災い転じて


「伊作、居るか?」

 音を立てぬように戸を滑らせ、は保健室を覗き込んだ。薬草の匂いが鼻先をくすぐる。室内はがらんとしていて、珍しく誰も居ないようだ。首を傾げながら後ろ手で戸を閉めると、机の上に友人の字があった。どうやらすぐ戻る、らしい。待つのはいいが、長引く予定ではなかったから手持無沙汰だ。穏やかな午後、静かな部屋で一人では先ほどからまとわりついてくる眠気も上手く振り払えない。

 ふと、自分の腹を撫でた。あの失敗した実習から、もうどれだけ経っただろう。

 簡単な実習だった。ある城に忍び込んで城特有の何かを持ちだすなんて、今までに何度もこなしてきた。油断でもしていたのだろうか、しかしずっと気を張り詰めていても“あれ”には勝てなかっただろう、とは自分の未熟さを噛みしめる。

 森の中、太い枝の茂みに身を潜ませ、覆面を口元までずらす。息を殺し、周囲の気配を探る。じっとりとした夜の空気に、騒がしいものはない。もう目標の城からもだいぶ離れた。気付かれた様子も追手もない、と一息吐く。よかった、今回の実習も無事に終えられそうだ。

 あとは学園まで帰るだけ。駆け出そうと足に力を入れた時、は息を呑んだ。

 ――自分の真後ろ。何の気配もなかったはずの至近距離に、“何か”が居た。それを感じた瞬間、呼吸もできないほどの圧迫感――殺気が背中を突いた。

「……」

 下手に動けば間違いなく胸をやられる。しかしこの膠着状態がいつまで持つかもわからない。どう動けばいいのかわからず、じっとりと思考の糸が絡んでいく。呼吸が喉に詰まり、目の前に靄がかかり始める。

「……っ!」

「おっと」

 もはや正常な判断もつかないまま、は背後の気配へ苦無を投げた。正確な狙いなどつけず、ただがむしゃらに、無音の重圧を破りたい一心だった。手ごたえはなく、すぐ傍の木肌に刺さったらしい。当たるとは思っていなかったが、同時に相手の回避がまったく無駄のないものだったのが分かり、唇を噛んだ。一呼吸する間もなく、相手に向けて蹴りを叩きこもうとしたが、あっという間に距離を取られて宙を掻く。振り返ると、相手はもうすっかり体勢を立て直し、のんびりとこちらを見ていた。

「ひどいね、挨拶もなしに」

 少しくぐもった声がした。森の木々の隙間から落ちる僅かな月明かりに、相手の顔が浮かび上がる。黒い装束、顔を覆う包帯。片目だけでこちらを眺める彼は、を見ても気だるそうにしていて、全身を緊張させているとは正反対だった。

「ッ」

 最善手は、“逃げる”だった。分かっていたはずだった。

 しかし、は苦無を新しく取り出すと、それを片手に一息で相手との距離を詰めた。喉元でたるんでいた、下げたままの覆面が風に煽られる。相手はの行動に驚きもせず、先ほどが投げた苦無を引き抜くと、軽々とそれを受け止めた。

「く、っ」

「……」

 体勢では体重をかけられるの方が有利なのに、目いっぱい苦無を相手に押し付けても力の均衡は崩れない。こちらは相手の全てに精神をぐらつかされているのに、敵を表すならば“余裕”の二文字しかない。

 実力差がありすぎる。しかし、退こうにも仕掛けたのはこちら側だ。攻撃してきた相手を易々と逃してくれるわけもない。どうしたら。

 逡巡を断ち切り、は苦無での力比べをやめた。一度引いて相手の隙を狙うつもりで刃を流す。金属同士の擦れる嫌な音が闇を裂く。

 しかし、その男は、の力が緩んだ瞬間を見逃さなかった。

「あー」

「……!?」

 反応する間もなく、の利き手を絡め取られる。苦無を持ち返ることも、抵抗することもできない。ただ、その鮮やかな手際に呆然とするしかなかった。

「もう行くから。これ、返すよ」

 これ、とは。

 聞き返す暇もなく、視界の端に映った切っ先だけですべてを理解し、は目を見開き、相手の顔を睨み上げた。目を閉じてやるものか、という意地もあった。黒い忍び装束の男はそこで初めて表情を崩し、なんだか少し笑った、ような気がした。

 たぶん、あの忍はを殺すつもりなんて最初からなかったのだろう。でなければ、苦無で腹部を一突きするだけでは終わらなかったに違いない。その傷も、縫合しやすいような綺麗な傷跡だったと伊作から聞いている。人を傷つけ慣れた、相当の手練れだ。よくこうして生き延びられたなあ、とぼんやり他人事のように考え、傷口を摩る。

 その時。ふと、頭上斜め上に、気配が現れた。

「……出て来い」

 先ほどまで手練れの曲者のことを考えていたせいか、思ったよりも低い声が出て自身が驚いた。もし相手が後輩だったら無駄に脅かせてしまったか、と反応を待つが、「やあ。どうも」天井裏からあっさりと姿を現した“それ”を見て、絶句した。反射的に腰を上げ、身構える。

