年に二回のホリデー期間を迎え、夕焼けの草原王宮はにわかに落ち着きを失っていた。全寮制の魔法士養成校に通っている第二王子、レオナ・キングスカラーが長期休暇に合わせて帰省してくるためである。弟を労う名目で現王であるファレナの計らいから王宮全体での宴が催されるということもあり、食事や余興の準備で各所使用人が足音を響かせるようにあちこち駆けまわっているといった風体であった。この宴についてレオナ本人は苦言を呈しているが、この騒ぎにはレオナを口実に王宮の皆を労う目的もあるのだと理解していたため、毎回祭りの喧騒を黙って眺めるに留まっていた。
レオナが遠路はるばる王宮にたどり着いても宴の準備は終わっていなかった。兄より侍従より先にレオナに飛びかかり首にまとわりついてネックレス替わりになっていたチェカを往なし、自室へ足を向ける。渡り廊下の左右には広い庭が広がっており、春や夏であれば色とりどりの花が咲くのだが、ウィンターホリデー期間ともなれば少し見栄えに欠ける。
その侘しい視界の端に翻る黒。
ちらりと視線をやると、目が合った。
「レオナ様」
女が優雅に礼をする姿は、相も変わらず洗練されている。頭を下げた瞬間に肩口から零れた黒絹のような髪が、星降る闇夜を溶かして落とし込んだように思えた。
夕焼けの草原王室・第二王子のレオナ・キングスカラーには婚約者が居る。
七年ほど前に当人たちのあずかり知らぬところで結ばれた縁は、前王の時代に成ったものである。レオナのプライマリースクール卒業と同時に本人に伝えられたそれはまさに寝耳に水であったが、レオナは必要以上に動揺しなかった。兄であるファレナもこの時期に同様の話が来ていた。であれば次は自分だと予想が付いていたのである。
「、おいで」
レオナの父、当時の王に手招かれて恐る恐る歩み寄ってきたのは、小柄な少女だった。同い年か一つ下か、同年代であるのは間違いない。しかし、その年ごろで既に彼女は目を見張るような美しさを持っていた。側に控えていた近衛兵が思わずといったように溜息をつく。夜の湖の静謐さを閉じ込めたように艶やかな黒髪、珠のように光る頬は瑞々しい果物のようだった。見たことのある顔、だった。
「私の宰相の娘だ、レオナも挨拶くらいしたことがあるだろう」
と呼ばれた少女は王に肩を引かれ、レオナと正面から向き合うように立たされる。近勝りする美形であった。確かに、宰相殿の妻は気の強い美人として名高いので将来の彼女もそうなのであろう。睫毛の長いつり目が少々キツい印象を与えるが、形の良い唇がきゅっと微笑みを浮かべるとそれさえ絵になった。
「レオナ様、よろしくおねがいいたします」
精一杯練習してきました、という感じのひと言だった。レオナは彼女から視線を外し、返事なのか唸りなのかわからない一声を返した。
初々しく可愛らしかった彼女が『豹変』したのは、二人で散歩でもしてきなさい、とレオナとの二匹が放流されてから三十分ほどしてからである。レオナは急に出来た婚約者の扱いに困って、並んで歩くべきところ一人長い脚で先を歩いていたので、投げかけられた声は背後からだった。
「レオナ様、わたくしとの婚姻、ぜひご利用になって」
何を急に、と振り返ると、美しい少女は表情らしい表情を落としてしまったようで、儀式用の面でも被っているかの如く、無表情だった。彼女の真剣さに中てられ、レオナも負けじと睨みつける。
「利用?」
「面倒だからといって断ってはなりません、ということです」
「どういうことだ」
「わたくしとの縁談をお断りなさっても、またすぐに別の縁談が来ます。一日に三度、四度と別の方とのお見合いが用意されますわ」
ああ、とレオナは頷いた。プライマリースクール卒業前からその前兆はあったからだ。最終学年の長期休暇中に家柄の良い娘たちを連れて様々な権力者がレオナに挨拶に来た。いつもは第二王子になど見向きもしないくせに王宮とのコネ作りには精を出すのかと貪欲さばかりに意識がいっていたので一人の顔も覚えていないが、あれはそういう意図があったのだろう。誰かレオナの気に入る娘が居れば、今日ここに居たのはその娘だったのかもしれない。
