眠れ、ばけもの


「うんうん、わかる。わかるぞ、その気持ち」

「分かるか、お前にも分かるか………」

 満月を二日ほど欠かしたくらいの月を眺めながら、二つの影が肩を震わせていた。とろとろと酒気を帯びた視線はしっかりと前を見据えることもなく、ゆらゆらゆらゆら、目の前の池とその上にしっかりと飼いならされている今日の月を映す。

 もう既に何杯飲んだか、と考えながら、一つの影の正体である潮江文次郎は隣の男と一緒にもう一度、酒を飲み下す。

「……顔を見るなり避けられ逃げられ……」

「夜中こそ忍者の訓練の時間に最適だというのに」

「ありもしない噂を立てられ下級生には近寄られもせず……」

「頭の苦無が鬼の角に見えただと? バカタレィ、夜間に目が利かんとは」

「目つきが悪い? 生物委員騒動? 俺ってそんなに怖いか? なあ、文次郎」

「ギンギンに忍者するための夜だ、寝て過ごすなんて勿体無いだろう、なあ、

 ぶつぶつと隣同士、いかに自分らが下級生に色眼鏡で見られているかを痛感していた六年い組の二つの影であった。

 潮江文次郎の色濃く染み付いたもはやトレードマークとさえ言える隈をこさえた左右で微妙に形の違う双眸は下級生の恐怖の的である。一年の会計委員の二人が語るには、徹夜三日目の朝方、計算を間違えでもした日には元々の寝不足によってできた隈と真っ赤に充血した瞳でギロリと一睨みされればそれはまるで氷の視線、はたまた地獄の烈火の炎、更に例えるならばギラギラと獲物を狙う野生の狼のようにそれはそれは鋭利な視線なのだという。"それ"をまともに食らった日には――、と、この先は誰もが顔を青くして口を閉ざす。

 そしてもう片方の黒い影の正体はこちらも六年い組の、元々の目つきがえらく酷い。そしてあまり表情に種類が無く、ほんの少しの眉の動きで彼の心情を察しなければならないのは困難極まりない。下級生らには見た目が怖ければ性格も鬼のように恐ろしいのだろうと変に避けられ疑われ、最近になってようやく打ち解けてきたと思っていた矢先に、の抑え込んでいた鬱積が生物委員に降り注いだ事件があった(通称・生物委員騒動と呼ばれていることを、彼は保健委員長から聞いた)。それからはがらがらと崩れていくばかり信頼の積み木、戻すことは困難だろう。

 だからこうして、下級生と打ち解けるにはどうすればいいのかと、柄にもない相談事をしつつも酒に興じていた、また、逃げていた。

 今日の酒は少しだけとろりとしたそれは舌触りもよく香りもいい、の秘蔵の一本。本当は卒業式に開けるつもりだったのにと軽く皮肉るに、文次郎は食堂から命からがらくすねてきた軽い肴を持ち上げて応えた。

「文次郎は、もっと下級生に優しくしてやればいい」

「やさしく、だとぉ?」

「おう、一年坊主に俺と同じように接するから怖がんだよ」

「訓練に鍛錬を、…積めば、上級生としての信頼が」

「信頼と畏怖の払拭は、違う」

「勝手についてくるもんだ、……ろ……」

「……おーお、効いてきた効いてきた」

 水面の、狭い池に飼われた月がちゃぷんと揺れた。

 未だに夜は深い、いつもの文次郎ならば未だにギンギンと叫びながら学園中の屋根を飛び回り、稀に小平太とのバレーボールに励み、そして勉学にも余念が無い。精進して鍛えているとはいえ、自分の体がちゃんとした肉体で、限界というものがあるのもきっと知らないのだ。そんなものは訓練で越える、鍛錬で壊す、己の精神の弱さだなんだといちゃもんをつけて自分の限界を更に広げようとする。それでいいのだ。それでなければ成長などしないし、文次郎も虚け者ではないとは信頼しているし、努力を惜しまず目標が轟然と揺るがない彼を尊敬もしている。

 されどもまずい。これは酷い。は隣の友を見やりながら、もう一杯と酒を煽る。

「……ばけものめ」

「……おまえの、目つきには、ばけものも……裸足で……」

 目つきのことをいうな、と、は隣で死に掛けのような顔をした文次郎の瞼をそっと撫でた。

 いつもならばここで素早くの手を振り払い距離をとり、なんだやるか! などと組み手でも始まるところであるが、今の文次郎は酔いどれ文次郎であり、更に酒に混ぜておいた無味無臭の眠り薬にも気づかないくらいに疲労困憊のぼろぼろ文次郎である。既に瞼を上げていることすらできていない彼にとってそれは合図であり、ぽちゃん、と、池に居る虫か魚かの跳ねる音と共に彼はの腕の中に倒れこんだ。

「……一週間以上の徹夜じゃあ、ばけもの並みの顔にもなるわな」

 つまりこれはの罠である。

 近いうち、六年い組の実習訓練が実地される。この寝不足の状態の文次郎に実習などさせれば怪我でもするか、それとも死ぬか。

 戦場は死ぬか生きるか一歩で違う。一歩進まなかった故に生き延びた、進んだ先で死に絶えた、そういう血なまぐさいものなのだ。そんなところにこの「ばけもの」のような体力を持って「ばけもの」のような顔をした、そんな級友を連れて行くのは御免だと、全身の力が抜け切っている文次郎を背中に背負いながらは思った。

「……お疲れさんよ、ばけもんじ」

 今は背中で眠る、ばけもののような「強さ」を持つ誇らしい戦友に小さく呟いて、は薄く目を細めた。