「この、臆病者!」

 臆病者はどっちだ、私は薄暗くてかび臭い、どこからか入ってくる光にちらちらと光る埃の奥に視線をやりながら自問自答する。ごそ、気配は私の拳なんてどうもなかったかのようにのそりと起き上がってこっちへと歩み寄ってくる。そしてその影が光の筋の中に入ってくる瞬間に私はその首元にありったけの力で回し蹴りをかます。抵抗する気も起きないらしい私より大柄なその体は、綺麗に何も入っていない棚の方へ飛んでいく。また、埃が飛び散った。

「…げほ」

 小さく咳をして、それでも鉢屋は立ち上がった。どうしてそこまでして立ち上がるのかは、もう私には分からない。すらりとした体は、本来は私の渾身の力だって吹っ飛ばないはずなのに、その理由に気づいたのはいつだったか。もうそんなこと、どうでもいい。
 飛び散った埃が目に乾き、ぱちぱちと瞬きをする間にずるずると気配は影の間を縫うようにして動く。その動きは私に暴力を受けている者とは思えないくらい俊敏で、どうしても彼はやっぱり「忍」で、その殻は私が砕こうとしたって私が傷つくくらいに硬くて硬くて、多分鉢屋もそれを自覚している。勝手に割るな、触るなと、それは静かな警告のようで、それでも私は、この行為をやめられない。

「っ、雷蔵の顔殴ったって、面白くもなんとも、ないんだよ!」

 まるで扉を蹴破るように、私は鉢屋の胸板を蹴り上げる。流石に肺が圧迫されたのか、今までより大きくえずく声が空き教室に響く。その声を聞いて私は嬉しいのか悲しいのか、涙が出るくらいに笑えそうだった。その欠片が口元から零れ落ちて、微かにつりあがる。

「げほ、っ、――…」
「うるさい、うるさいうるさいうるさい!」

 影に居る鉢屋の上着を掴んで、そのままぶらりと上半身を私に預ける鉢屋にふつりと怒りがこみ上げる。


 どうして反撃しない。
 どうして反抗しない。


 どうして、どうしてどうしてどうしてどうして! どうしたって私の中の結論は変わらない、だからこそいらいらがとまらない、いらいらいらいらいらいら、なぜ、鉢屋、お前、鉢屋、…三郎!

「っ」

 掴み上げていた状態で、私ははっと我に返らされた。その手にぬるり、生暖かいものがぱたぱたと落ちてきて、私は目を見張った。無意識に喉の奥から出た声が悲鳴じみていて自分でも驚いて、そのまま手を離す。とす、と三郎が膝を着く音が聞こえてから、私はその手を擦る。鉄くさい、擦れば擦るほどそれは落ちることなく鉄くささを増して、気がついたときには私の両手はどっちが汚れたのかわからないくらいに、血なまぐさくなってしまっていた。

「ひ、う…ぁ」

 三郎を殴ったのは、私が傷つくのが怖かったから。
 体格に差がついて、力に差がついて、その差がいつか距離になってしまうんじゃないかと怖くて、殴れば触れられるし彼はまだ傍に居ると気づける気がした。きっと三郎はそれを知っている、傷つけたくない、なのに私は彼が存在しているという確認作業を、暴力しか知らない。

「…、私は、私はが」
「鉢屋、…っ、あ、ああぁあ!」

 また殴ると、彼の頬骨辺りにあたった私の拳が生暖かい液体に触れる。それはぱたぱたと更に質量を増して、私はまた手を汚す。彼の血、何に当たって零れたその血液、それを私が流させている。大好きなのに、大好きなのに、大好きだから、…触れたい!

「三郎、三郎、どこ? どこに居るの三郎、ねえ、三郎」

 それでも逃げない三郎は、私を軽蔑しているだろうか。それとも嘲笑っているのか哀れんでいるのか、影に居る三郎の表情は見えないからわからない。彼の血、私の血、混ざり合って掌はからからに干からびた血液でぼろぼろと崩れ落ちそうだ。
 いっそその方がいいのに。三郎を傷つけることしか知らないこの掌なんて腐り落ちればいいのに。

 なのに三郎は、私の掌を握り締めて、言うのだ。


「私はここだよ、あいしている」


 三郎、三郎、どこに居るの。見えないよ、だから私はあなたを殴る。