鈍痛と涙と憧れ


 ぱしゃり、と顔のそばで弾けた水音で、うっすらと目を開ける。

「……」

「目が覚めたか」

「……せ、んぞ」

 随分と久々に見るような顔だと、思った。ずっと夢の中をふらふらしていたようで、ぐるぐると視界が回る。もしかしてこの布団の敷かれている部分の畳だけ小平太にでも持ち上げられてぐるぐる回されているのではないかと錯覚するくらいだ。……ああ、そういえば小平太といえばあの泣きそうな顔。なんで伊作もあんなやつを選んで手伝わせるんだ、あんなに痛々しいくらいにまっすぐなやつにこんなところ、見られたくなかったというのに。

「水だ、飲めこの馬鹿」

「……」

 仙蔵の冷ややかな罵倒と同じくらい冷たい水を無理やりに口元から口内へと流し込まれる。もちろん何の準備もしていなかった俺はそのいきなりの口内洪水に目を見開いて抵抗する。しようとしたが、反射的に起き上がろうとしてしまったからか腹部から嫌な音と激痛が俺を現実へと呼び覚ます。思わず悲鳴を上げようとした喉の奥に、氷のように冷え冷えとした水がごぼりと押し寄せてくる。魚のように水の中の微量な酸素を得ることなんてできない俺は無様に噎せ返り、仙蔵が口の中に押し込んだ水を飲みながらも酸素を得ようと必死に喉を開く。腹が、痛い。

「そのくらいの仕打ちで済んでよかったと思え」

「……げほっ、はあ……」

 寝巻きの襟の部分、布団にも跳ねた水はその部分だけ本当の色より薄暗く染め上げて、俺は腹部をなぞる。でこぼことした、丁寧な縫合だ。ようやく喋られるくらいにまで回復した喉から掠れた声を搾り出した。

「……仙蔵、……何日寝てた」

「三日だ。伊作の薬はよく効く、五日は寝たままだと思っていたが」

 ちらりと、涼やかな切れ長の瞳がこちらを見据える。だがすぐにそれは畳へと落ちて、溜息をつかれた。薬や毒には色々と耐性をつけているのだ、常日頃からそういう努力をしてきた。治療薬まで効きにくいのが難点だと思っていたが、そうか伊作のやつ、暴れないようにと眠り薬まで盛っていたのか。

「い、っ」

「見たことか、……寝具まで汚したな」

 口元の水滴を拭えば、腹部に鈍痛が走った。ちりちりと灼けるように俺を蝕むような傷口は、少し開いてしまったらしく寝巻きの腹部辺りが少しばかり赤くなっていた。ああ汚した、ちくしょう、洗うのは面倒だっていうのに。俺は仙蔵に言われた通り寝具まで汚したかどうかを確かめるために少し体勢を崩そうとした。

「――」

「……、、お前」

 だが俺は、至って冷静に、布団を正してさも「正常に起き上がっている状態」を作り上げた。そして仙蔵に対しても、何も口を出すなと視線で警告を送る。ばたばた、廊下を走るのはあまり忍びとしていただけないと思う。だがしかし、この廊下の振動、音、微かな息遣い、まだ経験の薄い、幼いものを感じる。俺は反射的に血の滲んできた腹部を布団で隠す。その瞬間に、俺の自室の障子の前でその気配が、止まった。

「せ、先輩、立花先輩! ぼく、一年、は組のっ」

「……ああ、入れ」

「失礼します!!」

 音を立てながら勢いよく開けられた障子に少し驚きながらも、その障子の先に居た少年を見やる。微かに肩を揺らしながら、布団を、俺を凝視している少年の瞳はきらきらと光るものが浮いている。俺は微笑みながら、未だに掠れたままの声で彼の名前を呼んだ。

「……金吾」

「せ、せん、ぱ、……先輩、あの、け、けがを!」

「大したことない、至って元気だ。だから泣くな、男が泣くのは格好悪い」

「は、……はいぃ……!」

 ぐしぐしと制服の袖で目の縁を拭う金吾は、前髪も乱れて呼吸もまだ安定しない。どれだけの距離をどれだけの力で走ってきたんだろう、俺は、俺はそれくらいのことをされるだけの人間じゃないと思うのに、勿体無いと心のどこかで重いながらも、俺は口元が緩んでいるのにも気づいていた。そして、すうっと両手を広げる。隣の仙蔵の気配が、ぴりっと刺すようなものになったのにももちろん気づいている。

「来い、金吾」

「……、うっ、ああ、、先輩い!」

 治まりかけていた呼吸もまた乱れ、涙も頬を伝ってしまったけれども、金吾は迷わず俺の広げた腕の中に飛び込んできた。…そういえば金吾は俺の怪我を、どう聞いたんだろうか。全身での躊躇いのない突進に近いそれを受け止めた瞬間にまた腹部に嫌な痛みが走ったけれど、大丈夫だ布団で隠れているからこの少年には見えやしない。浮いた脂汗も、抱きしめている状態ならば。

「しっ、心配、しました、しんぱ、ほんと、……っ、ほん、とにぃ、いっぱい、いっぱい…!」

「そうかそうか、ごめんなあ、ありがとう」

 必死に背中に縋りついてくる金吾の両手は俺の寝巻きを掻き抱くように握り締める。俺はそんな金吾の頭をできるだけ優しく撫でてやりながらも、どくどくと激しく脈打つ金吾の心臓に、ああ俺はまだ生きているのだと確信した。

「……お前も、性格の悪い男だ」

 隣でそう呟いた仙蔵の言葉は、聞こえなかったことにした。