんと呼び始めてから数ヶ月が経ってからだった。 「なんだ?」 「今日ね、数学のテストが返ってきた。留さんが言った公式でなかった」 「まじか、悪い」 彼はちっとも申し訳無さそうな顔をしないで、目を細めて謝った。私は留さんのこの笑い方がだいすきで、いくつか年が下の私をからかっているときの顔なのだということも知っていた。まだまだ大学なんて未知の世界である私には、バイト先で一緒になった留さんがとても遠くの人のように感じるのだ。 「でも教えてやっただけ点数は上がったか?」 「うん、先生に褒められた」 「そりゃあよかった」 今度は違う目の細め方をして、大きな無骨な手で私の頭を撫でてくれる。せっかく綺麗に整えたのに、と思いながらも彼の手を振り解けないのは、私のちっぽけな独りよがりな気持ちのせいだ。 私は、留さんのことがすきだ。 「つーかさ、お前ちゃんと将来のこと考えてんのか?」 「ふは、なにそれ。留さんお父さんっぽい」 「ばーか、みたいな娘はいらねーよ」 すっげえ手が掛かりそう、なんて失礼なことを言いながらも留さんの目は柔らかいままで、それが私に向けられる好意的な最高レベルなのだということも気づいている。この視線が愛情的なピンクめいたものになることは、たぶんない。叶わない恋なのだということに気づいたのは留さんと呼び始めてどれくらい経ったときだっただろう。もう、覚えていない。 「お前、飲み込みはいいんだから努力次第だよな」 「努力する気がおきない」 「それが悪いんだよ」 みんなやりたくて勉強やってるんじゃないとは思うけれど、あんなキツいことをしているより友達と話していたり好きな音楽を聞いていたり、好きな人と時間を共有したほうが有意義に違いない。だからこうして留さんと過ごす時間は好きだ。一方通行でも自己満足でも、少しだけでも満たされている感じがするから。自分の「好き」だという気持ちがかけたフィルターだとしても、少しだけでも留さんの細める目が私を愛おしく見ているような気がするから、なんて良心がぎちぎちと音を立てる。 「こんな遅い時間まで外うろついて、不良娘が」 「娘じゃないって言ってたじゃん」 「言葉のあやだよ、このくらい理解しろ」 ふっと笑って、また留さんは髪を撫でてくれた。あったかい手が私に触れているのだと思うだけでどきどきする。留さんとの甘い雰囲気を想像しなかったわけじゃないから、たまに緩い期待をしてみるけれど、留さんは本当にこどもとしか思っていないだろうから、髪以外に触れてはくれない。だからこれは本当に秘密の想いなのだ。 「でも、留さん送ってくれるから優しいよね」 「はっ、送らなきゃ文句言うくせに」 「分かってるじゃん、やっぱ留さん頭いいねえ」 「大学生をなめんなよ」 ほら、と留さんはヘルメットを投げて寄越してくれた。私の頭より大きい、留さんのヘルメット。被るたびに留さんのシャンプーの香りがして、ものすごく緊張する。でも嫌な想像もしてしまう。どうして自分しか乗らないと言ってたバイクのヘルメットを二つ持っているの? 後ろに、私じゃない可愛い女の人を乗せて、こうして腰に手でも回させているの。どきどきどきどき、飛ばす留さんの背中に精一杯抱きついて、私を教える。ここにいるんだよ、留さん、だいすきなんだよ。 「――」 「え、留さん、…なにか言った!?」 「 ! お前、もっと勉強しろ!」 わかってるよ、と返しながら私の頭の中は留さんの後ろの席に座る女の人のことばかりだった。そろそろ車の免許を取るためにバイトを始めたのだという留さんの助手席には、どんな綺麗で可愛い女の人が乗るんだろう。この人は、どんなに優しく微笑むんだろう。 「俺と一緒の大学に通いたくないか!」 「――、え?」 キィ、と耳ざわりな音を立ててバイクが緩やかにスピードを落とす。がちがち、クラッチを落とすこの音もいつも通りで、長い足をフル活用したこの大きなバイクにかっこうよく跨る留さんの背中も同じものなのに、どうしてあなたはそんなに目の奥を滲ませるような甘い甘い笑みを浮かべているんだろう。 「なんだその顔は」 「…は、………え、留、さ…」 「なんのためにヘルメット買ったと思ってる、ばか」 私の手に丸いヘルメットを押し付けて、留さんはヘルメットを素早く被り直して走り去ってしまった。この手に残ったヘルメットを、被り続けてもいいって、ことですか? |