※ぼくのかんがえたさいきょうのとうけんらんぶ ねつ造山ほど
※三日月と燭台切
「今剣、少し待て」
己の脇をすり抜けて駆けていく小さな肩を制すと、大きな丸い目に見上げられる。宝玉のように輝く双眸が、日盛りの光を受けて眩しそうに細められた。
「あれっ、みかづき。どうしたんですか?」
「主の元へ行くのか?」
「そうですよ! おにごっこにつきあってもらうのです!」
きょうはぼく、なんのおつかいもたのまれてませんから。童子は幼い顔をふやけさせて笑うに、そわそわと視線を廊下の先へ向ける。審神者の自室はもうこの角を曲がってすぐだ。
そっと笑って、今にも手を外して駆け出しそうな小さな背を支える。身を屈ませてふしぎそうな目と視線を結ぶと、三日月はそのやわらかな頬を指で擦った。
「泥がついているぞ。すでにあちこち駆け回ってきたのだろう」
「はい! くにとしやいわとおしと、うらにわをめいっぱい!」
「あっはっは、それはよいことだ。だが、その格好では部屋を汚して主の不興を買うぞ」
「む、それはいやです。ぼくはいいこなのに」
「であれば、主の元へは身ぎれいにしてからだな」
一枚下駄を脱ぎ去った小さな背を反転させ、部屋とは逆方向に押し出してやる。今剣はちらりと廊下の向こう側を振り返ったが、素直に軽やかな足音を立てて姿を消した。それを見送ってから立ち上がると、入れ違いにこちらにやってくる気配がひとつあって、三日月は視線を投げた。
「いま今剣くんが走っていったけど、どうしたの」
「主に会うには格好を整えて来い、とな」
「なるほど。それじゃ、僕は通してもらえるのかな」
「ふむ。まあ顔に泥もついていないようだし、いいのではないか」
「一安心だね」
廊下を歩み寄ってくるは、刀派長船が一振り、燭台切光忠だった。隻眼の金目で好青年の笑みを浮かべるその手には盆がひとつ。きれいに澄んだ緑茶は湯気をあげ、脇には淡い桜色をした小さく可憐な練りきりが添えられている。目端の利くこれの仕事ならば茶の温度も濃さも主の好み通りなのだろうな、と思うに、三日月はそっと廊下の端へ寄ってやった。
来るな。半ば悲鳴のような懇願に、長谷部は困惑した。
「主、ですが」
「あー、長谷部くん。別に二度と来るなとか、報告が聞きたくないってわけじゃなくてね」
「燭台切」
右には近侍の三日月宗近、左には燭台切光忠を置き、主は未だ廊下にたたずむ長谷部を視界に入れず、俯いていた。
命じられた遠征では大成功だと自負する結果を持ち返ったし、隊員を誰ひとり欠くこともなかった。この報告は主に喜ばしいものであるはずだ。部隊長に任命され、結果を期待されては応えぬわけにはいかぬと懸命に働いた末の主の奇行に納得できるはずもなく、長谷部は口の端を噛んだ。
「主は長谷部くんが疲れてるだろうと、思ってさ。遠征の報告は、湯浴みやら着替えやらを済ませてからっていうのが決まりなんだ」
「しかし、報告はいち早く」
「長谷部よ。これは主たっての厳命である」
事態を静観していた三日月の凛とした声。俯く主から視線を移すと、名の通り輝く双眸に射竦められ。
「伝え忘れていたか。すまんな」
「――いえ、主命とあらばこのへし切長谷部、急ぎ身を清め、改めてご報告いたします」
「うん、頼むぞ」
その声を受け、また主へ視線を戻すと、審神者とようやく目があった。申し訳なさそうに短く謝られたうえ手まで振られては、いつまでも立ちすくんではいられない。長谷部は頭を下げ、黙って踵を返した。
長谷部の足音が遠くなり、やがて聞こえなくなると、審神者は深く息を吐いた。膝に投げ出された手袋に覆われた手が、僅かに震えている。力なく首を垂らす姿に、燭台切はその頼りなげな背を摩ってやった。
「大丈夫だよ。長谷部くんも驚いただけだから」
「部隊長の連絡がうまくいかなかったようだが、前任は誰だったか」
「陸奥守くんじゃなかったかな」
「ああ、まあ、主よ。そういうこともある」
