優秀な魔法士を育成・輩出してその名を轟かせているナイトレイブンカレッジ、その一角であるハーツラビュル寮はグレートセブンが一人、ハートの女王の厳格な精神に基づく寮である。ハーツラビュルがサバナクロー、オクタヴィネルといった他の寮と異なる点といえば、ハートの女王を敬って定められた八百十条ものルールに他ならない。
ルールがなぜあるか。それは善悪の基準を明確にするためであり、ルールを破ったものへ罰を与えるためである。ハーツラビュル寮においてハートの女王の法律は絶対だ。その権威を犯すことはグレートセブンの威光を汚すこと、ハーツラビュル寮長には過ちを厳格に裁く義務が課せられている。そのため、ハーツラビュル寮長のユニーク魔法は人に『罰』を与えるという方面に長けている生徒に適正が高いとも言えるのだろう。
厳格さ、それを施行できる能力――それらを加味し、現寮長リドル・ローズハート二年生はハーツラビュル寮長として理想のうちの一人であった。
「だからァ、見たんだって!」
大食堂の隅、今日は水曜日だからと大手を振ってハンバーグを選んだエースがハート型を真っ二つに切り分けながら言った。隣でソーセージ入りミネストローネを啜りながら監督生が首をかしげると、今にも立ち上がらんばかりの勢いでフォークとナイフを握った手をテーブルに叩きつける。
「トレイ先輩が壁に向かって消えたのを……ッ」
その隣でオムレツを齧っていたグリムが中から零れだすチーズに慌てながらうんざりとしたように言う。
「エース……オマエ寝ぼけてたんだゾ」
「それに、その話は昨日から五回目だ。さすがの僕でもいい加減飽きる」
「お前らは見てないからそんなことが言えるんだよ、俺は寝ぼけてなかったしトレイ先輩は消えた! あれはハーツラビュル寮の七不思議のひとつだね」
「あと六つは?」
「これから見つかる」
エースと向かい合って座ったデュースは呆れたようにチキンの照り焼きをひと口放り込んだ。今日の料理もおいしい。ふわふわした白パンをちぎって口に入れると、未だに納得していない様子のエースがハンバーグを細かく切り刻んでいる。しょうがない。デュースは溜息をついて、彼の話に乗ってやることにした。
「でも、トレイ先輩にも聞いたんだろう」
「聞いた」
「『変身術の予習をしていたから消えたように見えたんだろう』と言われたんだったな」
「言われた」
「先輩本人が言うのならそうなんじゃないか」
「うーん」
付け合わせのブロッコリーを噛みながら、エースはどうも腑に落ちない表情のままである。しかしこれ以上話しても埒が明かないと感じたのか、それから昼食を片付け終わるまでの間この話を引きずらなかった。監督生とグリムは朝から、デュースは昨日の晩から同じ話を聞かされては「納得いかねえ」の結論に至るまでを繰り返し再生されているので内心ほっとした。
しかし、デュースは取り繕った真面目顔のまま心の中でエースに手を合わせ、こっそり謝った。
エース曰く「ハーツラビュル寮の七不思議のひとつ」を、デュースは半月も前から知っていたからである。
デュースはその日、翌日に控えた『なんでもない日のパーティ』の打ち合わせがてらケイトを探して夜更け過ぎに自室からハーツラビュル寮の談話室まで出てきていた。リドルに見つかって余計なお小言を貰わぬようにか、そろそろ消灯時間だということもあって談話室に人気はなかった。
だからケイトの声がよく聞こえたのだろう。誰かに話しかけるような、唄っているような、そんなリズムに乗った声が。デュースの位置からはケイトの姿を直接見ることはできなかったが、誰かが雑に閉めたカーテンの隙間、窓ガラスに反射した姿がよく見えた。明るい髪をかき上げた姿、ケイトが壁に向かって立っている。
