※全体的に不健全かつご都合主義
花は愛でるより手折る方が楽でいい。
汗ばんだ白い肌は艶やかで、力を込めれば柔らかく指先が埋まる。自分の体のどこを触ってもない感触に改めて男女の性差を感じた。目の前の額に張り付いた黒髪を除けてやると、長い睫毛が震えながら開かれる。
「こわい?」
血の気の失せた唇にシーツを掴んで離さない白い指先、涙の膜が張った瞳の底に怯えを見て、わざとらしく首を傾げて聞いてやる。可哀想なこの子がこんな場所で我に帰らないように、勢いあまって絶望してしまわないように、リップサービスのつもりで道化を演じてみせる。
怖いと泣いてしまえば可愛げがあるものを、彼女はふと瞳を細めて、右頬をシーツに押し付けた。涙はこぼれなかった。ああそう。泣けばいいと思って、奥へと腰を押し進めた。
駅前で出くわした七森の生徒に拳をぶつけたのは成り行きだった。多勢に無勢で女を囲んでやんややっているのが目についたので眺めていたら、向こうが勝手に気づいて向こうから近づいてきたから、しょうがないので先にやった。七森と鳳仙はお互いの制服を見かけるだけで眉根を寄せ合う関係で、こんな小競り合いはしょっちゅうである。相手が宿敵鈴蘭ならまだしも、こんなに絡まれては正直飽きてしまったので、我らが頭が唱え始めた休戦協定を早く突きつけてしまいたかった。
地面に転がった仲間を引きずりながら駆けてゆく七森の生徒を見送って、まだそばに立ち尽くしたままの女を見下ろす。儚げで、でも凛とした感じの美人だ。ラフな格好なのに品がある。なぜだか人の顔を見て動かないので、こっちも堂々と品定めをしてやった。うん、D。
「あの」
視線に気づいていないのか、彼女は赤い唇を開いた。顔に似つかわしく、涼やかな声だった。
「ありがとう。助かりました」
「なに、『お礼』してくれんの?」
は、と彼女の肩が揺れる。人の弱そうなところをつついたときの焦りは格別にわかりやすい。こういう冗談を嫌いそうな彼女にあえてぶつけた下世話な言葉、これで怒ってさっさと踵を返せばいい。そう思っての一言だったから、声色はわざと低くしてあげた。悪い男ですよ、逃げておしまい。親切にラベリングされた仕草で返答を待つ。
彼女は、踵を返さなかった。気丈にこちらを見上げ、一歩近寄ってきた。何の匂いだかわからないが、いい匂いがした。
「お礼、します」
「あのね、悪い冗談はやめときな」
「冗談じゃないです」
「おい」
ひたり、と手の甲に細い指が触れた。まだ寒くもないのに冷えた指は、少し汗をかいているのかしっとりとしている。緊張している手だった。
「お願いします、抱いて」
覗き込んだ瞳の奥に、怯えと諦念が音も立てずに沈んでいるのがよくわかった。
彼女の金で適当なホテルに転がり込んで、シャワーの雫を残したままの彼女を手荒に組み敷いてみる。なにが目的なのか分からない気味の悪い女。下着を剥ぎ取って、放り投げる前に答え合わせ。うん、D。
部屋を出るまで、両手で足りるほどしか言葉を交わさなかった。彼女は名乗りもしなかったし、泣きもしなかった。ただ、処女だった。
改札を出てこちらを見た彼女が、唇を引き結んだ。動揺を顔に出さないのはさすがと言ったところだろうか。ひらひらと手を振ると、視界に入らなかったように振る舞われて笑いがこみ上げた。
「おかえりい」
近寄ると、彼女は諦めたように足を止めた。磨かれた綺麗なローファー、艶のある緑のリボン。見覚えのある制服に身を包んでスクールバッグを肩にかけたあの日の彼女が、気まずそうにそこに居た。もうとっぷりと夜が更けている。忙しいのだろう、受験を控えた彼女はとくに。
「随分おっせえんだね。ワルいオトコにでも引っかかってんのかと思った」
「それはそう」
率直な物言いに噴き出してから、彼女との距離を詰めた。あの日とは逆に手を握ってみると、今は彼女のほうが暖かかった。それもそうか、わざわざ彼女の学友の居なさそうなところで待っていてあげたのだし。月光で出来た輪郭の薄い陰に逃げ込んで、彼女の耳に低音を流し込む。
「ヤリ逃げはだめだよ、会長」
「……どうして」
「はい、落とし物」
彼女の手にボタンをひとつ転がしてやる。息をのむ気配がした。彼女が着ているジャケットに光る金のボタンと同じもの。今は全部揃っているものの、やけにしっかり縫い付けられているひとつがある。彼女が財布を取り出したときに落としたものだった。高い音を立てて床に跳ねたのだが、たぶんあの時の彼女には聞こえていなかったのだろう。
