顔、二十枚


、お前……山本シナ先生に求婚したことがあるらしいな」

「……」

 弁明の機会を与えてもらえるならば、この沈黙は決して肯定だとか、どうしてそれを知っているのだとかそういう類のものではない。なぜそんな突拍子もない言葉が目の前の男から飛び出してきたのかが理解することが不可能だったからだ。とうとう徹夜続きで頭のどこかが破壊されてしまったのだろうか、それとも本当に気が触れてしまったのか、こうなる前にちゃんと会計委員の仕事を手伝ってやればよかった。文次郎を見ていたら俺らしくもない後悔が湧いてきて、なんともいえない感情に襲われた。思わず文次郎の肩に手を置いて、悪かったと心で告げる。

 だが文次郎の頭より、その話だ。それはそれ、今は今というわけである。

「……俺がそういうことをしそうに、見えるか」

「お前は突拍子もないことをしそうで怖い」

「……」

 案外信用されていないことを知ってしまった。

 さて、どう信じてもらえばいいか。文次郎が言う、俺があのくの一教室の山本シナ先生に、……求婚したというのは、俺自身の記憶違いでなければ確実にありえない。なんてったって俺は山本シナ先生のことを廊下で二月に一度すれ違うかすれ違わないか、その程度の接点しかない。更に言えば俺は変装というものが苦手で、老婆なのかはたまたまだまだお若いのか、年齢すら不詳の得体の知れない彼女に対して好意を持つことは皆無に近いだろう。もちろん、人間としては尊敬しているし忍術の面では学ぶことは多い。だが、俺が、彼女に? 考えれば考えるほど、有り得ない。

「……いつ頃の話分かるか」

「分からん、が」

「……」

「お前が話していたと聞いたぞ」

 それは、絶対に、俺ではない。

 徐々に話が読めてきた俺は、先ほどから俺の後ろで何かを言いたげに動く気配の主の言いたいことがなんとなくわかってしまって、溜息をついて掌で右目を覆う。目の奥がずんと重たいような気がする、くらくらしてきた。心労というものだろうか、できれば山田さんのような立派な忍者になって任務中にでも味わいたい気分だったが、たぶんこういうものを感じるのはこういう仲間というものが居るときが一番いいに違いない。きっと、そうだ。

「……伊作、お前もこの類の話だろ」

「まあ、うん。君じゃないだろうし、耳に入れようと思っただけだけど」

「もう何が出ても驚かねえよ、教えてくれ」

が、くの一に変装して一年生に」

「悪い、もういい」

 聞きたくもないし想像もしたくない。

 すーっと頭が冷えて、ああ、いい気分だ。なんとなく、頭の芯が火照っているところだとか少し高揚している気分だとか、今は力の加減ができなさそうなところだとか、酒を入れられたようだ。たぶん、俺はいま、笑っている。そりゃ笑える、俺が笑っている。……なんてことだ、俺は長次に近づいているのだろうか、それとも人間というものは何かを越えてしまうと笑みしか浮かべられないのかもしれない。悟りを開いた仙人たちが柔らかな笑みを浮かべ罪人を赦すのも、笑み以外の表情を捨て去ってしまったからなのかもしれない。妙な方向へ思考が飛んでいるのは重々承知だ、ことが大きくなる前に俺の耳に入れてくれた友人二人に礼を言おうと思う。

「文次郎、伊作。ありがとうな」

「いや……、……。え、、ちょっと」

! やりすぎるなよ」

「ああ、分かってる」

 特に何をしようと言ったわけでもないのに俺の行動が読めている友人を持ててきっと俺は幸せ者なのだろう。にこ、にこにこ、そんな擬音は似合わないだろうが、笑みが浮かんでくるのは事実なのだ。俺の顔を見た文次郎が、一歩だけ足を引いた。

 意外にすぐ見つかったそれは、なんとも楽しそうに一年坊主に囲まれていた。素直に楽しそうだ、なんとも羨ましい光景であり微笑ましい光景である。それに加えて、奇妙な光景だ。いつも俺を見てはすぐに逃げる一年が、「」に楽しそうにじゃれついている。これはきっと戒めなのだ、欲しいものを見せてお前には絶対に手に入らないものだと、こんなものを望むお前はばかなのだと伝えてくれているのだ。お前が触れてはならない世界だ、お前が自ら手放した「もしもの未来」だ、捨て置きながら今更執着してどうする。

 俺は気配を消して、並んで縁側に座っているの背後を取った。

「……で、そのとき」

「どうしたって?」

「シナ先生の頬がぱあっと赤くなって、……」

「……お前の顔は青くなったな」

「いやっこれは、先輩、その」

「鉢屋、度が過ぎたな」

 お前の弁明は少しだけ、ほんの少しだけでも聞いてやろう。俺はきっと仙人や聖人に近づいているのだろうから、そのくらいの心の広さがあってもいいはずだ。そうだろう、……手に木刀を握っているのは不可抗力だけれどな。鉢屋は俺の顔を剥ぎ取るのも忘れて俺を見上げて、いつもの余裕はどこへやら、どうやら俺の心を汲み取ってくれているらしい。さすが優秀な五年の天才、鉢屋三郎だ。

「その顔、全部剥いでやろうな」

 ああ、一年の表情が強張るほど、きっと俺はいま酷い顔をしている。