『――きらきら光るコウモリさん、あなたは何をしているの』
ちょうどケイトしか見えないが、誰かと話しているのか? 話しかけるタイミングを逸したデュースはその位置でじっと様子を窺う。瞬きもしないくらい真剣に、何をも見逃さぬつもりだった。
次の瞬間、デュースは目を擦った。二度擦った。三度やったところで体が反射的に飛び出していた。
「け、ケイト先輩?」
そこに居たはずのケイトの姿がなくなっていた。
右を見ても左を見ても、戸棚の中も窓の向こうも、隠し扉の可能性さえ鑑みて捜索したものの、成果は振るわなかった。慌てふためいたデュースは優等生らしく、頼りやすい副寮長に報告・連絡・相談した。ケイト先輩が消えたと端的に伝えたところ、彼は軽快に笑い飛ばして「大丈夫だ、もう寝ろ」の一点張りで、その笑顔に押し負けてすごすごと自室に逆戻りすることとなった。
ケイト・ダイヤモンドの談話室脱出ショー。これがきっと、エースの知らない『ハーツラビュル寮の七不思議のひとつ』だった。
翌日、デュースは何食わぬ顔をしてパーティの準備に奔走しているケイトを捕まえ、昨日の異変について聞いてみる。念には念を入れ、誰かに聞かれぬように声を潜めて問うと、彼は三度素早く瞬きをして、首の付け根を撫で、わざとらしい笑顔を浮かべた。
「あー、オレくんのうちの誰かでも見てたんじゃない? 寝るタイミングで解いたからタイミングよく消えたように見えたのかも。そっかー、デュースちゃんてば声かけてくれたらよかったのにぃ」
ケイトはそのようなことをへらへらした笑顔で長々とまくし立ててから、ちらりとスマホを眺め、「ごめん忙しいからもう行っていい?」で締めた。素直なデュースは準備中に邪魔したことを謝り、ケイトを開放する。デュースにも薔薇の色塗りのノルマがある、長々と喋ってもいられない。
踵を返そうとしたところ、はっしと肩を掴まれた。
「ね、昨日、何か聞こえた?」
何気なく聞かれた言葉だった。デュースは頷きかけて、ふと気が変わって、首を振った。
「――いいえ、遠目に見かけただけだったので」
「そっか、ならいいや」
いつもと変わらぬ笑顔を浮かべ、ケイトは肩をぽんと叩いて去っていった。
さて、いよいよおかしい。
あの日、ケイトの様子が気になって知らぬふりをしてしまってから考えないようにしてきたが、ケイトだけでなくトレイも脱出ショーを成功させたとなれば心当たりはこれしかない。デュースは消灯時間後、人の気配がすっかりなくなった談話室に訪れ、件の壁の前にやってきた。何の変哲もないただの壁だ。強いて言うなら麗らかな午後のティーパーティを描いた絵が飾ってあるだけの、赤い壁紙。
「ええと……『きらきら光るコウモリさん、あなたは何をしているの』」
デュースが好奇心のまま、あの日聞こえた通り――音程が合っているかはさておき――諳んじてみると、ふと一瞬だけ音が置いてけぼりにされるような、内臓がそこにあるのに表面だけが前に進むような、マジカルホイールで峠を攻めているときのような、ぞくぞくする感覚に襲われた。気持ちが高揚して叫びだしたくなるのを堪え、デュースは強く強く目をつむった。
「おや」
そうして――瞬きひとつする間に、デュースの体は見知らぬ、いや見覚えはある、『先ほどまで絵で見ていた通りのティーパーティ会場』に転がり込んでいたのである。
「君たちもハーツラビュルだね」
さざ波のように声の反響する鏡の間、揃いの式典服のフードを被った相手に声を掛けられ、トレイ・クローバーは横を窺った。育ちの良さそうな整った顔立ちがこちらを覗き込むようにしている。