ボタンを強く握りしめてからポケットにしまい込んだ彼女は、さすがに顔色を悪くしていた。別にいじめに来たわけじゃないので、そんな顔をされるのは心外だ。
「ね、なんで抱かれたかったの」
ここいらじゃ有名なお嬢様学校の麗しき生徒会長が、行きずりの男と肌を重ねた理由。自分から求めておきながら唇を噛み締め、耐えるようにして胎内を拓かれた諦めを飼った女。暇つぶしにはちょうど良さそうだった。
彼女は視線をうろつかせて、長い睫毛を伏せた。ちょっと調べたらすぐ出てくるような目立つ顔をしているくせに、なんでこうも無防備な表情ができるのか。抱かれてるときどんな顔をしてたのか気になったが、思い出せなかった。
「婚約者まで居るのにね」
なかなか口を割らないので、一際弱そうな場所を強く押してやった。案の定の反応をされて乾いた笑いが溢れる。まったく、情報通の後輩は本当に役に立つ。屈辱か後悔か、じわりと赤くなった鼻先に唇を寄せてみると大げさなほど肩が跳ね上がった。
「言ってくんないの」
「もうやめて」
「なんで? 自傷行為に付き合わされた身にもなれよ、理由くらい聞かせてくれてもいいだろ」
ここに来て、彼女はまだ泣かない。
しかしぐっと噛み締めていた唇を解いたので、白くなっていた薄皮の下に血が巡っていくのが観察できた。瑞々しいくせに痛々しい赤をした唇が、のろのろと言葉を紡いだ。
「初めては面倒だって」
曰く、不貞ともいえる行いは婚約者の指示である。
高校三年生の若々しいティーンを相手取って、二十も離れた婚約者はこれまでの交際歴をあけすけに告白させ、こともあろうに初めては面倒だから卒業までに適当に『慣らして』おけと言ったそうだ。箱入り娘の彼女にとって、それは想像もできないほど残酷でショッキングな宣告だったらしい。「男のシュミ悪いね」と囁くと黙り込まれてしまう。言いすぎたな、と思うがフォローはしなかった。彼女の献身は奉仕ではなく自己犠牲である。もちろん望んだ婚約でないのは火を見るより明らかだったから。
「で?」
「もうおしまい、それだけ」
「違うでしょ」
彼女も話の綻びに気づいているようだったが、あえて見ぬふりをしていたらしい。
「『慣らして』おかなきゃなんでしょうが」
細い首がひくりと震えた。苦しいと言わんばかりの反応に、殴ってもないのに、とぼんやり思った。いま、手も足も出していないのに、こんなか弱い生き物を嬲っているのだという実感が湧いた。
「ね、手伝ったげようか」
声をかけたのは気まぐれだった。せっかく転がり込んできた面白そうなおもちゃを手放すのがなんとなく惜しくなったのもあるし、傷つけ方は嗜んでいるつもりだった。他の誰かに手酷く傷つけられるなら、俺にしておけばいいのに、と思ったのだ。
彼女は黒々とした虚無を瞳に宿して、茫洋とした様子でこちらを見ていた。覗き込めば覗き込まれそうなほど底の見えない瞳。そこに一瞬浮かんだのが何だったのか掬い損ねたのが気になっていたので、白い頬がゆるりと俯いたのが頷きだとわかるまで二秒かかった。
なんで頷いたの、と聞いたのはあの夜から数えて四回目の手ほどきが終わった頃だった。彼女はまだ息を荒げたまま、辛そうな体を庇いながら身を起こす。
「小田島くんならさっぱり忘れてくれそうだから」
「いや、忘れられないでしょ。こんなの」
「忘れるわ」
乱れた黒髪を耳にかけ、目を細めて微笑む姿に不覚にも見惚れる。少女が女になっていくのを側で見ているのだと、そこで初めて気付かされた。
花を手折ったつもりで育てさせられている。ばらの蕾が膨らんでいくのを眺める庭師になった気分だった。
そんな風に始まった不健全な関係も、これで何度目だろう。触れるたびに息苦しそうに喘いでいた彼女の声に艶が混じり始め、体の曲線に磨きがかかり、今ではふつうに制服を着て立っている姿でさえちょっとエロく見える。男子三日会わざればというのは女子にも適用されるのだろうか、どういう仕組みで彼女が羽化しているのかわからなかった。脱がしているのも中身を好きにしているのも自分だというのに。
シャワーを浴びて出てきた彼女が、乾ききっていない髪をまとめたまま私服のシャツに袖を通しながら言った。
「今日までありがとう」
何を言われているのか一瞬わからなかったが、別れの言葉だとは理解できた。
「なに、開発されきっちゃった?」
「やめて」
「およよ」