脳裏で陸奥守吉行が豪快に笑って、審神者もまたつられて笑った。主がそのときやっとひとつ呼吸したように思えて、燭台切は手の下の肺がふくらんだような錯覚を抱いた。
「あれでも随分マシになった方らしくてね」
厨で湯呑を水にさらしながら、燭台切光忠はそんな口ぶりでもって重い口を開いた。
そも、厨でまるで侍従のようなことをしていた燭台切を見つけ、声をかけたのは薬研のほうだった。手伝うぜ、いいから任せちゃくれねえか、と言いくるめ、彼がきれいに洗った湯呑を拭う仕事を得てから、のんびりとあれこれ話してから、さてと薬研が口火を切った。俺はうまく取り繕えんから率直に聞くがと前置いて。
「大将のあれは、潔癖症みたいなもんか」
「まあ、そうだね。そういう躾を受け続けてきたみたいで」
「だろうな。ありゃ根が深いぜ」
「そう、だから薬研くん、食器類は丁寧に磨かなきゃだめなんだ。水滴ひとつも残さないくらいね」
「ああ、わかってる」
この布巾だって煮沸消毒をくどいほど行うから、厨に来るたび湯が沸いている気さえする。念入りに湯呑の水滴を拭う。うららかな日差しに似つかわしくない沈黙が落ちた。
湯呑を三つ丹念に拭い終わったところで、言葉を接いだのは燭台切だった。
「主の部屋、綺麗だろう。どこもかしこも手入れされて、埃ひとつない、完璧な部屋だ。あそこは綺麗で、静謐で、人間味なんてのがかけらもない。ぞっとするよ」
つとひとつ目を眇め、燭台切は主の顔を思い浮かべた。欄間から射す陽を受け、閉めきった自室で座している審神者。己が訪れると、ねぎらいの言葉をかけながら箪笥を開き、ずらと並んだ手袋をひとつ差し出してくる、いっそ憐れみさえ抱く姿。
あれはきっと、審神者などに選ばれなければよかった。
「そりゃ、難儀だな」
「他の子は、疑問に思ったりしてないの」
「ああ、兄弟はみな基本素直だからな。身綺麗にさせられんのも、引っ掛かりはあれど、ねぎらいの一種だと思ってるだろうよ」
「そっか。薬研くん、悪いけど」
「分かってる。兄弟がやんちゃした格好のまんま大将のとこ行かねえようにするくらいしかできないが、俺にできることがあれば言ってほしい。大将にもそう伝えてくれ」
すべての湯呑を磨き終えて、手袋を装着した燭台切はふと疑問を吐いた。
「どうして、とは聞かないんだね」
「現状の把握がしたかっただけだしな。それに、こういうのは薬でどうこうするモンじゃねえ。力になれねえ俺が根掘り葉掘りするのは、そりゃ悪趣味ってやつだろ」
そんなことを軽く言い切るに、薬研はさっさと厨を出て行ってしまった。残された燭台切は、あなどれないなあとそんなことを思ってから、日の傾き具合を見た。陽が伸びたとはいえ、直に陽が赤くなるだろう。そういえばそろそろ遠征に出た部隊の帰るころだろうか。主と円滑な報告のために、湯を沸かしておかねばならない。
おや、と思った。刀であるはずの己に自我が芽生え、今までの記憶が頭の中でさんざめく。戸惑って然るべき状況なのに、ふしぎと納得が先に立った。なるほど、つまり、そういうことらしい。
顔を上げると、人が立っていた。茫洋とした目をしたそれが己の主であると、直感で理解した。
顔色の悪いそれに名を問われ、すいと口が開く。
「――三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ」
それは鷹揚に頷き、ひとつ瞬きを落とし、「みかづき」と言った。呟きにしては重々しく、一文字一文字を噛みしめるようだった。
肉の器を得た己の手を握り、開く。曲げる、開く。温かみと柔らかさのある身は、人であって人でない。振るわれる側が振るう側になった実感が湧きあがり、喉の奥が苦くなった。
「主よ」
声をかけると、一寸遅れて返答があった。
「俺は現世に顕現するなど初めてでな。世話をかける」
そこでそれは初めて口元を緩めた。言葉にするなら苦笑としかいいようのない困った顔だったが、いままで引き結ばれていた唇が綻んだのは事実。またもや、おや、と思った。
