それならいいんだ


「……」

 すうっと、歩を一つ進める。そうすると、一直線に駆ける香車がぐさりと俺の桂馬を討ち取り、俺の陣地に攻め入ってきた一本槍は、金に成る。にやにやと笑いながらじゃらじゃらと駒を鳴らす相手に俺は苛立ちが募る、が今は集中の時。相手が手薄なのは向かって右側、桂馬も香車も不在のあそこしかない。俺は手駒の中からばしん、今度は音を立てて駒を盤に打ち付ける。

 しかし無常に、ばちん! 更に大きな音を立てて投入された、――元・俺の桂馬に、決死の思いで投げ入れた銀を、絡めとられた。

「終局だ」

「……くそ! もう一局だ、今度は防御を……」

「はは、食満は弱えなあ。文次郎のが手ごわいかもな」

「何ぃ!?」

「ほら、もう一局するなら駒の並べ直しだ」

 文次郎の方が強いだと!? こんな、将棋だなんていうほんの暇つぶしの遊戯ひとつにしたってあいつに劣っているものがあるかもしれないというのが俺の闘争心に火をつける。だがしかし、惜しいのは相手がその文次郎自身でないことだ。

 布団のすぐ横に将棋盤を置き、駒を上機嫌に並べるのは、だ。この前のい組の実習で、腹に大穴開けて帰ってきた。今もまだ療養期間中で、暇だからというの最もな要請により暇潰しの相手として気が向いたら誰かしらが彼の部屋を訪ねる。今日は俺がたまたま補修要請のあった用具もないしということで尋ねてみたところだ。

 そういや、あの日も、たまたまだった。

 なんとなく、そういえばそろそろやつらが戻ってくる頃合だなと教室の窓から門を眺めていたところだ。なんだか遅い帰りで、ちらほらと帰ってくるやつらは一度帰ってくるなりすぐに外へととんぼ返り、――何かがおかしいと思った。耳を澄ませば、「――が居ない」「――が」丁度名前が、聞こえない。だが、誰かが欠けているのだというのは理解できた。俺は別の組の出来事だと思いながらも、同級の誰かが災難に巻き込まれたならば手伝ってやろうかと、校庭へと駆け下りた、そのときだった。

がまだだって?」

 ――なんだって?

 俺はそいつの名前を聞いて固まった。「おい、ってか?」その言葉を発したのはい組のやつで、俺の姿を見て少し驚いたのちにバツの悪そうな顔をして、小さく舌打ちをした。俺はそれに構っている余裕もなくそいつに早足で駆け寄る。

「おい、が居ねえってどういう」

「……実習で班を組んでいた文次郎と仙蔵が手当てを受けてる」

は」

「まだ、見つかってない」

 まだ、見つかって、ない?

 実習で行方不明となれば、それはほとんどの確立で、考えたくない結末を想像させる。、お前、なにやってんだよ。こんなもんでくたばっちまうようなやつなのかお前は。たまらず俺も実習をしていたという場所へ向かおうとして体を急速反転、その瞬間に門が、開いた。

 文次郎が立っていた。

 ぼたぼたと、背中から赤くてどす黒いそれを垂らしながら、肩で息をしていた。ぎらぎらと血走ったその瞳は俺に無言で、退けとその一言を発していたが、俺は逆に動けない。背後で、「お前、手当て受けてたんじゃ」なんて声が聞こえるが、俺は文次郎、否その背中に負ぶわれているそれに視線が釘付けだった。

「退け、留三郎!」

「……仙蔵」

「伊作は居るか、新野先生は」

「あ、……ああ、新野先生は出張中だが伊作は保健室に」

「そうか、文次郎、保健室だ!」

 指示を最後まで聞くことなく、文次郎は駆け出していた。血まみれの背中を精一杯揺らすことのないようにとこちらにまで伝わってくるくらい慎重に、それでも速く、速くと、――やつが走るたびに揺れる、力の抜けきった掌の指からまた一粒、血飛沫が飛んだ。

「留三郎」

「……あ?」

「暇潰しに来てくれてんじゃねえのかよ、ほら」

「……おう」

 ぼうっとして、あのときの鮮烈な赤い点を思い出していたらしい俺は将棋盤へと視線を移す。俺の分まで、しっかりと並べられていた。顔を上げると、いつもの後輩に怖がられるような仏頂面が緩まっていて、凶悪な双眸も今は和やかな色を帯びて、まるで時間の流れを慈しむような雰囲気のが居た。

「……今度は勝ってやるからな」

「今度っていつだ」

「……なんだと?」

「なんでも」

 そう、ここに、あの振動と共に揺れ動く頼りない手では無く、しっかりと、は居るのだ。何を確認したのか分からないが、俺はその答えになぜか深く納得をして、また歩を一歩、進めた。