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本当は、嘘であればいいと思っていた。全部が全部、この手もこの足もこの顔も、微かにぼやけてしまっているあの笑顔だって知らなければよかった。人並みに、全部を知らなければこんなに苦しくなんてなかったはずなのだ。薄暗い視界の奥で、一枚フィルターを隔てたように俺は彼女を見ている。また彼女も俺を見ている。いつも楽しそうに俺に寄って来て、常を一緒に過ごした。 綺麗だった。春も夏も秋も冬も、全てが彼女を彩るものだと思えば日々の移ろいや月日の流れも急速に色を持ち、そして加速していった。加速してしまった時間はもう止まる一点だけを目指して俺の声なんて聞いちゃいない。あまりの速さに恐怖を覚えたことも覚えている、それだけれど耐えられたのは、彼女の存在だ。いつも俺の手を取ってくれて、俺を選んでくれたあの温もりがあったから俺はちゃんと、時代なのだからと諦めずに生きることができた。 「うお、さんだ! 今日も素敵だー…」 「…あー」 今は、もう向こう側が透けてしまいそうなほどしか覚えていない、微かな記憶。墨を磨り、筆で板書をし、今じゃただ犯罪くらいにしか使い道のなさそうな毎日が徐々に薄れていくのを、俺は内心、ほっとしていた。 何も美しいものばかりではないその記憶は、幼い頃から俺を苛んだ。噛み付いてくるように鮮烈な痛みを伴う血みどろの記憶だとか、戦友を失う瞬間、存在していた一が零になる瞬間が心を食いちぎる。人生の間で、大事な人間を失う経験を二倍味わうことになる俺はずっと、ずっとこんな記憶なんて消えてしまえばいいと自分を呪った。楽しい友との生活で温く満たされるはずの心は噛み千切られて穴が開いて、ぼたぼたと温もりは滑り落ちていく。こんなもの要らない、こんなものは望んでいない。なのに俺は、ずるずると生きている。 「……」 初めてを見たとき、その穴が塞がっていくのを感じた。血液が沸騰するように騒ぎ、跳ね回る。何より、俺の心臓と脳の芯が、彼女を視認した瞬間に磁石と砂鉄のように引き寄せられたのを感じた。ふらふらと、心臓が導くままに俺はに近づこうとする、頭なんて働くわけもなく、多分それが、本能というものなのだろう。 に触れるためのあと三センチ、臆病な俺の指はそれを埋める間もなくするりと、彼女の髪を掠めることもなく落ちた。 「よくグラウンド見てるよなあ」 「へえ」 「噂じゃ最近、恋をしたらしい」 恋をしたらしい。 その最初の二文字を無意識に復唱してしまっていて、はっとする。そして次の瞬間には、もれなく自己嫌悪だ。名前も顔も、存在すらあやふやであるそんな「恋の相手」に何を、何を思うことがあるんだ。別に俺は彼女と特別親しい訳じゃない上に、…今は彼女と結ぶ線なんて同じ学校であるという一本だけなのに。あんなに眩しい笑顔を浮かべるところも、俺が年下なのも、一人で抱え込むところも無理に笑うのが下手なところも、一つたりとも変わってはいないというのに、遠い。震えながら抱きついてきたあの人を受け止めるのは俺の役目だったのに、俺の胸に顔を埋める彼女の髪を梳きながら抱きしめるのは俺の役目だったのに、ここじゃ得られないものならば最初から知らなければよかった。 「お、団蔵も恋してる?」 「…馬鹿、ニヤニヤ見てんじゃねえぞ」 「ちぇ、つまんねえの」 興味を失ったように、スパイクで地面を蹴ったそいつの足元の砂が飛ばされるのを見る。そして、友人が目を離している隙にちらりと、日陰からグラウンドを見ている彼女に視線をやった。スクールバッグを肩に掛けて、スカート丈は一般的か少しだけ短いくらい、するりと伸びた足は黒いハイソックスとローファーがよく似合う。日陰に立つ彼女の顔がよく見えなくて、俺はほんの少しだけ目を細める。ざり、隣の気配が砂を蹴った。早く視線を逸らさないとばれてしまう、なのに瞳は彼女に縫いとめられたように動かせない。ああそうだ、理由が分かった。 「…、団蔵? どうした、休憩終わるぞ」 友人の声を無視して、俺はグラウンドを蹴って、できるだけ焦らないようにと歩き出した。サッカーボールの駆け回るグラウンドの中心ではなく、それを眺める外縁へと歩みを進めた。は、動かない。 俺にとっては、心臓の一部なんだ。足りないパズルのピースを捜し求めるために今まで生きてきて、そうしてようやく見つけた。本当はこの広い世界で出会えなかったかもしれないのに、俺とはこうして出会い、俺は心の片割れを見つけた。なあ、なあ、本当はずっと言いたかったことがあるんだ。どんなに楽しくても、が居ないと心の穴が塞がらないから全てが零れ落ちてしまうんだ、そんなの勿体無いだろう。 だって、ようやく触れられる。 |