「で?」
「わたくし、いい子でいますわ。レオナ様に余計な手間はかけませんし、醜聞も立てません。将来的に婚約破棄してくださっても構いませんから」
「テメェはそれで何を得る、対価のない取引は信用できねえ」
「時間を得ます」
にこりと微笑んで、少女はアクセサリーを鳴らしながら華奢な手を差し出した。彼女の言う『時間』が何を指しているのかこの時のレオナには理解しきれなかったが、この美貌である、彼女も同様の悩みを抱いているのだろうと察しがついた。か弱そうな見た目とは違って、なんというか、この女も夕焼けの草原の女らしく強かであった。
であれば、面倒のないこの女で手を打ったほうが賢い気もする。
「取引成立だ」
レオナは口の端で笑って、その手を取った。今まで触ったどの手より滑らかだったその手が今でも思い出せるほど冷えていたのは、彼女曰く「実はとても緊張していたのです」とのことである。
さて、こんな経緯で成立したレオナとの婚約であるが、彼女は自分で言ったように面倒のない女だった。
時間が空く度に自分と共に居ろだとか、何をしていたかの報告を求めたりだとか、何か贈り物を求めたりだとか、レオナの異性関係に文句を言ったりだとか、そういう煩わしいことを何一つ言わなかった。レオナもに対して束縛の意志はなく、彼女が王宮の隅に部屋を持っていることは知っていてもわざわざ訪ねたりもしなかったし、彼女に横恋慕する雄が居るとしっても何の気にも留めなかった。の言う通り「将来的に婚約破棄して構わない」のであれば、双方にとってより都合の良い相手が見つかればそれまでの関係なのである。
レオナがセカンダリースクールに上がっても、二人の距離感は変わらなかった。用事がなければ顔も合わせず、声も聞かず、稀に険悪でないことをアピールするために手紙をやり取りした。同じ王宮に住んでいて文通とはと思わなくもなかったが、レオナが面倒になってやり取りを止めるまで彼女は律儀に手紙を書いていた。
と顔を合わせる数少ない機会は公的な行事ばかりだった。ある時、近隣の権力者の訪問に合わせたパーティにパートナー同伴が義務づけられ、は程よい距離感でレオナの婚約者役を務めた。彼女は着飾らずとも美しかったが、もちろん着飾ればより輝いた。まばゆい宝石の首飾りばかりが悪目立ちして顔を覚えられないような失敗をする貴婦人も居る中、彼女はどんな宝石にも負けなかった。
「様、何かお困りのことはありませんか」
「ええ、何も。レオナ様がよくしてくださいますから」
レオナが挨拶する間に一人になったに声を掛けてくる勇気のある雄――これは蛮勇と呼ぶべきか――も居ないことはなかったが、こちらもすげなく打ち払う。誘いの手をするりと抜け、レオナの気にならないタイミングで横に戻ってきてにこりと微笑んだ。稀に「失礼」と囁いて腕に凭れてくることもあったが、レオナは黙って好きにさせた。これがこういうふれあいをするときには必ず理由がある、大方はレオナとの不仲を吹聴する輩へのけん制であった。それに、腕にふにと触れる柔らかな感触も悪くなかったので。
「レオナ様、少し風に当たりませんか」
会場の雰囲気と視線がいい加減に鬱陶しくなってきた頃、隣に立つ彼女がそう言ってレオナをバルコニーに誘う。レオナが自分から去るのではなくに強請られて出ていく図になって第二王子の世間体を守る形になっているのが気に食わなかった。まるで謀られているようなタイミングでの誘いに毎度少し苛立つのだが、意地を張ってここに居るほうが不愉快だと思いなおして彼女の言葉に従うことにする。は「出来た婚約者」を演じるのが大層上手だった。
「ああ、やっぱり風が心地いい。中は空気が籠っていてとても窮屈」