「ああ、同じ寮同士よろしく。俺はトレイ」
「オレはケイト」
「僕は。よろしくトレイ、ケイト」
にこりと人好きのする笑顔を浮かべた彼はと名乗った。たまたま振り分け時に隣になった縁だったが、幸いなことにトレイとクラスが同じになり、出席番号も近く、たまたまクラスが離れてしまったケイトも含めて連れ立って行動するようになるまで時間は掛からなかった。
「トレイはケーキ屋の息子なのか、素敵だな」
「まあ、料理は好きになったよ。の実家は?」
「普通の家だよ。祖母が魔法士だった」
「ご両親は違った?」
「かもね」
彼は祖母に育てられたといって、両親の話をしたがらなかった。その代わりトレイの弟や妹の話を聞いては面白そうに相槌を打った。ケイトが居る場合はケイトが上手く場を回してくれるので良いのだが、ケイト不在で二人が暇をつぶすとなるとトレイが話し手になることが多かった。
は成績が優秀だった。微笑み方も上手だった。トレインの授業では丁度良いタイミングで的を射た発言をし、クルーウェルの授業では難しい魔法薬の精製に成功してみせ、バルガスの授業では……目立ちはしなかったが決して補習組に入ることはなかった。
ある日、はクルーウェルの授業でペアを組んだ相手が猛毒の実を誤って鍋に放り込みそうになったところ、それを素手で掴んで阻止した。煮るのに三時間、ろ過に三時間かかる魔法薬の最終段階だった。
「子犬ッ、馬鹿なことを!」
さすがのクルーウェルも杖を手放しそうになるほどの事故だった。はそれしかないと結論づければ異常な思い切りのよさを発揮した。それがこの時は素手で触れれば爛れるとも言われる実を鷲掴みすることに繋がった。全治三か月。咄嗟の判断で利き手とは逆の手を使ったのが不幸中の幸いだったのだろう。今でも左手は手袋なしでは見る者を驚かせる様相である。
トレイとケイトはこのことに冷や汗をかき、怒り、そして優しくもノートを取ってやった。
一年生で何もかもそつなくこなす者を挙げよ、と言われれば、五人中三人がの名を出した。
ただ、甘いものが好きな代わりに歯磨きを面倒くさがった。
「トレイ、648条考えたの君じゃないだろうな」
「そんなわけないだろ。ほら、あ」
「あー……」
ターキーが出た夜にはそんなやり取りを見ながらそつなく歯磨きをこなすのがケイトの日常になっていた。がらがら、ぺ。
「うん、今日もオレ完璧」
「君は誰に招待されて来たのかな」
『なんでもない日』のティーパーティで使用するものより小ぶりなテーブルに、真っ白でシミ一つないテーブルクロス。脚の華奢な椅子に座ってティーカップを傾けていたのは、シャツとスラックスを身に着けた男だった。
「あ、え、ここ、は」
「招かれざる客か? まったく、あの二人も気が緩んでいるとみえる」
溜息まじりにティーソーサーへカップを戻し、ゆるりと足を組み替える。デュースはまだ転んだままの格好だったので上から見下ろされているのだが、これは値踏みだと気づいた。負けるものかと目をそらさず、デュース風に言えば「バリバリにメンチを切って」いると、相手が先に視線を外した。勝った、と思った。
「まあいい、もう一杯お茶はいかがかな」
「も、『もう一杯』? まだ一杯も飲んでないが……」
「細かいな君は、飲むのか飲まないのかはっきりしたまえ」
「の、飲む、ます」
値踏みの結果、デュースはティーパーティの出席者として合格したらしい。慌てて彼の座るところと対角線上の席に腰かけた。カップをお湯で温め、捨て、円を描くようにティーポットが回される。
「あ、その、それはハーブティーか、……ですか」