気にするなとの旨を告げて、審神者はこちらへ一歩、じりりとにじり寄った。まるで断崖絶壁に立たされたような仕草。身じろぎせずに次の動作を待てば、主は手袋で覆われた手をこちらへ伸ばしてきた。握手を求められていると気付いて、のんびり握り返す。
これがあれにとってとんでもない覚悟と恐怖を強いるものだとは、そのときの己は知る由も無かった。
近侍に据えられて知ったことだったが、この審神者はどうも扱いづらい類の人だった。
まず、素手を晒すことを厭う。常に手袋で素肌を覆っていては、稀にそれが二重になっていることも知ってしまっては重篤だと言わざるをえない。人との触れ合いも不得手と見えて、短刀らにじゃれつかれては顔色を失って己か燭台切が助け舟を出すのが常だった。
さらに、身近に置くものにはまず最初に清潔を求めた。近侍として己を置くと決めてからは審神者手ずから世話をされた。手の荒れ、服の綻び、きっと他の者ならうっとうしいぞばかやろうと暴れ出しても仕方ない手のかけよう。だが三日月宗近は天下五剣の一振りとして崇められてきた身なれば、それを厭うことなく「世話されるのは好きだ」の一言で好きにさせられる鷹揚な気性が合ったのだろう。
審神者の傍らに置かれるようになってどれほど経ったか。ある月夜、常ならば寝静まっている夜半に自室を抜け出す審神者を見つけ、そっと後を追うに、それが向かったのは屋敷の隅に設けられた泉であった。こんこんと湧くそれは清めの泉であると聞いている。おぼつかぬ足取りでその畔に辿りついた審神者は、おもむろに水面に触れ、それから横に置いた桶で水をすくって痩身にぶちまけた。二度、三度。着物が濡れるのも、底冷えする寒さにも構わず。
「主」
鬼気迫るその姿に、声をかけずには居られなくて、差し伸べた手が肩に触れかけたところで、それは肩を跳ねさせ、己の手を振り払った。振り返った目が驚愕と恐怖と混乱に満ちていて、他人を気にしない三日月には珍しく、言葉を失った。
「そのままでは冷える、湯浴みをせねば」
濡れた着物では身は凍えるばかりだと口にした提案だったが、さて湯浴みといっても準備をせねば浴槽を満たすのはただの水である。怯えた小動物のように身動きできない主を清潔な布で覆って浴室へ担いできたはいいが、はてさて雑事にはとんと疎い己がどうこうするのは無謀であると気付いて、震えるそれが自分の次に信を置いている燭台切を叩き起こしたのは、まあ今考えればちょっと悪いことをしたと思わなくもない。
湯浴みを済ませた審神者は湯気をあげる身で、こちらへと頭を下げた。悪い夢を見たのだと、苦く笑っていた。
いつも格好を気にする燭台切は髪をあらぬ方向へ跳ねさせた姿のまま、眉を下げて審神者の自室にあった。いいよ僕は気にしてないから、などと言いながら、謝罪を紡いだ唇に赤みが差したのに安心した様子だった。
その日は何を聞くでもなく寝所に潜ったが、それが三度目にもなると、泉に向かう背を見つければ追う前に燭台切を起こすようになるというもの。
「そんなに悪い夢なの」
そしてその回数が両手を超えたころ、そう問うた燭台切を咎めることもできまい。とうとう聞かれた、と、観念したように身を縮みこませた主が言葉に詰まり、閊え、嗚咽しながら言うに、それは「教育」の名残らしかった。
曰く、此度の「歴史修正主義者」による過去への修正行為は、以前より警戒視されていたらしく、政府は審神者の素質有と見出された人間に対して、熱心な教育を行った。そも“審神者”とは神の信託を得るもの、現代においてはモノに宿る思念を具現化し、付喪神に肉の器を与えるもの――つまりは神を相手取る依代となりうる人間がそうそう現世に居るわけもなく、こうして各地に送り込まれた審神者が偶然居合わせたかといえばそうでもない。これは造られた依代であった。
清き存在であれ、穢れることなかれ。一日に五度の入浴、食事制限、攻撃に対処するための戦術行動のすべて。多感な思春期を親元から引き離され、枷を課され。ほんの狭い枠組みの中で潜めるように呼吸する日々を過ごした。