バルコニーは無人だった。出入口には近衛兵が立ち、誰も気軽に立ち入れないようになっている。貴人とその婚約者が連れ立ってバルコニーへ出るとなればそれを邪魔するのは野暮、との考えからだろう。もっともそういう誤解あってこそ、レオナはようやく気の休まる時間を得られるのであった。
備え付けられた椅子に腰かけ、が踵を摩った。今まで気にもしなかったが随分と踵の高い靴を履いている。
「そんな靴履いてるからだろ」
「レオナ様が成長なさったからですわ」
「あ?」
「あなたと並んだとき、バランスが良いように選んでいるのだもの」
彼女はまるで拗ねた子どものような言い方をして、恨めしそうにレオナを見上げた。取り繕った美しい笑顔ばかりを見ていたので、生気のあるそういう表情がいたく新鮮に映った。
「へえ、俺のせいか。そりゃどうも失礼したな、お姫さま」
「……非礼をお詫びいたします」
僅かに赤くなった踵をさっと隠し、が立ち上がって正しい所作で頭を下げた。レオナは適当にそれをあしらい、持って出てきたグラスを適当に煽る。気まぐれの軽口だったのだと伝わったのだろう、もグラスに唇を付けた。
「確かに、今日は風がいい」
レオナがぽつりと続けたのも、気まぐれだった。
彼女は唇を潤し終わってから、風に乗って香る花の名前を言い当てた。レオナにも覚えのある香りだ。最近見つけた居心地の良い温室にも同じものが咲いていた。
「あ」
グラスが空になった頃、のんびりとした音楽が室内から漏れ聞こえてきた。パーティの終わりに踊るダンスの音楽だ。
戻らなければ、とが腰を上げたところで引き留める手があった。
「……レオナ様」
「今日はいい」
バルコニーに退避することはこれまでにあったが、中に戻らずやり過ごそうとしたのは今夜が初めてである。今夜の風はレオナの気分屋を煽ったようだった。
は僅かに目を細め、諦めたように微笑んだ。レオナが戻らないのであればも戻らない。
「ああ、でも、そうだな。一曲踊っておくか」
「え?」
「なんだ、踊りは苦手か」
レオナはしなやかに立ち上がり、の前に立った。見上げる瞳はぽかんと見開かれる。これも珍しい表情だった。ここで気づく瞳の覗き込みやすさ、ああ、これが彼女の言う「バランス」か、と変なところで腑に落ちたりもした。
これは足が痛いと言った彼女への意地悪でもあったのだが、案外負けず嫌いの彼女はレオナの意図を分かっていながらその勝負を受け、差し出された手に自分の手を重ねた。は足の痛みを感じさせないスムーズなステップを踏み、レオナを多少落胆させた。彼女はレオナ程ではないがチェスも嗜み、果敢に攻め、優雅に守る。教養もあり、ダンスもこなす。噂ではあるが、少しの体術も。
「お前、苦手なことはないのか」
「ありますわ」
「言ってみろ」
「聞いてどうするおつもりです」
「今後の参考にさせてもらう」
「ふふ」
緩やかに音楽が変わる。もう終いの時間だ。
が重なっていた手を放すと、ひときわ強く風が吹いた。ドレスの裾が弄ばれ、赤くなった踵が露わになる。
「レオナ様、戻りましょうか」
「……ああ」
はにこりと微笑み、今度は「失礼」の一言なしにレオナの腕に手を絡ませた。支えが欲しいほど痛むならそう言えばいいのに。強情な女だ、と思った。
バルコニーからお開きムードのパーティ会場に戻る刹那、そっと囁かれた言葉があった。
「私、泳げませんわ」
それが嘘か真か、そのときのレオナにはわからなかった。ただ律儀に答えた姿が面白かったので、喉で笑ってやった。
最近、お気に入りの逃げ場がある。
例のパーティから季節がひとつ動いた頃、レオナは王宮のはずれにある温室に潜り込んで寝そべっていた。王宮で気に入らないことがあって兄と揉めた際にがむしゃらに駆けてきた先に見つけた。それ以来、ここはレオナの憩いの場のひとつになっていた。ちょうどよく管理された気温、湿度、心地よい木陰。花の匂い、土の匂い。うとうととひと眠りしたい気分だ。