でも、慣らしておけと言いつけられている彼女が自分で関係を清算したいと言い出したのだから、つまりそういうことだろう。『わたしはあなたに隅々まで染められました』と宣言しているようなものだ。身体の経験値だけ積んだものだから、自分が何を言っているのかわかっていないのかもしれない。
「あーあ、みんなのお姉さまがわるいおとこと遊んでるのどう思う? って聞こうと思ってたのに」
「聞いたでしょう」
「はずかしい体勢取らせちゃったりしたかったのに」
「させたでしょう」
「やらしー言葉言わせちゃったり」
「……言わせたでしょう」
なんだ、とろとろになってたから覚えてないかと思ったのに。
指折り数えていると、ボタンを留め終わった彼女がこちらを振り返った。薄明かりに照らされた、情事の余韻を纏った美しい女。ばらの蕾が綻んだ瞬間を見た気がした。
「気持ちよかった?」
毎回聞く言葉なのに、毎回新鮮に照れるものだからくすぐったい。彼女は気を遣ってか毎回戸惑って、躊躇いながら頷く。そりゃ最初の数回は嘘だったろうが、ここ最近は頷かれなくてもそうだろうなと思った。
彼女はいつも通りに生娘みたいに躊躇いながら頷いて、また「ありがとう」と口にした。「別にい」と手を振る。
「あーあ」
ドアの向こうに消える寸前の彼女は、さよならと言った唇をきゅっと噛み締め、でもやっぱり泣いていなかった。
「キスしたかったなあ」
改札を出てこちらを見た彼女が、目を見開いて唇を震わせた。あの日とは違って動揺を顔に出しまくっている。ひらひらと手を振ると、幻でも見たように振る舞われて笑いがこみ上げた。
「おかえりい」
「……なんで」
「そろそろコンヤクハキされた頃かと思って」
今夜も月が明るい。見開いた目がそろそろ溢れそう。会わなかったのなんてほんのひと月くらいだったのに、少し痩せた気がした。手のひらで頬を包み込んでみると、ぼんやりと熱が移る。ああでも、やっぱり痩せたな。触るとよくわかる。
「小田島くんは」
「んー?」
「魔法使いか何かなの? それとも千里眼が使えるの?」
「一介の庭師が使えるわけねえよお」
「庭師?」
ふしぎそうな反応からして、本当に婚約破棄されたらしい。そりゃそうだ。あんな男、今じゃなかったとしても近いうちに破滅していた。
戸亜留市に現れた青年IT実業家――という皮を被った詐欺師。訳の分からない新型クラウドサービスの有用性を謳い、投資セミナーを開き、未公開株を売却しては行方をくらまし続けてきた男、それが哀れな少女の元婚約者だった。そもそも婚約者と言われた少女が戸亜留市近辺に三人居た。どれもこれも、借金のカタに脅されて頷くしかなかった被害者たちだった。なぜそんなことを知っているかと言えば、まあ、優秀な後輩が居るからである。
ばかな男は、戸亜留市の高校生に向けて甘い誘惑をした。グレーの詰襟に坊主頭の、ちょっと燻った野心のある高校生に。
鳳仙の生徒が巻き込まれたと知って、鳳仙学園の頭・上田佐智雄が黙っているわけもなかった。あっという間に血気盛んな生徒たちをまとめ上げ、別方面ではそういう分野の得意な生徒に情報収集をさせて、男とその一味を完膚なきまでに叩きのめした。どうもその男、噂に聞くSWORD地区から逃げてきたとも九龍グループに目を付けられているとも言われていて、叩けば叩くほど埃が出るものだから逆に笑いが止まらなかった。あんまり面白かったので少々殴りすぎてしまった。シダケンに止められなければもう少し甚振っても許される気がした。
そんな『些細なこと』があって、殺し屋鳳仙は男を社会的に殺した。準備に三か月かけただけあって何もかもが順調だった。
「な、言ったでしょ。ヤリ逃げはだめって」
頬を包んでいた掌を添わせて、肩骨のラインをなぞる。二の腕、肘、手首。最後に指を絡め取って、指の股と股をくっつけるように握りしめた。ぴったり、掌と掌の隙間もないくらい。
「別れたのに」
「別れてないっていうか付き合ってないでしょ。だからあのさよならは挨拶」
「へりくつ……」
こぼれた涙が頬を滑った。あの日からこれが見たかった。べろりと舐め上げてみると、塩からかった。そりゃそうだ。
「あのさ、次は明るい間に会いたいんだけど」
だって、まだホテルでしか遊んだことがない。せっかく高校生なのに。
彼女は耐えきれないと言わんばかりに笑って、胸元に縋り付いてきた。笑いながら泣いている。そんな顔で笑うのか、と、そういえば笑顔を見るのも初めてだと気づいた。花のような笑顔だった。
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