「……い、っ……」
六年生の制服の忍装束を身に着けた男、は口元を歪ませながら目の前の物体を見つめた。大きく見開いた瞳にそれが移りこむ。その上に、寝そべっていた自分の体にうねうねとその自慢の軟体を這わせる長い生き物はの気持ちも知らずに悠々と枝へと移ろうとしている。反射的に振り払おうとする手を必死に理性で押さえつけ、はぶつぶつとお経を唱え始めた。
いま刺激すれば噛まれるかもしれない。それにとにかくこれ以上近づいてほしくない、実を言うと触りたくない。更にいえば、目の前に居るというその事実だけでも辛かった。
お経を唱える意味はこれっぽっちもなかったけれど、でも何かしていないと視界にそれが居るということをいやでも意識してしまう。でも気を紛らわせるのもそろそろ限界だ、これほど身を縮こまらせるのは授業以外で今までにはなかった経験だ。そう何事も経験で、これもまた精神力を鍛えることに繋がるのだ。…合掌。
ちろり、それはようやく体の上から木の枝に長い体を三分の一ほど移動させていた。体がうねると同時に歪んで見える赤い模様を、ゆったりと見せ付けながら、木の枝の向こう側へと悠々渡っていく。その間わずか三十秒にも満たなかったが、もう既に一時間は経過したのではないかと思われるほど、長い時間だった。
この事態には実は色々と大変な過程があったのだ。
被害者がだったのは単なる偶然である。
いや、涼しげな木の上でまどろんでいた彼が悪いのかもしれない。別にその木が好きだとかそういう理由でもない。ただ、その木のその場所に居たのが悪かった。単なる偶然でも、事情が積み重なってしまえば必然というものになってしまうのならば、それはある意味の必然だったかもしれない。
「誰だ毒虫の籠を開けたのはっ!?」
「た、竹谷先輩、そんなことより早く! 早く捕獲を!」
「ああああもう……!」
さかのぼることたった二分、生物委員の飼育小屋にて悲鳴に近い絶叫が上がった。五年ろ組の竹谷八左ヱ門、生物委員会に属する彼は五年でも指折りの苦労人である。その彼が今上げた悲鳴はもちろん生物委員の飼っている毒虫の集団脱走によるもので、忍術学園にとってもはや日常と言ってもいいくらいの頻度で起こる、竹谷の頭を悩ませる事態の一つである。もちろん逃がしてしまうのは毎回事故であり誰を責めようにも責められない。泣きたい、と竹谷は毒虫捕獲用の網を出しながら心の中で呟いた。
「孫兵、そっちを頼む!」
「はい!」
「じゃあ僕はあっちを!」
「よし、みんな! 命を粗末にするなよ!」
もちろんこの命は毒虫たちの、である。みんな毒虫に刺されれば痛い、で済まないのを知っているので生物委員のこの救出劇に手を貸してくれる。だがこの小屋の開放と同じように、事故というものは存在する。誰かが知らずに足を下ろして毒虫を、「事故で」踏み潰してしまったりすることも、もちろん多々ある。竹谷は命を無駄にするのを何よりも厭う男であるのでそれだけは避けてくれよという意味を込めた言葉であったりするのだ。だが、事情や竹谷八左ヱ門の性格を知らぬ人間からしてみれば、毒虫をいやいや扱わされている人間の苦言にも聞こえたかもしれない。本人にとってはどうでもいいことだった。
「よーしジュンコ! 一緒に来てくれ!」
「ちょっと待て! なぜ毒蛇を連れて行く!?」
竹谷の突っ込みは意味を成さないまま空気に溶けた。三年生の伊賀崎孫兵は首ににょろりと、毒々しい皮を持った毒蛇・ジュンコを絡み付けて網と壷を手に走り出す。そして草むらや地面に網を振り回した。
「どこだ、頼む! 返事をしてくれっ」
風を切る音がするほど激しく網を振り回す孫兵。もちろん網には何も掛からない。毒虫たちからの返事も返ってはこなかった。孫兵もまた毒を持つ彼らのことを深く愛している者の一人なので、彼らの集団散歩――脱走に心を痛めていた。自分の傍に居ない間に命を散らせてしまっていたら、と想像するだけで辛くなる。
気持ちばかりが先走り、そしてここからが問題だった。
「な、ジュンコも探してくれ」
孫兵が彼の愛しいジュンコに優しく語り掛けると、まるで答えるようにジュンコがするりと彼の首元から肩へと移る。そして、なぜか彼の持っている網に向かってひゅっと絡みついた。蛇は細いものに絡みつくのが好きなのだろうか、それとも網の先に小鳥が飛んでいたからなのだろうか。ジュンコに聞くわけにもいかないので真相を知ることはできないがとにかく次の瞬間、網の棒に絡みついたジュンコは目を丸くした。
「え、……ジュンコ!?」
悲劇である。
孫兵はジュンコが網に絡みついた瞬間を見ていなかった。当然、彼は毒虫を捕獲するために、激しく網を振り回していたわけで、釣竿のルアーのようにジュンコは激しい揺れに襲われた。細い竿からジュンコの体は放り投げられ、網に引っかかる突起もないために、大きく弧を描くように空中に投げ飛ばされた。
そして飛んで飛んで飛んで――木に引っかかる。
言わずとも分かるようにそこに居たのがであり、ここで話は冒頭に戻るわけだ。もちろん六年生が皆、蛇が得意なわけではない。かくいうがいい例で、彼は爬虫類が苦手だった。突如枝の間から沸いて出たジュンコと目が合ったの顔は酷いものだっただろう。口からというより喉の奥から飛び出た声は情けなく、この学園で長い間一緒に過ごしてきた同級の人間が聞けば腹を抱えて卒業後までの笑い話になっただろうと容易に想像がついた。
「ぐうっ」
成績の悪いわけでない彼が木から落ちるくらい動揺するなんてこんなときくらいしかあるまい。どす、と恐ろしい音を立てて、木から落ちたはあまりの痛さに歯を食いしばって悶絶した。上手く受身が取れなかったらしく、ひどく背中が痛い。二秒してから半ば涙目の目を開けると、そこには虫取り網を構えた、藍色の制服を着込んだ後輩が居た。こちらを眺めて呆然としている。
「……」
「……、ど、どうも……」
お互いの間に流れる、無言。それを打ち消そうとしているのは、後輩竹谷八左ヱ門に掛けられた籠の中で羽を打ち合わせる虫の羽音のみだった。少しの間状況把握に一生懸命だった思考が、ようやく事実に行き着いた。見られた、木の上から転がり落ちたところを、しっかりと見られてしまった。
「……竹谷」
「え、あ……い、いえ! 見てないです、見てないですよ!」
「ちょっといいか、話がある」
「見てないですって! 本当ですってっ!?」
引きずられていった青紫と引きずっていった深緑には知れないことだったが、ちゃんと蛇は自分の特等席である少年の首元に帰っていった。そして前後を知らず、先輩が後輩を引きずっていったという一場面だけを目撃してしまった人物が居たために、は更に下級生から遠ざかる道を進むことになっているのだが、それもまだ知れぬこと。