と、欠伸をかみ殺した瞬間、そばに気配。踏みしめられる土の音だ。温室の管理人だろうか。であれば穏便にこの場を収め、これからはレオナが居ても他言無用だということを言いくるめなければ――。
「あ?」
目を開き、レオナは気の抜けた声を上げてしまった。
そこに立っていたのは、ラフな作業着を身に着けて美しい黒髪を適当に結い上げただった。
「レオナ様」
少し大ぶりな手袋をして、大きなじょうろを抱えている。頬には土の汚れが少々。レオナは不意を突かれ、声を失っていた。なんせフォークとスプーン以外は持てないと思っていたので。
「たまにここにいらっしゃっていたのはレオナ様だったのですね。ああ、謎が解けてよかった」
「……お前、なんで」
「ここは私の温室です」
がくりと肩が落ちる気持ちだった。誰も知らないはずの秘密の隠れ家が、まさか身内の所有物だったとは。どこか気落ちした様子のレオナに目もくれず、はじょうろから水を降らせた。土が色濃くなり、匂いが深くなる。
「私、植物に悪戯しなければ何も言いません」
「……」
「でも、あちらでお昼寝なさるのはお止めくださいね。少々かぶれると思いますから」
あちら、と指さした温室の奥には薬草が並んでいる。単品で毒になるようなものはなかったが、ガーデニング気分で育てるにはふさわしくない薬草だ。まるで魔法薬の材料にでもなりそうな。そういえば、彼女は学問の成績も優秀だそうだ。とくに魔法薬学。
ここが何のための温室か、目的はそのうち聞きださねばならないだろうか。いや、どうしてそんなことをせねばならないのか。レオナはふと胸に湧いた追及の芽を摘んだ。
「それに……ここは静かで、眠りやすいんですもの」
じょうろの水が尽きた頃、ぽつりと零された言葉にレオナは息を詰めた。
先日、ファレナの妻、つまり皇后懐妊の一報がもたらされた。前王からファレナに国王の座が移った矢先の出来事であった。これに夕焼けの草原は大いに喜び、新しい王族の誕生を今か今かと待ちわびている。
レオナの心中は惨憺たるものだった。
兄の子が生まれるということは、レオナの王位継承権が下がるということ。兄が即位した今こそ王位継承権第一位のレオナであるが、赤ん坊が男だった場合、第一位は彼のものになる。彼が無事に育てば、王位継承権第二位など永遠に順番の来ない、無意味な飾りだ。そのことを指しているのだと、レオナは瞬時に理解した。
同時に、彼女もまたこの下らない噂の被害者の一人であることも理解してしまった。
『ファレナ様のお子はどちらだろう、男の子であればよいが』
『きっと男の子をお生みになられるさ。いやはや、宰相殿もお気の毒だ。待ち望んだ一人目がまさか女だとは、あれだけ男を祈念しておられたのに』
『男であってほしいものですな』
皇后の腹が膨らむにつれて、レオナの次にやり玉に挙げられるのがだった。宰相は自分の跡取りとして立派な男が生まれることを願っていたそうだが、その祈りに反して生まれたのは美しい女子であった。今でこそを我が子として慈しんでいるようだが、彼女が生後間もない頃はなぜ男でないと大層荒れていたそうだ。
彼女も、風に乗ってきたどこの誰かも知れぬ囁き声が鼓膜に張り付いて眠れぬ夜を過ごしたのだろうか。生まれた時期が違えば、生まれた性別が違えば。そんなことを考えて内臓が燃えそうなほど苦しんだ日があるのだろうか。
「レオナ様?」
「……寝る」
「わかりました。一時間したら起こします」
は柔らかく笑って、レオナの側を離れていった。着飾っているときよりよほど好ましく笑う。ばかなことを考えている自覚はあった。レオナはふと目を閉じ、そのまま久々に穏やかな眠りを取ることができた。
やがて、皇后は男児を産んだ。
レオナはその日、永遠に王の椅子を取り上げられた。
「ナイトレイブンカレッジはどうです?」
