冴える刃


 風を切る鋭い音。それを一部の無駄のない動きで避ける男は、無表情に相手を眺めていた。三日月形の傷のついた額には汗ひとつ浮かんでいない。斬りかかった方の男は息を乱しながらも、男が避けるのを見越していたのか返す刃で横薙ぎを繰り出す。しかし、それも呆気なく往なされてしまった。木と木のぶつかり合う音が、陽の高い空に吸い込まれる。

 深緑の装束の男――は戸部と距離を取り、ひとつ息を吐いた。


「……戸部先生! おはようございます」

「ああ、おはよう」

 ある休日の朝。数人の級友が街へと出かけていったのを見送った手持無沙汰なに声を掛けたのは、戸部新左ヱ門だった。思わずは嬉しそうに頭を下げる。忍術学園の剣術師範であり、その道の天才とまで呼ばれる戸部の剣筋は彼の憧れである。その戸部から、しかも休日の朝に話しかけられるのは珍しい。

「どうかなさいましたか」

「いや、今日の予定は空いているか」

「はい。予習か鍛錬でもしようかと」

「そうか」

 戸部の厳しい表情が、少し柔らかくなった。

「少し頼みがあってな」

「俺にお手伝いできるならば」

「だそうだ、出てきなさい」

 いきなり戸部が背後に向けて話しかけても、は驚かない。幼い気配が廊下の影に隠れているのは最初からわかっていたからだ。声を掛けられ、おずおずと顔を出した一年生の顔を見て、は合点がいったように頷いた。

「お、おはようございます! 先輩!」

「おはよう、金吾」

 こちらへ駆け寄ってくるのは、井桁模様の制服を着た一年生がひとり。剣術という共通点を持つせいでもう見慣れた顔だ。その皆本金吾と師である戸部が揃ってに頼みといえば、内容は大体予想がつく。

「もう分かっただろうが、金吾の鍛錬に付き合ってほしいのだ」

「構いません。ですが」

「だが、打ち合うのは金吾とではない」

 の言葉を遮って、戸部が笑った。それを見て、の背すじがぴんと伸びる。びりびりと肌を突くほどの緊張は久々だった。

「私に思い切り掛かってこい、

 金吾に見学させながら打ち合いを始めて、どれほど経ったか。

 息を整え、はもう一度戸部へと駆ける。構えた木刀を素早く振り下ろすと、今度は避けられることなく受け止められた。カアン! と高い音が上がる。ギリギリと拮抗するが、それは相手が手加減をしているからだと分かっている。振り抜こうにも全く力の均衡が崩れない。追い抜けない高い壁だ、と、は眉間にしわを寄せた。

「……っ」

「どうした、まだ軽いぞ」

 一瞬で戸部の刃に押し切られ、容易に弾かれてしまう。

「う、ぐっ!?」

 重心が後ろに流され、無防備になる。それを見逃す戸部ではなかったが、忍術学園の最上級生であるも何もせずにやられるわけにはいかない。

「――ッ!」

 崩された体勢を無理に戻そうとせず、そのままのけぞり、地面に手をついて足を振り上げた。鈍い風切り音を立て、のつま先が戸部へ大胆に迫る。生徒の予想外の動きに面食らったような表情をちらつかせた戸部だったが、すぐに冷静にそれを避けるために体を引いた。片手に木刀を握ったままの後転跳びから、の視線が上がる。

 お互いに距離を取り、一つ呼吸をする。端から見ていた金吾も、いつの間にか詰めていた息を深く吐いた。

「……す、すごい……」

、腕を上げたな」

「いえ、やはり戸部先生にはまだまだ……」

 そう言うは本気らしい。しかし戸部の言葉も本心からのものだ。根っからの剣豪である戸部は、やはり幼少から忍びを目指してきた忍たまのような身のこなしを得意としない。こうして剣のやり取りの中に日々の鍛練の賜物を混ぜ込まれると、対応に迷う瞬間があるのも事実だった。

 短く息を吐くと、戸部は木刀の先を払った。

「では、今日の手合せはここまでとしよう。いいな、金吾」

「ありがとうございました」

「は、はい! あの、先輩っ」

「……なんだ?」

 軽い足音を立てて駆け寄ってくる金吾を待って、は視線を下げた。息の乱れは徐々に治まってきている。こめかみから伝い落ちる汗を乱暴に拭うと、ずいっと何かを差し出された。

「……」

「だめですよ、ちゃんと手ぬぐい使わないと!」

「あ、ありがとう……」

「えへへ、どういたしまして! はい、戸部先生!」

「すまないな」

 金吾から手ぬぐいを受け取ると、戸部も額に浮かんだ汗を拭った。それを見て、は地面へと視線を落とし、そっと口元を緩める。まだ剣術を学び始めた頃、戸部はがどんなにがむしゃらに木刀を叩きつけても息ひとつ乱さずにそれを受け流していた。少しずつでも師の剣に近づいているような実感が、心地よい疲労と共に体を巡る。

 くい、と制服の裾を引かれ、は表情筋を引き締めた。

「ねえねえ先輩! 今度、僕とも手合せしてください!」

「わかった、都合のいいときに声をかけてくれ」

「やったー!」

 金吾は嬉しそうに笑うと、の手を取ってそれを握った。慣れないことに思わず驚きかけるのを内心だけに押しとどめ、何でもないように後輩を見下ろす。本当に、怖がられるばかりだった彼にこうして後輩がじゃれついてくる日が来るとは。よりも基礎体温の高い幼い手が、ぎゅうと力を込めた。

「へへ、先輩の手も硬いですね! 戸部先生も土井先生も山田先生も硬いんですよ!」

「……お前の手も直にこうなる」

「そうなるよう頑張ります!」

 二人の忍たまは、汗を落とすために井戸へ足を向ける。その背中を眺めながら、戸部はふと目を細めて微笑む。二人は性格こそ似ていないが剣術への姿勢は同じで、戸部の大事な生徒であり可愛い弟子だ。彼らの成長は教師としても剣豪としても素直に嬉しい。

「戸部先生! 先生も汗を流したらお茶にしましょうよぉ!」

「ああ、そうするとしよう」

 だから戸部は、まだ二人の“壁”でいなくてはならないのだった。