今、ポットからカップへ雫が垂れる瞬間、といったタイミングでデュースが口をはさむ。先日誰かがリドル寮長に注意されていたハートの女王の法律、第……何条かのことが頭をよぎったからだった。
彼は絶妙な手つきでポットを引き戻してカップに一滴の雫も落とさなかったし、さらりとデュースの疑問に答えた。
「ここは年中十八時だ。ハーブティーでなく、紅茶でも構わない」
「え、十八時」
「そう、十八時。紅茶とハーブティーはどちらを?」
「えっと、じゃあ、紅茶を……」
「ミルクはそこ、レモンはそれ。砂糖は一杯半がおすすめだ」
デュースはカップがサーブされるまでの間に、ちらりと時計を確認した。六時だ。秒針は動いているものの、一周しても長針がぴくりとも動かない。奇妙な壊れ方をしたものだと思った。
「時計は正常だ、ここは表の理と違うのでね」
「こ、理……?」
「……本当に何も知らずに来たんだな、君は」
呆れたように呟いて、彼はカップを差し出した。美しい琥珀色だ。月に一度以上の頻度でお茶会の開かれるハーツラビュル生らしく、最近は紅茶の良しあしが若干分かってきたデュースだったが、これは『良い』方だと察しがついた。
「いただきます……」
デュースは音をたてぬようそっと口をつけ、あつ、と肩をはねさせた。堪え切れなかったように対面の男が喉で笑った。
三人の寮を束ねる寮長はハーツラビュル寮らしく適度に細かく、お茶会を愛し、そして寮生をそこそこに縛ることのできるユニーク魔法の使い手だった。副寮長を誰にするか毎年ちょっとした話題になるのだが、候補として何でもそつのない生徒や人付き合いの上手い生徒、優等生などが挙がったそうだが、結局寮長と付き合いの長い二年生が選ばれたそうだ。
「寮長か副寮長か、将来誰かがやったりしてな」
「いやいや、オレはそういうのパース」
「僕も責任ある役職なんて嫌だね、今でも手いっぱいなのに」
「はは、夢がないな」
トレイがからかうようにケイトとを見て、ケイトがその肩を気安く叩いた。は口でこそ刺々しいことを言うが、その口は笑っていた。
「こりゃ来年の副寮長候補はトレイくんかもね」
「来年は――」
トレイは言葉を濁した。この時は二人とも知らぬことだったが、トレイは来年、間違いなく幼馴染のリドル・ローズハートが闇の鏡に選ばれ、このナイトレイブンカレッジに入学してくるだろうことを予想していた。彼の気質であれば入学して一年以内に寮長にのし上がることもありうる。いや、きっと来年の寮長はリドルだと、確信があった。
トレイらしくない半端な物言いにケイトとは目配せをしたが、それ以上何を言うでもなく、トレイの用意したキッシュに口を付けた。具材はベーシックにほうれん草とベーコン、ほくほくとしたホワイトクリームの塩気がたまらない。一緒に用意されたアイスティーはダージリンのストレート、香りが強くてキッシュを盛り立てる。トレイのチョイスはいつも見事だった。
「あー、トレイくんのキッシュさいこー」
「次はオレンジタルトがいい」
「はいはい」
穏やかだった。青空の下でささやかにティーパーティを開いて、薔薇の塗り方が甘いと叱られて、一年ながら寮対抗選手候補に選ばれたトレイとケイトがに箒の乗り方をレクチャーしたりと、そんなことばかりを重ねていった。
ある日、慌てた様子のケイトが中庭で一人お茶会を開いていたを呼びにきたことがある。
「ごめん、くん、一回だけマジフト付き合って!」
「僕が?」
「練習中に一人抜けちゃって、ワンゲームだけでいいから」
