「…あ、食満先輩」

 彼女は伏せていた瞳をこっちに向けて、柔らかな笑みを浮かべてみせた。俺はそれに手を上げるだけで応じて、足音を忍ばせて彼女の側へと寄った。彼女は髪を緩やかに一つに結っていて、真っ白い肌をしていた。それでも、微笑みだけはいつもと変わらずに俺を暖かく迎え入れてくれる。

「起き上がらなくていい」
「…そんな、せっかく先輩が来て下さったんですし」
「寝てろ」

 起き上がろうとしたを片手で制して、俺も彼女の布団の隣に胡坐を掻く。彼女は俺の制服を見てそっと目を細めた。

「学園の皆は、元気ですか?」
「ああ」
「潮江先輩と、まだ喧嘩したりしてるんですね」

 口を噤んで、答えを探すように彼女の部屋に視線を彷徨わせる。事実、一昨日も殴り合いになったばかりだったし、その理由といったらもう俺も潮江も覚えていないようなものだ。それを察したのだろう、はまた小さく笑い声を上げて、口元が腫れていますよとつぶやいた。ああ、だからわかったのか。

 優秀なくの一になるだろうと思っていた後輩のが病に倒れたのは、去年のことだった。用具委員として俺だけじゃなく他の委員の手伝いをよくしてくれていた。下級生のやつらなんてまるで姉弟のようにを慕っていたし、潮江も伊作たちも彼女を気に入っていた様子だった。
 そんな彼女は、今の時代にはまだ特効薬が見つかってない病に蝕まれている。そんな状態で過酷な忍術学園の授業に耐え切れるはずが無く、彼女は学園から去った。同郷の俺がこうやって彼女を見舞うのも、長期休暇やこっち方面に来ることがあったときだけで、彼女はたまに俺がこうやって尋ねると変わらない笑顔を浮かべてくれるのだ。

「…食満先輩?」
「…、ああ、どうした」
「わたし、たまに学園での夢を見ます」

 そうっと溜息を吐いて、彼女は口を開いた。

「食満先輩や、あの子たちと一緒に用具を修理したりする夢。潮江先輩と食満先輩の喧嘩を止めようとする夢とか」
「…」
「善法寺先輩を落とし穴からみんなで引っ張りあげる夢なんて」

 軽く笑ってから、は小さく咳き込む。無理して喋らなくていいと呟けば、彼女はまた柔らかく笑って俺の言葉を無視するのだ。いつも彼女は俺の忠告なんか聞いちゃいなくて、ただ学園での日常を懐かしむように俺に嘆きかけるのだ。

「…ねえ先輩、わたし、学園をやめてよかったのかもしれません」
「…どうして、そう思う?」
「だって、わたしは人を殺せません」

 殺したいと思ったこともありません、と彼女はまた笑う。
 忍びの世界に生きれば、人の殺生に関わることが必然となる。俺も例外ではないし、彼女も例外ではなかった。俺は顔をしかめる。

「……食満先輩、わたし」
「もういい、喋るな」
「…けほ」

 またこんこんと咳き込むの背を撫でてやってから、俺は彼女のやせ細った手首を見やった。学園をやめてからどんどんとやせ細っていくばかりの姿が痛々しくて仕方が無い。でも、俺にはしてやれることは一つも無い。こうやって傍に居てやることも、忍術学園に居る俺には常にできることじゃない。それに、俺が傍に居れたとしても彼女の病を治してやることも楽にしてやることもできない。ただ彼女が弱っていくのを見ていることしかできない、いやそれもできないかもしれない。

「食満せんぱ、…わたしは」
「黙ってろ」

 未だに何かを喋ろうとする彼女を抱き寄せて、力を入れて腕の中に抱く。一度だけ、怪我をした彼女を伊作のところへと運んだことがあった。そのときよりずっと、ずっと細くなった彼女が生々しく感じられて、ぞっとする。それでも、まだ俺の腕の中で鼓動を打っているその暖かい体は、生きている。一瞬だけが息を飲み下したのが分かった。

「…、………もう、いい」

 そう言うと、は笑って、また咳き込んだ。厭な咳だった。(人を殺せないと言った彼女の体は、ほんの少しだけ血なまぐさくなっていた)