「うるせえ」

 ぎし、椅子を軋ませて前の席の金吾が振り向いて、眼鏡越しの鋭い双眸を細めた。お前だってさっきからカチカチシャーペンの芯出してんじゃねえよ、ぱらぱら紙の辞書とか引いてんじゃねえよ電子辞書導入しろよ。次の英語の予習――というか宿題を忘れていたらしい金吾は慌てて前の数学の時間から教師の目を盗んでは英語の課題を進めていたのを俺は知っている。ぎしぎし、ああ嫌な音だ。

「…うあ」
「…だからうるせえって」

 机に突っ伏すと、背骨を起こしてなくて済むからちょっと楽な気分になる。それも気休めだけど、頬をべったりとつけた机にべたつく汗と、少しの無機質特有の冷たさがまたそれを紛らせてくれる。みし、顔をしかめると金吾は溜息をついて、未だに慣れないらしい眼鏡を外して俺を見下ろすと、唇を開いた。

「とっとと保健室行けよ」
「…、い、嫌だ」
「……なんで」
「………なんででもだよ」
「どうせ宿題も予習もしてねえんだろ、行ってこいよ」

 金吾は、さっきまでノートの上で重労働を強いられていたそのシャーペンでこつんと音を立てて頭を叩かれる。叩くと表現するにはあまりに怒気がない、むしろ気の抜けそうなものだったけれど、そうかこれが気遣いってやつなのかとようやく思い至る俺は身じろぎして、金吾を見上げる。口パクで「ノートよろしくな」と伝えると、返事代わりの掌が振られて肯定を表す。俺はぎしぎしする膝や肘に呻きながらも、教室を脱出した。


 これは余談だが、俺が入る直前までそいつは寝てたらしいのだ。だから、これが言い訳だと分かっているけれども、きっと俺が責められる確立は少しでもダウンしたはずだ。


「……」
「あ…、加藤くん…なに、また擦り傷…」
「…や、成長痛、です」

 保健室、と銘打ってあるその扉を開くと、はっとしたように小さく丸められていた背中がぴんと伸びる。それから素早く扉を開けた人物確認をするような探る視線に射止められた。それから一秒、どうやら生徒だと判断できたらしく、いつも少し緊張しているように凛とした表情が少しだけほっとする。職員室にあるそれとは少し違う回転椅子に座って、少し長い白衣の裾が椅子の移動と同時に先生の足に纏わりつく。

「…お茶、飲みに来たの?」
「だから、成長痛だって言ってるでしょう」
「成長痛?」

 ようやく俺の来室の原因を咀嚼して砕いて、飲み込んだらしい。先生は相変わらずの感情のよく分からない顔で、自分のカップにこぽぽ、と音を立てて急須から緑茶が注がれるのを見ている。それからもう一つ、妙に写実的な馬の絵がプリントされたマグカップにも、…って、は?

「はい」
「……あ、…は?」
「…成長痛に効く薬は、ないから、休んでいって」

 ずず、とお茶を啜る音だけが、どこかのクラスの体育の掛け声だけが遠くで聞こえる静かな保健室に響く。清楚で静謐な雰囲気な保健室には白いものが似つかわしく思えるけれど、それを打ち消すように先生がカラフルなぬいぐるみやら小物やらを持ち寄って、保健室は生徒が気軽に立ち寄れる場所になっている。だから、こんなに静かな保健室なんて、もしかしたら初めてなのかも知れない。

「…成長痛」
「は?」
「私は、そんなに痛まなかったから。加藤くんはぐんと大きくなりそう」
「はは! 先生にものすげえ身長差つけちゃったりして」
「…それくらい伸びたら男子として本望じゃない?」

 笑いながら、先生はぱらぱらと爪の短い清潔そうな指でデスクの上の白い紙やら文字を打ち込んだ書類を捲る。さっきまでそれを下敷きにうとうととしていたのだろう。少し端が折れていたりよれていたりするのを一生懸命掌で伸ばしている様子を見ているのはなんだか大人というより俺らに近い気がして、少し冷めた緑茶を啜りながら微かに微笑む。
 ふと、その白い横顔に、違和感を感じた。

「――」
「……、加藤くん?」
「…、え」

 静かな保健室の中で、俺はぎしぎし軋む身体と、目の前の状況に混乱していた。疲れているような顔色、意外に長い睫だとか、俺を見上げているからかきらきらと瞳の中で必死の存在主張中の電光灯だとか――生徒と教師にしちゃ近すぎるこの至近距離に感じる先生だとか。
 頭の中がスパークしたように弾けて、何も考えられなくなった時間、およそ三秒。掴んだ肩を慌てて離して、俺はぎしりと音がするような腕を上げて、口元を覆うように掌を当てた。もごもごと、言葉にできない言い訳を必死に生成する。

「ほ、ほっぺたに、字が、…写っ」
「…ほっぺた」
「違う! えとその、…頬! に!」

 こしこし、と白衣の裾でほっぺた…いや頬を擦る格好はまるで本当に子どもみたいだ。…おまけに擦る頬が逆なのもまるでコントのようで、俺は無意識のうちに先生の顎に指を掛けて、上向かせる。こっちだっつの、と言って俺は自分の捲り上げていた長袖をべろんと伸ばして、彼女の頬の文字を取ってやろうとする。

「……加藤くん」
「んー…?」
「…なんでもない」

 ほんのりと、徐々に首元から頬、頬から耳へと血が集まっていくのが分かる。白い首に通る静脈が綺麗に透けて、これなら吸血鬼だって噛み付きたくなる気がするかもしれねえなあ、なんて思ってみたりして、はておかしいことを考えたと自分の思考にバツ印をつける。
 目の前に居るのは――「先生」、だぜ?

「…」
「……」
「………」

 思い出したように軋みだすのは身体だけじゃなくどっか胸のどこかもぎしぎしぎし、痛くて痛くて仕方ない。取れない文字は先生の頬にしがみ付いているように取れない。これ以上擦っても無駄だと思ってそれとなく離れて、一歩を引いて、こっちを見ている先生の視線から逃げるように保健室を飛び出した。



 ぎしぎしぎしぎし、ぎしぎし、軋む身体が治まる頃には俺はきっとあの人を見下ろすくらいになって、そしたらもしかしたらあの人の隣に俺が居る未来だってもしかしたらイフじゃなくなるのかもしれない、だなんて、思考に反射的にバツ印をつけた朱肉のように赤いだろう顔を隠すように、ずるずると人気のない廊下に座り込んだ。