なぜ僕が、とこの頃には優等生の仮面を被るのに疲れてきたのか、少し気だるげな顔をするようになったが渋面を作ったところ、善は急げとばかりにその手を引いたケイトにマジフト場まで連行されたのである。このときトレイはの体力のなさを危惧したが、予想に反して彼は上手くやった。正規のメンバーの大人げない痛烈なアタックをギリギリで回避し、優等生らしからぬ(しかしナイトレイブンカレッジ生らしい)反撃で一泡吹かせたりもした。
「中継ぎはやってもいいな」
気力を使い果たし、箒をぴくりとも動かせなくなったところでクルーウェルの課題の再提出に追われていた正規の選手が戻ってきてバトンタッチし、息も絶え絶えのは皮肉っぽく言った。それは自分を侮ったトレイへの苦言だと悟り、トレイは片手で謝った。次の三人のお茶会のメインは彼の好きなオレンジタルトに内定だ。恐らく甘いものが苦手なケイトには、まあ、『薔薇を塗ろう』でキッシュ味に変えてやるとして。
有事は、その年の次期寮長指名の時期に起こった。
「実は、僕はゴーストでね」
デュースの赤と黒の腕章を確かめ、ハーツラビュル寮生であることを確認した男は、紅茶で唇を潤しながらおもむろにそんなことを言い出した。
「ここは生と死の狭間。だから時間もずっと六時だ」
「そ、そんな……」
椅子に座っていてよかった、とデュースは思った。絶望感でいっぱいになった足から力が抜け、立っていたら情けなくへたり込んでいただろうからだ。デュースはグレていた過去と別れ、名門ナイトレイブンカレッジに入学したことで心を入れ替えて優等生として生きようと心に誓った。だというのに、入学早々に高級シャンデリアを破壊して退学の危機を味わい、寮長に逆らって学園崩壊の危機を味わい、こんなところで生命の危機まで味わうことになるなんて。――マジカルホイールで味わったスリルを思い出し、少しぞくぞくする。
いや、しかし。デュースは強い心で正気に戻った。
「だとしても、帰る方法はあるはず」
「なぜ?」
「ケイト先輩がここに来て帰っているはずだから、です」
相手は取り繕った敬語を気にする様子もなく、ふむ、と顎に手を当てた。理知的なポーズが絵になる男だ。
「君、ケイトがここに来るのを盗み見て試したな?」
「ぐ……はい」
「なるほど。マジフト選抜選手の二人の目を掻い潜って合言葉まで手に入れるとは、今年はどうにもやんちゃな一年が多いようだ」
溜息。のち、起立。ゆったり歩み寄ってきた男はデュースの瞳を覗き込み、やっぱり強い気持ちでガンをくれるところを面白がり、ふと興味をなくしたように指先でテーブルの上のクッキーを摘まんだ。
「まあいい、帰り方は聞いてないのか?」
「いえ、ケイト先輩には内緒で来てしまったので……」
「いや、一年生だろう? 知り合いじゃないのか、あれは」
「は?」
デュースのぽかんとした表情を見て、男は首を傾げた。クッキーを咀嚼する間だけしっかり黙って、指についた砂糖を舐めとり、紙ナプキンで拭ってから、ようやく口を開いた。
「赤い髪の――エースと言ったかな? 昨日来たが」
「次期副寮長をやってくれないか」
トレイは目を見開き、現寮長と次期寮長の顔を見つめる。少し離れたところからケイトとが似たように呆けた顔で二人を眺めていた。
年が変わり、そろそろ次学年を意識しはじめる厳冬の頃。ひっそりと副寮長就任の相談が来たのはトレイだった。談話室の奥まったソファ席で三年生と二年生の先輩たちと膝を突き合わせる格好で聞かされた話は思いもよらないことだった。
「お、俺ですか?」
「ああ。同級生にも優しく、適度に規律を守り、ハーツラビュル寮マジフト正規選手でもある。候補の中でもふさわしい中の一人だと思う」
寮長はトレイをじいっと見つめ、両肩を掴んだ。彼もまた三年生としてマジフト正規選手として戦い抜いた人間である。尊敬できる人だ。そんな彼に認められて嬉しくないわけがない。トレイは自尊心を撫でられ、頭を下げた。
