たよれるひと


 図書室に籠っていたら夕食を忘れていた。は疲れ目を解しながら食堂へと足を踏み入れる。課題の提出日までは少し余裕がある。この進み具合でいけば終わらせられるはずだ。

「あらまあ、くん。今日は少しゆっくりねえ」

「課題を進めていて……」

「感心ねえ! 今ならゆっくり食べられるわよ」

 まだ食堂が開いているだろうかと心配していれば、奥からひょっこりと食堂のおばちゃんの顔が覗いた。にこにこ笑うおばちゃんにつられて、の表情も柔らかいものになる。彼女の城である食堂はたしかに夕飯時に比べると人が少なく、和やかだ。混み合う時間に来ると騒がしいが、あれはあれでいい。

 でも、と続けて、おばちゃんが頬に手を当てる。

「ごめんね、うどんしか残ってないのよ」

「いえ、十分です。お願いします」

「ちょっと待っててね」

 時間を外すと日替わりはおろか定食もないことがある。あとはうどんやおにぎりに漬物といった簡単なもので済まされることが多い。生徒数の多い忍術学園で限りある食材をやりくりするおばちゃんは素直にすごいと思う。は彼女の背中が奥に引っ込むのを見てから、また目を押さえて溜息を吐いた。

「あ、先輩。こんばんは」

 声を掛けられた方へ顔を向けると、食堂の入口に藍色の制服が立っていた。ぱっちりとした目と視線が絡み、は瞬きをした。

「久々知。今から夕飯か?」

「はい、委員会が遅れて……先輩もですか」

「ああ――おばちゃん、うどんもう一人前お願いします!」

「あいよー!」

 明るい声が返ってきて、向こう側からふわりと出汁のいい匂いが漂ってきた。他の定食などに比べてうどんは出来上がりが早いのが利点の一つだろう。久々知はぺこりと頭を下げて、の隣へ立った。

「先輩と顔を合わせるの、随分と久しぶりな気がします」

「そうか?」

「委員会もですが、先輩の負傷があったり……」

「ああ……」

 の顔が苦々しく歪められた。あの実習での怪我は、保健委員会委員長である善法寺伊作の丁寧な縫合と薬によってすっかりと癒えた。傷跡は残るが滅多なことで開きはしないだろう。あれはのみっともない失敗である。恥ずかしさに口元を押さえ、視線を落としたは、情けなく呟いた。

「……もう痛まないから、忘れてくれ」

「はは、分かりました」

「久々知も実習には気を付けるように、な」

「はい」

くん、うどん茹で上がったわよー」

 調理場から戻ってきたおばちゃんは、二つの盆にどんぶりを乗せ、おにぎりと沢庵を添えると、久々知を見て思い出したように手を打った。

「そうだ。豆腐が一人前残ってたはずだから、ちょっと待ってね」

「……良かったな、久々知」

「え! あ、せ、先輩どうぞ」

「いや。久々知が食べるといい」

 自分の分の盆を手に取り、一人で席に座る。それを追いかけて久々知がと向かい合うように腰を下ろした。盆には豆腐の乗った小皿がひとつ。白い豆腐に、緑のねぎが眩しい。

「いただきます」

「いただきます……先輩、ありがとうございます」

「気にするな、のびるぞ」

「そうですね」

 手を合わせると、二人は黙々とうどんを啜った。温かくてのどごしのいいうどんが、空腹の胃をじんわりと温めていく。麺に絡む新鮮なねぎを噛むと、爽やかな辛みが鼻を抜けていった。やっぱりおばちゃんの出すものは何だっておいしい。

 ちらり、が視線を上げると、久々知は豆腐にそっと箸を入れるところだった。彼の唇がかすかに三日月型だ。

「……久々知は本当に豆腐が好きだなあ」

「ええ、好きです。美味しい上に体に良くて、何にでも合う」

「そうだな」

 崩れやすいそれを難なく口へ運ぶと、久々知の表情がさらに緩んだ。それを眺めながらは沢庵をかじって、小さな塩にぎりへ手を付ける。忍術学園では一日中動き回って過ごすため、育ち盛りの忍たまはうどん一杯では物足りないことを熟知したおばちゃんの優しさだ。

「そうだ、先輩」

「ん?」

 久々知は妙に真面目な顔をして、湯呑を手にした。気付けば豆腐は既にない。

「今度、委員会を手伝いに来ていただきたいんですが……」

「俺でよければ手伝うが、火薬委員会は上級生が少なくて大変だな」

「いえ、……、いや、まあ」

 否定できない久々知は苦笑いして、緑茶に口を付けた。

「本当、先輩が火薬委員会なら助かるんですが」

「悪いな」

「いえ、でも先輩は火薬について詳しいですよね」

「同じ組に仙蔵が居ると、な」

 肩を竦めるを見て、久々知も納得して頷いた。焙烙火矢を自作するほど火薬の扱いに長ける立花仙蔵が身近に居れば知識も移る。は、彼がもし火薬委員会の委員長だったらと一瞬だけ想像したが、似合わないなと一蹴した。彼はやはり作法委員だ。

「じゃあ今度の委員会の時は呼びにきてくれるか」

「こちらこそお願いします」

 すっかり空になった盆を持ち上げ、が腰を上げた。それに続いて久々知も立ち上がり、食器を下げる。「ごちそうさま」「ごちそうさまでした!」声を掛けると、おばちゃんは何も残っていない食器を見て、嬉しそうに笑った。

「それじゃあ、またな」

「はい、失礼します!」

 が少し笑った気がして、久々知は頭を下げた。彼の背中が六年の長屋へと向かっていくのを見送る。

 そして一人その場に残った久々知は、ぼんやりと壁を見つめた。

「……先輩、か」

 火薬委員会では六年生不在の委員長代理。久々知が四年時の委員長が卒業してから、久々知には委員会直属の先輩が居ない。各委員会の手伝いに出るをその“先輩”の枠に入れていいのか迷うが、どうなのだろう。

 しかし、次の委員会には頼れる人が一人増えるのだ。

「……ふふ」

 久々知は伸びをして、五年長屋へと足を向けた。少しだけ肩が軽い。