この温室はいつ来てもちょうどいい。彼女の魔法の使い方は植物との相性がいいらしく、育成の難しい薬草であっても見事に育て上げてみせた。
全寮制のナイトレイブンカレッジに進学して初めてのウィンターホリデー、肌寒い外とは隔絶された春の日のような温かさに眠気が襲ってくる。は相変わらず作業着のような服を着て適当に髪を結んでいたが、どんなに汚れてもその美貌は際立つばかりだった。顔を合わせる回数が減ったからだろうか、以前より女性らしさに磨きがかかったように感じる。
「所詮ごっこ遊びだ、つまらねえことばかり」
「でも、面白いこともあるのでしょう。聞かせて」
「チッ」
「マジカルシフト部のお話を聞きたい」
一度しか出していない手紙に書いたことをよくも覚えているものだ。お互いが王宮に居るときよりは文通らしさの出る距離が開いたものの、レオナの面倒癖が発揮され、入学してからウィンターホリデーまでの間に手紙が往復したのはたったの一度だった。
「まぁ、お前には絶対に出来ないだろうな」
「どうして、私も箒くらい乗れます」
「箒で超スピードで駆けながら魔法を撃ち合う。相手に当てて続行不能にするのもルールとしてセーフだ、お姫さまには無理だろうよ」
夕焼けの草原にもマジカルシフトのプロチームがある。その迫力と比較すれば学生の部活動なんてごっこ遊びに過ぎないが、レオナにとってディスクを携えて突撃してくる相手を一撃で葬るのは心の慰めになった。口では大きなことを言いながら圧倒的な力にひれ伏すしかない上級生の顔を見る一瞬だけ、心に沈殿した重しが軽くなる。
「……それよりお前、最近何かを煮てるな。ひどい匂いだ」
「……あ、……ごめんなさい。課題で失敗してしまって」
「へえ。お前が失敗するなんざ、よほどレベルが高いらしい」
求めもしないのに噂ばかり聞こえてくるもので、は夕焼けの草原から通える最高ランクの学校に通い、そこで優秀な成績を修めているそうだ。チェカが生まれてから一刻も早く王宮を出たかったレオナは闇の鏡の求めるままにナイトレイブンカレッジに入学したが、彼女はこの王宮に固執した。他所からの留学の誘いもお断りしたそうだ。
ぴた、と動きを止めて、は掌で頬を覆った。
「今、レオナ様に褒められました?」
「お前、俺をなんだと思ってやがる」
「ふふ。冗談です、嬉しくてつい」
いつの間にかレオナの定位置に用意された触り心地の良い敷布。水筒。ドライフルーツ。は彼の機嫌に応じて、そばに来たり来なかったりした。今も手を伸ばして触れられぬちょうどいい距離感を取って笑っている。
気安くなったものだ。の部屋に訪れたことはないくせに、ここでは無防備に寝姿を晒している。彼女がレオナを害するつもりであれば容易に手傷くらいは負わせられるだろう。ただで殺されるつもりはないし、彼女相手に負けるイメージも湧かないが。
「レオナ様、明日も晴れそうですわ」
明日、レオナはナイトレイブンカレッジに帰る。
進級した年のウィンターホリデー、レオナは温室を訪れた。居心地の良い昼寝場所としてではなく、居るであろうを尋ねてのことだった。
「やる」
は目を瞬かせ、長い睫毛でぱちぱちと音を立てた。
「なんだ? 別に悪いもんじゃねえよ」
「はい、まずはお帰りなさいませ、レオナ様」
着るものが変わらないからこそ中身の変化が際立つ。レオナの身長が伸びるだけ、彼女の美しさに磨きがかかる。ツンとしたつり目は大人びて、一瞥した相手に緊張感を抱かせる切れ味を持ったように思う。いや、それは前からかもしれない。
レオナが差し出した小さな麻袋を恐る恐る開いた彼女は、中身を知るとぱっと目を見開いた。輝く視線をレオナに向ける。さっと目を逸らした。最近、の顔を正面から見ると調子が狂う。
「これは……」
「ちょうど魔法薬学で余ったんでな、拝借してきた」
彼女が欲しがっていた薬草の種が授業の教材として出てきた。だから気まぐれでポケットに潜り込ませた。まあ、担当のクルーウェルは「材料が余ればすべて備品入れに戻すように」とか言っていたような気がするが、レオナは支給された材料を好きに使った。それだけである。