しかし、トレイは素直に副寮長を受けられない。
リドルだ。来期、新入生にリドル・ローズハートが居る。まだ確定したことではないけれど、リドルはロイヤルソードよりナイトレイブンカレッジ向きだという直感があった。もしリドルが寮長になったとして、彼は副寮長に自分をと言うだろう。寮長だけが挿げ替えられ、『知り合い』である自分が副寮長のままであればリドルの評判にも関わるのではないかと思うと正直気が重い。もしリドルに悪い噂が付き、それが実家に知れたら。彼の環境に見て見ぬふりを続けてきた罪悪感が上乗せされて、トレイは声を出せずに俯いた。
「――まあ、重く考えなくていい。決まったら教えてくれ」
そんな一言を残して去っていく寮長の背中をぼんやり眺めるトレイ。置物と化していたケイトとはすすと側に寄ってきて、ケイトが右肩を、が左肩を叩いた。激励のつもりだったが、彼の沈痛な表情を見て何かを察し、先輩方が後にしたソファに二人並んで腰かける。
重い口を開いて、トレイがぽつぽつ内心を零した。適当にリドルの境遇と自分の立場を掻い摘んで説明すると、ケイトは悩ましいと言わんばかりに眉を潜め、一方のは膝を打って立ち上がった。
「よし、僕に考えがある」
トレイは猛烈に嫌な予感に襲われた。たまに出るの思い切りの良さは異常だった。そしてそれをやり遂げる執念も。
「止めろ、」
トレイは立ち上がった彼の腕を反射的に掴んだが、彼は微笑んで友人を見下ろした。
「中継ぎは得意だ」
翌日、は二年生から「次期寮長」の看板を貰ってきた。
自分の腕時計にべったりとバターを塗りつけ、デュースは落ち込んだ。大事な腕時計がこんなことでだめになったらどうしようと思って、自分の軽率な行動を後悔していたところだった。
「大丈夫、ここはすべてが止まった世界だから向こうには影響しない。もしここでジャケットをジャムまみれにしたとしてもすっかり元通りだ」
「ほ、本当ですか」
「君の友達は時計を壊してなかっただろ」
そうだ、その通りである。
デュースは沸き上がる気持ちに苛立ちがぶり返した。エースはここに来たことをまったく明かさずに一人で秘密にしていた。そういうところが本当に抜け目のないやつだ。デュースだってケイトが忽然と消える現象を目の当たりにしていながらエースと監督生に黙っていたのだからまったくもってお相子なのだが、冷静でなくなると大釜を連発する程度に混乱するデュースはそれに気づけない。
「もう来るなよ。ここは僕の世界だ」
「……貴方は本当にゴーストですか?」
チク、タク。時計が回り始めたのを感じて、デュースは最後の質問を投げかけた。
「ああ。中継ぎのね」
ひらりと振られた左手には手袋で覆いきれず、手首にまで伸びた傷跡が見えた。
暗転。
次期寮長に指名された男は、口では了承と言いながら本心では迷っていたそうだ。自分でハーツラビュル寮を取りまとめていけるのかという気持ちでいっぱいになり、とうとう寮生への発表前に胃に穴を開けかけていたらしい。
そこに「我こそは寮長候補である」と名乗りを上げた優秀で名高い一年生が現れたので、またもや表面上は渋ったものの、通院歴と保健室の利用履歴を合わせて突き付けたところ、内心では喜ぶ気持ちを盛大に吐露した。
「で、先輩も体面が悪いというので決闘して勝った」
「……」
「ま、そんなことだろうと思った」
寮長を賭けた決闘というより、名誉を賭けた戦いだったそうだ。一応学園長に申請し、学園長立ち合いの元、存分に力をふるった。現寮長以外の誰にも知らされず、ひっそりと始まりひっそりと終わった決闘だった。
「これで僕が寮長だ」
