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「雷蔵、らい、雷蔵…」 彼女はうわごとのように「私」の名前を呼ぶ。背中に伸ばされた細い、病的に細い腕が背中を掻き毟るように掴む。私はそれを甘受しながら彼女の額に優しく唇を押し付けた。そうするとはいつも嬉しそうに瞳を細めて壊れそうな笑顔を浮かべてまた、雷蔵、と呟く。 と雷蔵は忍術学園からの付き合いで、恋仲になったのは六年の中ごろだったような気がする。ずっと前からお互いを想いあっていたのだから早くくっつけばいいのにと私は心底冷めた気持ちで彼らを眺めていた。でも両方があんな感じなので周りが引っ掻き回すことでようやく結ばれたのだった。そうして卒業すると同時に彼らは夫婦の契りを結び、名実とものおしどり夫婦と言われるようにまでになる。私が知っているのはそこまでで、それから雷蔵ととは連絡が途切れていた。 『ら、いぞ…?』 ある日、二人の家が近くにあるというのを聞いた任務中に、ふらりと訪ねてみた。ただの気まぐれで何の連絡もなしに、驚かせてやろうとまで思っていた。扉を叩くと中からものすごい勢いで、綺麗な女性が出てきた。覗いた家の中はぞっとするほどひんやりとした雰囲気で、生活感のまったく無い家だと思ったのを覚えている。そして驚かせるためのそのときの顔が、彼女にあらぬ誤解を植え付けてしまったのだ。 『らいぞ、雷蔵! 待ってたのずっと待ってたの、ずっと』 『…』 まさか、――? 私は目を見開いた。彼女は本当にあの気丈で美しく、明るかったなのだろうか。いまのは痛々しいほどに痩せ細り、笑顔は虚ろな印象しか与えない。あの太陽のような暖かい笑顔はどこへ行ってしまったのだろう? いいや違う、雷蔵は? 雷蔵は、どこに行ったのだ。 『雷蔵』 『…』 決して私に抱きついたりはしなかったくせに、と心の中で彼女を責めた。在学中からずっと秘めてきた想いがふつふつと目を覚ましたようで、私は彼女の薄い背中に手を回すのを躊躇った。彼女はもう雷蔵のもので、私を雷蔵だと勘違いしているのだ。この愛おしそうな視線は私に向けられているのではない。一生、私に与えられるものではないのだ。 『……ただいま、』 近くの人に話を聞いたところ、雷蔵は一年前に任務に出たまま彼女の元へは一度も帰ってきていないというのだ。近所でも評判のいい夫婦だっただけに彼女の雷蔵への依存はひどいもので、雷蔵が居なくなってからはまともに食事も食べなくなってしまったのだという。 そこに雷蔵の顔をした私が来てしまったのだ。ならば私は? 雷蔵だといって彼女を騙すしかないのだろうか。 「…めんなさい、ごめんなさ……」 もうそんなことを何度繰り返したか、もう一年は経っただろうか。何度目かも知れない情事のあと、ふと目が覚めると寝入っていたはずの隣の彼女が居ない。私は目を細めると、どうやら彼女は外に出て行ってしまったらしく、草履が無かった。気配を消して家の裏に居るを見つめていると、彼女はぼんやりと月を見つめていたかと思うとおもむろに腕を振り上げた。その手に包まれていたのは雷蔵の湯のみで、思い切り地面に叩きつけられたそれは轟音を立ててばらばらに砕け散った。私は息を飲む。 気が触れてしまったのかと思った。彼女を止めようかと思い、影から身を出しかけたところではそっと地面に膝を付けた。そして、自分の手で割ったその湯飲みのかけらを一つ一つ大事そうに拾い上げると、掌から血が出るのも構わずそれを握り締めて、しゃくりあげ始めた。 「ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんな、さ、らいぞ」 ぼたぼたと鮮血が地面に落ちる。粉々の陶器のかけらを握り締めて泣きじゃくる彼女の姿を見て、私はすべてを悟った。 は、私が雷蔵ではないことを知っている。 そして、私に縋った自分自身を責めている。 私はの心に付け入ったのだ。彼女の心のことも考えずに、雷蔵のことも考えずに、自分の汚い気持ちだけを押し付けて彼女を抱き、雷蔵の隙間に入り込み、心を食い荒らした。 「………最低だ、私は…」 頭を抱えた。彼女は血まみれの掌で自分の腹部を押さえた。 「孕んだのか」 次の日の朝、何事も無かったかのように私は口を開く。彼女は笑うでもなく無表情で包帯が巻かれた掌を押さえながら、呟いた。 「ごめんなさい、湯飲み割っちゃった」 |