僕は今日も、戸部先生のように立派な剣豪になるために素振りをする。ぎし、と手のひらで木刀が軋んだ。もう何十回振ったかな、と思って額の汗を袖で拭った。そろそろ水でも飲んで休憩しようかな、なんて思ったところで、誰かの気配がふっと視線のぎりぎりのところを横切った。誰だ、と少し気を尖らせてみても相手は動じない。
「誰だあ!」
「ん?」
「!」
少し声が震えたけれど、威嚇の意味で叫んでみる。すると、がさ、とすぐ近くの茂みから六年生が出てきた。ろ、ろ六年生! っていやそこじゃない、この人は六年い組の、今めちゃくちゃ怖いと噂の先輩だ! こうしてみると、すうっと目を細める仕草とかすごく威圧感がある。元々あんまり表情が柔らかい人じゃないとは知ってたけど、いつも接している六年生と雰囲気が違いすぎる。体育委員長の七松小平太先輩は明るく笑って頭を痛いぐらいに撫でてくれるから、あの笑顔を期待するとだめだと体が固まってしまった。すると先輩はぱちりと瞬きをして、ゆっくりと唇を動かす。
「は組の……」
「は、はい! 一年は組の皆本金吾と申します!」
「筋がいいって戸部先生が話してたぞ」
気配の読み方もいい、と先輩はさっきとは違う目の細め方をした。あ、少し目つきが柔らかくなった。でも、生物委員のあの話は本当だし、どうしても怖いイメージが抜け切れない。竹谷八左ヱ門先輩と伊賀崎孫兵先輩のペットのジュンコの被害が頭によぎる。
「……ああ、食え」
「え?」
「これ」
これ、と先輩はさっきからひょいひょいと摘んでいた金平糖の袋をざらざらと揺らした。ちょっと疲れて甘いものがほしいと思っていたところだったから貰おうかと思ったけど、ちょっとまだ近づくのは怖い。でも最初に見たときの鋭利な気配と今の気配とがあまりに違うので、警戒心はほとんど抜け落ちていた。そんな僕の思考を読みぬいたように、先輩は僕の返事を聞く前に僕の手を引いて長屋の廊下に座らせた。
「手ぇ、出せ」
「は、はい!」
反射的にぱっと手で皿を作ると、先輩はざらっと十粒ほどの金平糖を掌に落としてくれた。色とりどりのきらきらした砂糖菓子が掌を彩る。思わず一粒摘んでみると、じんわりと甘さが舌に広がってほうっと息を吐いた。隣の先輩が僕を眺めているから、なんとなしに見上げると、目が合った。さきほどよりほんの少しだけ眉が下がっている、気がする。
「……美味いか?」
「はい、美味しいです」
「何よりだ」
ほっと先輩は安心したように自分も金平糖を口に含んだ。先輩の口ががりっと音を立てたところで、先輩への恐怖感は全く無くなっていた。ぼんやりと空を見上げながら、金平糖を口の中で転がす。せっかく隣に人が居るのになんとなく黙っているのは居心地が悪くて身をよじる。
「……そういや、皆本は転入生だったな」
「はい、父に剣術だけでは生きていけないと…」
「へえ、父親の意向か」
いい父親だな、なんて先輩が言うものだから嬉しくなって、僕は金平糖を舌先で味わいながら転入する前の一年間のことを掻い摘んで話してしまった。先輩は聞き上手で、絶妙なタイミングで合いの手を入れてくれるから話が弾む。久々に自分のことを話せる機会を持てたからなのか僕も口がよく回った。話している時間の間に金平糖が無くなってしまって、また掌に降らせてもらってしまった。甘くて、いつもは話さないようなところまで思考が行き届いて、また時間が過ぎていく。
「で、今は戸部先生のところにお世話になってるんですけど」
「ああ……なるほど。じゃああの癖で苦労したろ」
「ええ、借家を追い出されるのなんてしょっちゅうですよ」
「だろうな」
風が吹いたように、するりと、先輩が笑った。あまりに自然な変化だったから気づかなかったかもしれないくらいで、僕は目を丸くして、思わず言葉を止めてしまった。彼はせっかく笑った顔もまた普通の顔に戻してしまって、どうした? なんて優しく問いかけてくる。いいえ、とそれだけ返して、僕も笑った。
なんだ、全然、怖くなんてない。僕は最初のあの怖がり方を思い出してしまって妙に気恥ずかしくなって、口早に尋ねた。
「せ、先輩の父上はどのような方ですか?」
「……え」
「……先輩?」
いや、と妙に口ごもって、先輩は居心地悪そうに、また金平糖を噛んだ。ちらりと僕を見やってから先輩は重い口を開く。さきほどまではぴんと伸びていたはずの背中が、わずかに丸められる。
「……片親でな」
「…………え」
「顔も声も、名前もよく分からん」
実家には歓迎されない上に母親は病気で呆気なかったし。つらつらと話す先輩にさっきまでの柔らかさは無かった。どことなく表情が石像のように冷たくなってしまって、僕はこの話は先輩にとって鬼門だったのだと気づかされる。触れられたくない話、触れてはいけない話というものが誰でもあるはずなのに、初めて話す先輩だから何も分からずと痛いところを抉ってしまった。
「で、ここに流れ着いてきて……、皆本?」
「……」
「な、どうした? え? 舌でも噛んだか?」
それを思うと、僕は胸が痛くて痛くて、涙が両の目からぼろぼろ零れ落ちた。さっきまで僕は無神経に自分の家族の話をしていた訳で、それは先輩にとってどんなに嫌な話題だっただろう。先輩は僕を嫌いになってしまっただろうか。ぎゅうっと胸の奥を雑巾のように絞られたような感じがして、僕は必死に制服の裾で涙を拭う。
「歯か? 痛いか? 金平糖なんかやらなきゃよかったか」
「ち、ちが」
「血っ? やっぱ舌噛んだのか、とにかく口を漱ぎに行こう、鉄っぽいだろ」
違う、と言おうと思ったのにしゃくり上げてしまったせいで微妙に途切れてしまった言葉を間違えて解釈した先輩は僕を担ぎ上げた。違うんです、と言いたいのに喉が上手く動かない。抱えられたのを理解するとほぼ同時にびゅ、と耳元で風が鳴って、六年生はさすが足が速いなあなんて見当違いのことが一瞬頭を掠めた。
「…先輩」
「これだからだめなんだな……ごめんな」
今日の日記。
先輩はとっても優しい先輩です。僕のことを、金吾と呼んでくれるようになりました。
「金吾、何書いてるのー?」
「見ちゃだめだよ!」