「うん」
「で、副寮長は適当に選ぶ」
「ああ」
「これで来年度にその『リドル』が出てきて寮長になっても君が副寮長で道理だ」
解決。
は笑い、トレイは額を押さえ、ケイトは天を仰いだ。
こうして冬の終わりに珍しい一年生の即席寮長が出来上がった。もちろん予想した通り先輩方からは反発もあったが、そこはのユニーク魔法の威力、前寮長と元次期寮長の口添えもあり、初夏になるころにはすっかり鳴りを潜めた。罰として用いるユニーク魔法の負荷もあり、(また一部にしか知らされていないが代替わり前提の中継ぎ内閣でもあったので)は比較的『ゆるい寮長』だった。
「『首を刎ねろ』ッ!」
そうして、寮長の首は入学式から一週間後に挿げ変わった。
「デュース、何だよ疲れた顔して。消灯時間過ぎても帰ってこないから何やってんのかと思っ…………は? …………おま、まさか!」
「おや」
永遠の午後六時。麗しきティーパーティ。
ここに来るときはみな不意を衝くように『飛ばされて』くるのに、彼は優雅に着地してみせた。
「こんばんは、リドル寮長」
「ああ。こんばんは、・」
やってきた『招かれた客』、リドル・ローズハートは当たり前のように空いた席に座り、当たり前のように紅茶のサーブを待っている。他に誰か居るわけでもないのに、彼はここに来るたび正装だ。
注文も受けず、はカップを温め、紅茶を振舞った。ミルクティーに合うアッサム、シュガーポットも一緒に差し出してやる。本日のケーキはクリームたっぷりの三段重ね。始めの一ピース目を取り分けてやれば、お茶会の準備は整った。
白いテーブルクロス、赤い薔薇、ケーキ。眠りネズミ用のジャム。
「――ここはいつ来てもミス一つない『なんでもない日』だね」
「その通り。そういうユニーク魔法だ」
時間の止まった隔絶された空間を作り、そこに思うがままの風景を作り出す。このユニーク魔法を発現させて以来、の空間は午後六時のままだった。
「リドル寮長、君はこの時間帯嫌いだろう」
「なぜ」
「大方、外で遊んだ帰りの子どもの声が聞こえる」
ケーキを一口食べかけたリドルが、ぴたりと動きを止めた。図星だ。この日の傾きかけた微妙な時間帯はひときわ孤独を感じる一瞬のひとつだった。
それを悟られるのが嫌で、リドルは黙ってケーキを味わった。ここで起こったことなど戻れば何にもならないというのに、ケーキばかりはいつも美味しい。トレイの味だ。の記憶を元に再現しているのだから当然だろう。
「貴方の、そういうところが嫌いだ」
「僕は君のそういうところが好きだ」
ハーツラビュル寮長を入学一週間の一年生に追い落とされた不名誉の寮長は、なんだかんだこの現寮長を気に入っている。
リドルは黙って紅茶を啜った。
――この紅茶だけは気に入っている。そういうところも嫌いだ。
「ところで」
いや、惑わされてはならない。リドルは本日の本題へと立ち返る。
「、ここに初めて迷い込んだ生徒に『自分はゴーストだ』と名乗るのをやめろ」
「どうして」
「一部生徒に混乱を招く」
「授業にはちゃんと出てるのに、彼らが僕を覚えないのが悪いんだろ」
ナイトレイブンカレッジ三年生、・は最近ここを訪れた二人の顔を思い浮かべ、くつくつ笑いながらカップを傾けた。
「お、なあなあ、デュース」
「エース、罰掃除なんだから大人しくしろ」
「元はと言えばお前が大釜なんて持ち出すからだろ。案の定リドル寮長にバレて図書室の書架整理なんてやってらんねー」
「で、なんだ」
「興味あるなら初めから言えよ……これ、各寮の歴代寮長だって」
「へえ、リドル寮長も載ってるのかな……って、あ」
「あ」
「あーッ!?」
「図書室ではお静かに!!!!」