「…いっ」
痛い、と口の中で呟いて、僕は足元を見やる。なぜこんなところに本の山が出来ているんだ、おかげで足を思いっきり本の角にぶつけた。ついでにその本の山の上から三冊が床に音を立てて落ちる。ああ、中が折れてないといいのだけれど。それを拾い上げようとして身を屈めると、二本の足が本棚の間から伸びているのに気がついてぎょっとする。思わず声を上げたけれど、ちょうど中在家先輩は図書室を出て行ったところでそれを咎められることはなかった。誰だ、と観察すると、制服を着ているところから生徒らしい。
深い緑色を視認すると同時に、墨の匂いまで認識してしまった。薄暗い場所に気配もなく倒れていることに驚いてしまったが、どうやら起こしてやるだけでなく注意する必要まであるようだ。
「すみません」
図書室内で墨を扱うのは、一応やめてもらいたい。いろいろと重要な書物もあったりするし、間違って零されてもしたら面倒なのは僕たち図書委員だ。そして、そうやってだめにされた本を前にして途方にくれるのも、なんとなく悲しい気分になるのも、図書委員なのだ。
「あのー」
「……」
「……先輩か」
本の中に埋もれて、無造作に寝転がっているのは、確かに六年い組の先輩に間違いなかった。目を開いてるときとは少し印象が変わったように見えるのは、無表情よりも優しい寝顔をしているからだろう。墨の匂いを辿ると、本から離れた場所に硯と墨が置いてあった。きちんと揃えてあるところから、ちょっとだけ先輩への評価が上がった。粗野な人なのかと思っていたけれど、本を粗末に扱う人じゃなかったことに感謝する。
だが、僕は先輩の肩をゆする。こんなところで寝てると風邪を引くかもしれないし、もう遅い時間だ。図書室を施錠しなければならない。
「先輩、起きて下さい。もう閉めます」
「……」
「それに書き物は禁止ですよ、聞いてますか」
やはり、無防備に寝ている人を叩き起こすのは、ちょっと気が引ける。
それに一応先輩なのだし、いや一応ではなく正真正銘の先輩なのだが、いや今の論点はそこじゃない。肩を揺すぶる力を強めたのち、視線を床に走らせた。先輩が撒いたのだろう書物は火薬関係のもので、たぶん五年で扱うものより高度な技術を記してあるから課題か何かだったのだろう。かなりの量を開いてあるから片付けるのは骨だ。借りていくにも面倒な量ある資料をここで調べていくつもりだったに違いない。
中在家先輩に怒られても仕方がない、と僕は溜息をついた。覚悟を決めたのも同時だ。
熟睡しているのならば今起こしてもすぐに行動に移してはくれないだろう、だったら少しでも僕一人で片付けをしてやったほうが時間短縮になるのではないか。いや待てよ、先輩が寝起きがいい人だったらさっさと起こしたほうがいいんじゃないか? いやいや、だとしてもこれ以上しつこく起こすのは悪いような気がしてならない。でも、本を片付けている最中に何かあったら――ううん。
「……不破?」
「えっ?」
驚いて中途半端に伸ばされた僕の手が本の山に触れて、一冊が床に落ちる。その衝撃で中段の本が出っ張ってしまい、調和が乱れ、みるみる間にぐらぐらと傾ぎ始めた。
「うわっ」
僕が慌てて山に手を添えようとしたが、焦ったために指先は山を更に弾いてしまう。ぐらりとゆっくりゆっくり、上段から本が落ちてくる。本の山が崩れる。本を挟んであちら側から、この状況には似つかわしくないぼんやりとした呻き声が聞こえたのちに、一冊目が、床に落下した。
それからたぶん、未だ横になったままの体に、およそ十冊の本が降り注いだ。
「悪かった」
目を細めた先輩は、どうやら本の角が当たったらしい箇所を摩りながら謝罪を繰り返している。謝らなければいけないのは事故で本を倒してしまった僕なのだから、僕もまた先輩に謝る。謝りあう僕らはきっと奇妙に見えることだろう。数枚の中身が落下の衝撃で折れてしまっていたが、破れたり読めなくなったりしてしまったものはなさそうだ。本を本棚に戻しながら、先輩はもう一度謝る。
「本当に悪かった」
「もういいですよ、僕もすみませんでした」
「じゃあ、お相子な」
ぐっと伸びをした先輩の背中から、ぱきりと音がした。そうですね、と笑って、火縄銃の取り扱いについて書かれた本の背中を指で押し込む。この本の中巻がまだ帰ってきていない、誰が借りているのだろう、と下巻を押し込みながら考えたが、貸し出しカードをいちいち見てまで知りたいことでもないのですぐにその疑問は掻き消えていった。
ごとりと重たい音が背後でした。首だけで振り向くと、硯を抱えた先輩が、小さな紙に何かを書きこんでいた。ふと視線がまじわる。先輩はいつもの無表情で、ぼそりと呟いた。
「閉めるんだろう」
「……ああ、はい」
「起こしてくれて、ありがとう」
お礼とともに差し出されたのは、貸し出しカードだった。、と書かれたそれに、乾ききっていない墨が走ったあとが真新しい。確認しましたと口頭で伝えると、彼はかるく会釈をして、本と硯を持って扉の向こうへ消えていった。持ち主が居なくなったのに、その墨の匂いはまだ図書室に残っている。
片付けなければならない最後の本を、一枚ぺらりと捲る。やっぱり僕には理解できなさそうな内容だった。