視線をあわせて


「う」

 無意識に出た声は、なんだか自分から出たものじゃないみたいな音がした。“その人”は僕が渡る廊下の向こう側に立っている。たぶんこっちに来る。薬箱を抱えたまま立ちすくんで、どうしよう、と悩んだ。

 あの背丈、あの緑色、間違いなく彼は六年い組の先輩だ。話に聞く限り、とてもおっかない。僕と先輩との接点は、こうして廊下ですれ違うのと、保健室当番のときに出くわすかの二択におさまってしまう程度だ。しかし、彼との会話は、まず無表情で見下ろされるところから始まるのだ。それから二言三言、喋るぐらい。もちろん会話も続かず、僕は気まずい沈黙に耐えつつ、先輩の大きな手を消毒するのが常だった。

 だから、僕はあの人が、若干苦手だ。

「……うう」

 こうやって相手の姿を見るだけで緊張していてはどうにも敵わない。ひとまず深呼吸で気持ちを落ち着かせることが先決だ。吸う、吐く、ひとつ。ふたつめの息を吸う途中で、ちらりと見た廊下の向こう側に、小さな影が増えていた。

「らっ……」

 乱太郎!

 緑色の制服が廊下を渡らずに足を止めていたのは、どうやら乱太郎に呼び止められたからだったらしい。彼の足もとにじゃれつく井桁模様は、楽しそうに笑っていた。見ているこっちは気が気じゃない。先輩にまつわる怖いあれこれを知らないのだろうか。あの鋭い目でひと睨みすれば先生でさえも道を譲るとかなんとか、とにかく怖いあれだ。

「……先輩、……?」

「――」

 耳を澄まして会話を聞こうにも聞こえない。廊下ひとつ分っていうのは意外と不便な距離だ。しかしここから重い薬箱を抱えて乱太郎と先輩の間に割り込んで何をしようっていうんだ。しかし気になるものは気になる、と僕は二人をこっそりと窺う。何かあやしい動きがあれば飛び出すのもありだ、だが別にそれは乱太郎が心配なわけではない。

 一度身を隠してから、またちらりと覗き見る。

「うああ」

 目を離している隙に一年坊主が増えているだと!

 あれはきり丸にしんべヱだ。くそ、騒動の種になりやすい三人組がそろい踏みだ。鬱陶しくまとわりついて先輩の機嫌を損ねないだろうか。先輩はなんだか短気そうな感じがして目を離すのが怖い。

「……こらしんべヱ!」

「!!」

 乱太郎が諌める声がここまで聞こえる。しんべヱが先輩の脚に抱き着き、何かをねだっているようだ。見ているこっちがはらはらする。

 先輩は戸惑ったようにしんべヱと見つめ合って動かない。何をごねているのかはわからないが、僕はどうしたらいいんだろう。

「……え」

 先輩は頷くとおもむろに腰を下ろして、しんべヱに背を向けた。それに嬉しそうにのしかかる井桁模様。先輩の首元にぎゅうっと腕を回すしんべヱ、それを確認すると、先輩は腰を上げた。

 ――上げたけど。

「うわあ」

 立ち上がれただけすごいのだ。しんべヱを背中に負ぶった彼は、少し眉をひそめて、黙って棒立ちである。歩けるわけがなかった。しかしあのしんべヱを背負ってみせた先輩は、さすがの六年生だなあ。

 そんなことを思っていて、気が抜けていたのだ。先輩の背中で楽しそうにきょろきょろ辺りを見回したしんべヱと、ばちり、目が合う。

「あっ、川西左近せんぱぁい!」

 手が伸びたなら、手を振るあいつの口を塞いでやりたい。

 しんべヱのその一言で僕の存在は隠れていられなくなり、バツが悪くなり物陰からこそこそと出た。ようやく気付いたらしい乱太郎ときり丸は、僕を見て大きな声で挨拶をする。それにぶっきらぼうに返事をしながら彼らに歩み寄った。もともとこっちに行く予定だったんだから仕方ない。

「こんにちは、川西先輩!」

「おう。……こんにちは、先輩」

「ああ……」

 やはりそっけない返事だ。しかし顔を見ずに挨拶をしてしまった、と後悔しながら顔を上向かせると、僕はぎょっとした。

「し、しんべヱ! 降りろ!」

「うわあ先輩の顔色が悪い!」

「だから言ったろーしんべヱ、先輩の視線の高さになりたいなんて無茶言うぜ」

 駆けていく三つの後輩を見送って、僕は溜息をついた。隣には緑色の制服を着た、先輩が一人。身長の高い彼をちらりと見上げて、僕は思い切って声をかけてみる。

「大丈夫ですか、先輩」

「ああ。悪いな、川西」

「い、いえ! 保健委員として気になっただけですから!」

 そうだ、別に他意はない。

 視線を外しながらの僕の言葉に、先輩は気を悪くした様子もなく、静かに「そうか」と言うだけだった。

「……川西は、どこへ?」

「僕はこの薬箱を保健室へ運ぶ途中です」

 途中、に若干力がこもったような気がした。

 それにも、そうか、と返した先輩は、僕の腕から薬箱をさらっていった。あまりの早業に、思わず情けない声がもれる。急に軽くなった手に戸惑って、僕は隣の先輩をもう一度見上げた。相変わらずの鋭い瞳が、僕をまっすぐに見ている。

 一年生が懐いていた。楽しそうに笑ってじゃれついて、それに対する先輩も心なしか雰囲気が柔らかかった。だから僕もこんな言い方をしてしまうのだ。

 もしかしたら、僕は、目を逸らしていただけかもしれない。

「手伝ってもいいか」

「……べ、つに、手伝いたいならどうぞ」

 だからか不思議と、もうその目を怖いとは思わなかった。