「――ありがとうございます、レオナ様」
彼女はまるで高価なアクセサリーを貰ったように頬を染めて喜んだ。もしかしなくても婚約者に対する初めての贈り物であった。レオナはもう用は済んだとばかりにを押しのけ、定位置にたどり着いて横たわる。ナイトレイブンカレッジにも似たような環境を求め、植物園での昼寝癖がついてしまったが、それを咎めるのであればこんな癖を身に着けさせたこの女も同様に罰せられるべきであると思った。
――ああ、しかし、お前、まだ魔法薬の調合に失敗しているのか。彼女の作業着に沁みついた嫌な薬の匂いは未だに色濃く鼻先にまとわりついている。
レオナはとうとう進級を迎えることができなかった。実は以前の進級もすでに危ぶまれていたものの、教師陣の努力と面倒がりながらも適当にこなした課題、あるいは学園全体で行われる特殊課外での活躍などを加味して無事に進級することができた。二度目は通用しなかったということである。
これをさりげなくファレナに咎められ、また説教の矛先が先日のチェカのお披露目親馬鹿パーティに出席しなかったことにまで累が及ぶと、我慢ならないとばかりに感情のまま王宮を飛び出してきた。そのまま自室に戻る気にもならず、気が付けば例の温室の前に立っていた。
「レオナ様、そろそろお戻りに」
「うるせえ」
「レオナ様……」
温室からでもたっぷりと太った月が見える頃、定位置で寝転んでドライフルーツを齧っていたレオナを呼ぶ声があった。一度着替えに戻ったのだろう、長い黒髪をゆるく編んで前に垂らした軽装のがそばに座っている。夕焼けの草原のサマーホリデーは気温は高いが湿度は低い。そよそよと羽扇で風を送る姿はまるで恋人を甘やかす様子にも見える。
恋人。そうではない、彼女は契約による婚約者だ。レオナは煩わしさを避けて、彼女は時間を求めて。時間、何の? 数年前にはさして引っかからなかったことが今さらになって気にかかった。彼女はレオナの婚約者として煩わしさから解放され、国外に出ることを拒み、この王宮で何をしている?
寝返りを打ち、首の下に腕を置いてを見上げる。月を背負ってこちらを見下ろす姿は、黒髪の輪郭が淡く光るようで眩しかった。
「お前、何を調合してやがる」
一瞬、羽扇のリズムが乱れた。しかしすぐさま立て直し、は唄うように続ける。
「何を突然」
「いいから答えろ、何を調合してる」
「……」
「……だんまりか」
口調とは裏腹に、レオナの指は優しくの髪に伸ばされた。長く美しい髪は編まれても跡がつかないそうだ。前に垂らされ、平たい腹あたりにある毛先を指で探る。高級な絵筆のような感触がする。思えばこれも初めての触れあいだ。触れ合うような距離にまで近づいていたことに今さら気づいた。
「……一昨日完成しました」
「あ?」
滑らかな手触りに気を取られて下がっていた視線を引き上げると、彼女は唇を噛みしめ、耐えがたい痛みに耐えるときのような表情をしていた。まるで罠にかかったシカのような、まるで撃ち落されたトリのような、まるで踵を痛むあの夜のような。
「もうここには戻りません。今日は、さよならを」
「おい、何言って」
「レオナ様。婚約を破棄させてください」
コンヤクを、ハキ。
耳慣れない言葉に、一瞬理解が遅れた。意味をかみ砕いて飲み込んだ瞬間、目の前がかっと赤くなった。明確な怒りだった。がばりと起き上がり、彼女の細腕を乱暴に掴み上げようとして――空ぶった。彼女が立ち上がって駆け始めるほうが早かった。
彼女の姿はすぐさま闇夜に消えたが、行方を追うのは容易かった。彼女の部屋から転々と伸びる嗅ぎなれた魔法薬の匂いが王宮の外れに向かっていたのである。
この先には貯水湖があるばかりで、逃げ場などありはしない。魔法薬を煎じて王族の誰かを害するつもりか、王国に悪いものを呼び込むつもりか。レオナは風のように駆け、女の痛々しげな表情の意図を考えた。