「やっぱりここの生徒だったか、どこか見覚えある制服だと思ったんだが」

「……! …………!?」

 目の前に降りてきたのは、黒い装束に包帯、どこか剣呑とした光を宿した片目。

 間違いなく、あの手練れだった。

「お、お前……っ!?」

「あ、伊作くんは居ないの? 留守?」

「伊作を知ってるのか」

「知ってるっていうか、うん。保健室についてもお茶の場所も知ってるくらい詳しいよ」

「!?」

 さっぱり状況の理解できていないを置き去りに、曲者はのっそりと保健室の棚へ近づき、「ここだよ」、なんて茶葉を見せつけてくる。六年も通っている保健室なのに目の前の見知らぬ忍びの方が詳しいという事実に、無性にくだらない敗北感を抱いた。

 と、そこで調子を崩されていることに気付き、はまた曲者を睨みつける。

「何をしにきた、お前は誰だ」

「今からその話するから、ちょっと座りなよ。落ち着けないじゃない」

 ぞわり、先ほどまでの穏やかな雰囲気から、底冷えするような目で見下ろされる。纏う雰囲気が、まるで煙のようにつかめない。逆らうのは得策じゃない、とは大人しく腰を下ろした。曲者も満足そうに目を細め、お互い向かい合うようにして座り込む。

「まずは自己紹介だね。私はタソガレドキ忍軍の忍び組頭、雑渡昆奈門」

「……忍術学園、六年い組のです」

 なんとか落ち着いて自己紹介したものの、思わぬ名前が出ては身を硬くした。あの戦好きのタソガレドキ? 忍び組頭? そんな男に、あの夜、何かの気の迷いで斬りかかっていた?

「伊作くんには恩があってね、たまにこうして挨拶しにきてるんだが……どうした? 顔色が悪いようだが」

「いえ……続けてください……」

 よく生き延びられたものだ。先ほどよりも深くそれを味わいながら、は固い唾を飲んだ。

「ずっと、謝ろうと思ってたんだよ」

「……え?」

「いつもなら、君みたいな子どもに攻撃しないんだけどさ。あの日はちょっと気が立ってて、八つ当たりしちゃった」

 しちゃった、って。まるで下級生が居眠りしたかのような言いように、目を丸くする。それを悪く取ったのか、雑渡は居住まいを正して、「悪かったね」、と呟いた。その響きが深刻そうなものだったので、は慌てて首を振った。

「こちらこそ、身の程知らずなことを」

「いや、応戦したくなっちゃういい腕だったよ?」

「あ、ありがとうございます……」

 それで腹を刺されただけに苦笑いしか出てこない。

 雑渡は懐からそっと何かを取り出し、へ差し出してきた。

「ぬれ煎。食べる?」

「え? あ、はあ、じゃあ一枚……」

 答えてから、知り合ったばかりの忍者からもらったものを食べるということに一瞬の嫌な想像をしたが、どうにでもなれといった気持ちでそれをかじった。ぬれ煎特有のしっとりとした食感、しょうゆの香ばしい匂いが鼻から抜けていく。お茶が欲しい。

「でさ。きみ、くんだっけ」

「はい」

「卒業したらさ、うちにおいでよ。タソガレドキ忍軍にさ」

「……は?」

 ぬれ煎の咀嚼が、止まる。すわ冗談か、と表情を窺うも、八割が包帯の下では読み取れない。しかし、そんな冗談を飛ばす意図が分からない。困惑で固まっていると、保健室の扉が荒々しく開かれた。「組頭! やっと見つけた!」慌てて見れば、見慣れない忍びの向こうに、見慣れた級友が立っていた。

「お前はいちいち騒がしいねえ」

「そうさせてるのは誰ですか! 帰りますよ!」

「雑渡さん、こんにちは」

「やあ伊作くん。尊奈門が迷惑かけたね」

「……」

 急なことに反応しきれないを尻目に、雑渡は「じゃあ、またね。くん」の一言だけを残して、あっという間に居なくなってしまった。あまりに急すぎて、眠気から見た白昼夢だったのでは、なんて考えすら浮かんだ。しかし、手元の食べかけのぬれ煎がそれを打ち消す。

、ごめんね。待たせたけど、傷の具合はどうだい?」

「……」

? おーい」

 は黙ってぬれ煎をもう一口かじって、噛んで、飲み込んだ。伊作の怪訝そうな視線を受け、頷いてみせる。

「……大丈夫?」

「……大丈夫だ。悪い、ちょっと考え事を」

「そう? じゃあ傷見せてね」

「ああ」

 煎餅が喉に張り付くのを咳払いで誤魔化す。制服の上着を脱ぎながらは、あとで伊作とお茶を飲もうと決めた。もちろん、先ほど覚えた棚の茶葉を使って。