あと三十年若かったらなあ


「なに読んでるんです?」

「雑誌です、今は新生活向け一色で気分変えるには最適なので」

「ははあ、確かに」

 ソファに腰掛けて雑誌を広げ、まだ在庫のあるかりんとうを消費しながらコーヒーを啜る。春らしいパステルカラー、シフォンのスカート、パリッとしたスーツ。自分が最後に新生活に向けてキラキラしたのがいつだったかもう思い出せないけれど、こういう特集は眺めているだけで面白くて結構好きだ。

「神倉さん、コーヒー要ります?」

「ああ、お願いします」

 所長室から出てきた神倉さんは、首と肩を回しながらソファに寄ってきて静かに腰掛けた。コーヒーにかりんとうを添えて差し出すと、丸眼鏡の奥の瞳がちょっと苦笑いをした気がした。東海林の気まぐれはまだ段ボールで鎮座している。

「ああ、新卒。いずれ久部くんもこんなスーツやネクタイをして挨拶に来てしまうんですね」

「久部が? あの子、なんかスーツに着られそうです。いつまでも大学生やってる方が似合いますよ」

「いやそういうわけにも……」

 モデルが長い足を強調するようにスーツを着込み、まぶしい青空をバックに笑顔を振りまいている。ネクタイは青、腕時計はカメラマン私物。靴だけで久部のバイト代が吹き飛びそうな値段だった。

「あ、これ。これなんかどうです、久部くんに」

 神倉さんが急に雑誌を指差し、訳のわからないことを言い出した。「久部に」おうむ返ししてからそのページを見ると、新生活に向けてプレゼントをという煽りとずらりと並んだカラフルなネクタイが印刷されている。隣に座った神倉さんを窺うと「似合うと思いませんか」なんて自信ありげな顔をされた。

「はい。いや、ううん、久部ならこっちも」

「そっちですか。ドットよりはストライプかな、中堂さんならどれですかね。黒以外で」

「中堂さんはこの色で、坂本さんはもうこれでいいでしょう」

「ああ、さりげないムーミン……」

 水を向けられ、ラボのメンツに似合うネクタイ選びに移行した話題は案外盛り上がった。むっつり仏頂面をする中堂さんに桜餅みたいなピンクのネクタイを締めてみたり、久部の首に派手派手しいブランドを添えてその浮きっぷりに笑ったり。

 自然な流れで、明るい春の色を指差した。

「神倉さんには、これですね」

 彼は目をぱちくりさせて、傾けていたマグカップを丸テーブルに戻し、「私に?」と言った。

「すこし、派手すぎませんか」

「似合うと思いますよ」

「あと三十年若かったらなあ」

 照れ笑いをして首の後ろに手を添えた神倉さんは、ありがとうございます、と小さく頭を下げた。律儀で謙虚で、優しい人だ。

「じゃあ三十年若かったら、このネクタイいつつけます?」

「ええ?」

「職場? 遊び?」

「いや、職場にはちょっと。遊びに行くにも、ネクタイをつけるようなのは」

「それじゃあ、デートの時ですね」

 べっ甲の丸眼鏡ごしに、優しい目が困った子どもを見るように垂れた。こちらもにっこり微笑んで、モデルのグレーのジャケットを指差して神倉さんに向けてスライドさせる。

「ジャケット、シャツ、そしてこのネクタイ。三十歳若い神倉さんは、こんな格好でどきどき相手を待ってる」

「デートだなんて、はずかしいな」

「そうですね、じゃあ例えば、わたし。待ち合わせ相手がわたしだったら神倉さんどこに連れてってくれます?」

「ええ、私たち二人で?」

「はい。三十歳若い神倉さんと、今のわたし。目の前に居るので想像しやすいかなと」

 それとも東海林のほうがいいですか、と続けると神倉さんはもっと困った顔をして、わかりましたと呟いた。どうぞ、なんて先を促すわたしの指先はデートをするには向かない、ネイルもアクセサリーもない殺風景なものである。

「そうですね、まずは散歩にでも」

「散歩。公園とか、そんな?」

「ええ、晴れた気持ちのいい日に、風を感じながら木漏れ日を歩きたいです。のんびりあてもない話をしながら、小腹が空くまで語りましょう」

「小腹が空いたら?」

「そうしたらカフェでも探して、コーヒーでも飲みます。甘いものが食べたければケーキでも頼めばいいですし、足らなければサンドイッチでも」

 パスタは緊張して服を汚しそうだからやめます。いたずらっ子のような声色で付け足して、神倉さんは歌うように続ける。「そしたら映画へ、終わったら感想を伝え合いながら夕食を」なかなか素敵なデートコースだ。

「それ、家まで送ってくれます?」

「バイクの二人乗りが怖くなければ」

 思わず笑いがこぼれた。あんなに困った顔をしていたのに、なかなかどうしてロマンチックな一日を過ごさせてくれる人。すこし顎を引いて上目遣いになりながら、こちらの反応を見てほっとした顔の主演俳優に拍手を送る。

「素敵です、ネクタイにぴったり」

「さ、そろそろ皆さん戻ってきます。午後からも頑張りましょう」

「はい」

 彼が腰をあげるのと同時に雑誌を閉じ、残ったコーヒーを飲み干す。マグカップに残ったグロスの痕を親指で消して、広い長身の背を眺める。

 三十年。それだけ時間があればロマンスグレーは艶やかな黒髪で、頬にはもっと張りがあって。そんな彼は、本当にパスタを避けてくれるだろうか。

「ばかだ」

 昼食後の眠気を振り払うように立ち上がって、空になったかりんとうの袋をゴミ箱に放り込んだ。