装うのが上手く、駆け引きに長け、植物が好きだ。レオナの前ではたまにしか素の表情を見せないが、それを引き出せた瞬間に胸がすくような気になる。仮面を剥がしたい、素顔を見たい、――“中身”を知りたい。
それは肉食動物特有の凶暴な感情、によく似た何かだった。
たどり着いた貯水湖の淵で、は瓶を片手に水を覗き込んでいた。レオナが追いついたのを察して、瓶を強く握りしめる。
「来なくてよかったのに」
悲痛な声だった。レオナは苛立ちを増幅させられ、一歩踏み寄ろうとする。しかし、彼女の持つそれが毒であれば貯水湖に放り込まれると事である。辛うじて王族としての理性がレオナの足をその場に留まらせた。
「――レオナ様、これが何か気になって?」
とぷ、と揺らすたびに色の変わる気味の悪い液体を眺め、は笑った。
「これは魔法薬です。安心してください、湖に混ぜるものではありません。私がここで飲みます」
「飲むって、お前」
「これは変身薬。――性を変えられます」
息をのむ。
変身薬、それは禁制の魔法薬。人体の仕組みそのものを遺伝子レベルで入れ替える禁術レベルの代物である。それを完成させた? 一人で?
「これで私は、男として生まれなおせます」
「馬鹿か、素人知識の魔法薬だ? そんなモン飲んでただで済むはずがねえ」
「成功させます。理論は完璧、あとは実践だけですもの」
レオナは気づかなかった。レオナ自身が第二王子であるということに囚われすぎて、彼女が男であればということにどれほど執着しているかにまったく気を回さなかった。口さがない者たちの噂に完璧な笑顔で応対できる彼女は傷つかないものだと思っていた。ところがどうだ、毛皮一枚剥がせば中身はずたずたに引き裂かれ、動いているのがふしぎなほど痛めつけられていたのである。
「待て」
ふとの瞳が揺らいだ。
「お前が男になっちまったら、俺はどうする」
「もちろん先ほど宣誓した通り、婚約破棄ですわ。世間には男の許嫁も居ないわけではないそうですが、レオナ様もこれでせいせいするのではなくて? 私のような可愛げもなく小賢しい娘から離れられるのですもの」
「は、随分身勝手なことを抜かすじゃねえか」
「そう、私は最初から身勝手な女です」
小さな口でよく喋る。美しい顔を目いっぱい歪め、悪役らしい表情も上手く作ってみせる。
「レオナ様、私きっと上手くやります。立派な男になって父を助け、貴方を支える臣下の一人になります。だから」
「だからなんだってんだ」
レオナ・キングスカラーは留年こそすれ、けして劣等生ではない。
が一呼吸の間、意識を瓶からレオナに向けた隙をついてそれを彼女の手から奪い去ることなど、魔法の使えぬ草食動物でもない限り、容易なことだったのである。
「あっ」
そしてレオナの手に渡った瓶は、呆気なく地面に叩きつけられた。
の数年間が、夢が、妄執が、じわりと土に染みていく。あ、と声にならぬ声が唇から零れ、それから震える脚から力が抜け、がくりと踏み外す。
とぷん、軽い水音。
『私、泳げませんわ』
次いで、重い水音が立った。
が『不慮の事故』で湖に落ちて三日が経ったが、彼女は目覚めなかった。グレートセブンの一角、茨の魔女の伝承に似たような事象があると宰相が大慌てして文献を当たったが、そのうちいくつかをレオナが手伝っても、何ひとつ彼女の眠りを妨げることはなかった。
三日も水を遣らなくて平気だろうか。温室を昼寝の場所として利用するのはもう慣れたものであるが、レオナはここの植物に水をやったことがない。どうすればいいのかわからず、適当な草へ適当な量の水をやった。適量というのでそれでいいのだろう。
温室も主を失って居心地の良さが半減したようだった。三十分寝たところで魘され、気分が悪くなったので自室に戻ることにした。
渡り廊下を機嫌悪く歩いている最中、王宮の誰もが近づくのを躊躇うところに小さな毛玉が猛スピードでレオナの膝裏に突撃してきた。勢いがよすぎてレオナが見事な膝カックンを決められ、石の床に膝の皿を打ち付けた格好で痛みと羞恥に震える。
「レオナおじたん!」
「ぐっ、……チェカ、てめ」
「やっと見つけた! あのね、『起きた』って、おじたんを見つけたらすぐに伝えろってお医者サマが、ねー僕一番? 褒めて褒めて〜!」
チェカは次の瞬間、未体験のアトラクションを体感した。うずくまったレオナの首元にうりうり頬を擦り寄せていたところ、がばりと身を起こしたレオナがチェカをくっつけたまま早足で歩きだし、びゅうびゅうと耳元で鳴る風音にはしゃいで、くっついたレオナの胸元から伝わる心音が常よりほんの少し速まっていて太鼓の音のように思えたのが楽しかったのである。
「叱られました」
ベッドに横たわる姿はしょぼくれていて、ほんの少し毛艶の悪くなった髪を梳いていた櫛を手に、は観念したように話した。
レオナと初めて会った頃から計画していたことであったこと、お互いに興味や関心がなく干渉しない相手と婚約者になることで研究時間が捻出できると踏んだこと、王宮の端に魔法薬用の温室を作ったから留学せずに居残って研究を進めていたこと。
「父に泣かれてしまいました。男であってほしかったのは事実でも、今はそんなこと考えていないんですって」
「は、都合のいいこった」
「ええ、本当に」
伏せた睫毛に涙の粒が引っかかっていて、先ほどまで泣いていたのだとすぐに分かった。
「でも、もう平気です」
は顔を上げ、控えめに笑った。
「レオナ様、申し訳ありませんでした」
「は、何がだ」
「湖に落ちたとき、助けていただいたと。それに、薬を捨ててくださって」
「礼を言われる筋合いはねえだろ、テメェの大事な『努力の結晶』だったんだろう?」
努力。レオナの厭うもの。彼女は陰で死ぬつもりでそれをして。
「……本当は怖かったのです。覚悟を決めたつもりで、しきれなかった」
「ざまあねえな」
「それに、少し後悔を」
「後悔?」
「あなたとの婚約を破棄したこと」
は口にしてから、血の気のなかった頬をほんのり赤くした。目元も赤くなり、じわりと涙の膜が張る。
レオナは一呼吸の間、涙を恥じらうを眺めてから、鷹揚に口を開いた。
「破棄? なんのことだかわからねえな」
細い喉から呼吸の抜ける音がした。
「あー、確かにお前が『何か』言い逃げしたような気もするが、聞いてねえし覚えてねえ」
「……そんな」
「で、なんだって? 何か言いたいことがあるんなら聞いてやる」
肉食獣が勝利を確信した笑みを浮かべ、緑色の瞳を細めている。
それを膝で聞くチェカが、大人しくするのに飽きてレオナの三つ編みをいじってはしゃぎ始めた。
「レオナおじたんが泣かした!」
「ああくそッ、静かにしろチェカ!」
は笑って、それ以上『何も』続けなかった。
夕焼けの草原王室・第二王子のレオナ・キングスカラーには婚約者が居る。
七年ほど前に当人たちのあずかり知らぬところで結ばれた縁は、前王の時代に成ったものである。おそらくレオナのナイトレイブンカレッジ卒業を待ち、彼が政務に慣れた頃合いに正式に結ばれるであろう。それが何年後になるかは、第二王子のやる気次第であるが。
「温室ってのは冬でも温かくて眠くなるよな」
「そういうものですもの、学校はどう? 寮長として大変なのではなくて」
「今年は魔法も使えねえ草食動物が新入生に居やがって、騒がしい年になりそうだ」
「魔法士の学校に魔法が使えない方が。なんて面白い」
王宮の端、元は女の絶望から手入れの始まった温室が、第二王子の昼寝スポットになっているとは誰も思いはしない。今ここで女の膝を借りてうとうととしている王子が、黒々とした妄執に身を飲まれ、救い出されたばかりとも思うまい。
『めでたしめでたし』。
この結句が似合う二人になるかは、今はまだ誰にもわからない。