政府の予想した「歴史修正主義者」の攻撃は、こうして現実になった。しかし時期の予測は外れた。五年外れた。たった五年、とは数百年を過ごした身なればこその感覚で、この己とは桁違いに脆弱なそれの五年とは、十年受けた教育で磨り減らされた己を再構築する時であった。
現代に生きたはずの己が時代への適応に苦しむ。そんな生活にもようやっと慣れてきたころの、召集であったと。
然らば、えずきながら蹲って膝を抱えるそれは人の成りそこないだ。
人の身でありながら人であることを否定されつづけてきたそれが、刀剣を人にしたのだ。
何を言うでもなく、背骨の浮く背を撫でさすってやる。弾けるように肩を跳ねさせたそれは、種を明かされてみれば、拒絶でないと分かった。これはただ、人を知らぬ。暖かさを知らぬ。他人との接触を断たれ、清き者であれと言われ、それに添おうとしたときのまま、殻を破りきれなかった幼子だった。
「主よ、ゆっくり息をしろ」
「主」
一定の速さで背を叩いてやり、苦しげに喘ぐ主の呼吸が整うのを待つ。燭台切は手袋が皺になるほど握られた手をほぐし、固まった指を一本一本外してやっていた。不得手であったはずの触れ合いだのに、審神者は堪えているのかそれどころではないのか、暴れて逃れることもなく、大人しかった。
「主、僕らは戦うために体を与えられたけど、それを与えたのは君だよ」
常に格好を気にする伊達男らしからぬ、弱弱しい声だった。
「僕らが成った時点で、君の頑張りは報われた。だから、だから」
「もう少し、楽な息の仕方を覚えたらどうだ」
勝手に言葉を接げば、燭台切は笑って頷いた。
主はぐうと喉を鳴らし、深く深く息を吐いた。それを何度か繰り返して、合間に喉が引きつったような声が混じり始めては燭台切と顔を見合わせるに、すわ過呼吸でも起こしたかと主の身体を引き起こしてみれば。
そこには涙にまみれ、それでも懸命に笑う審神者があったのだ。
「主よ、寝ているのか」
棋譜を片手に盤に向かう主が身じろぎしなくなったのでそう声をかければ、心外そうな声が返ってくる。随分と気安くなったものだ。前は近侍とはいえ自室に他者が居ることに落ちつかぬ様子だったのに、今は気軽な会話すらできるようになった。
「しかし、もう日暮れも近い。主よ、障子を閉めるか」
陽光は影を伸ばし、すでに沈みはじめているという時分だ。しかし、羽織を被ったそれは、今日は強情に障子を閉じず、じいと外を睨んでいた。なぜか、と問うも愚かで、黙って共に風に凍えてやることにする。
もうとっくに帰っているはずの遠征部隊が帰らない。行先も時代も、何度も遠征を成功させた慣れた地のはずだった。先ほどから落ち着かぬ目をして険しい顔をしているそれは、常に青白い顔を紙のように白くしている。
そこへ血相を変えた燭台切が駆けこんでくるに、主は丁寧に並べていた盤を蹴飛ばしておっとり刀で隻眼の腹心の後を追った。ならばと近侍の己も騒ぎの中心へ向かえば、そこはさながら一種の戦場であった。
「主君、申し訳ありません。同中、敵の襲撃を受けてしまい」
「君たち、怪我は」
「ぼ、僕らを庇って、加州さんが」
「そうか、加州くんは」
「大和守さんが、あっ、大和守さんッ」
無傷の短刀たちにまずは報告をしてこいと走らせたのを追って、相棒を支えて帰還したのは、大和守安定だった。おい、重いよ、と呟いて、絶句して立ち竦む審神者の前に手負いの相棒をぽいと放り投げる。容赦のなさは気安さと付き合いの長さからくるものだろうか。その相棒、加州清光は頭を抱えて地面に転がった。
「ごめん、こいつがドジってさ」
「ドジってない、ドジって、い、た」
「ドジだろ。下手に相手しようとするからさ、主も叱ってやってよ」
主と聞いて、加州の身が震えた。健常な身であればすぐに主に寄ってくるものの、今はあの山姥切国広のように身を隠すものを探し、視線をうろうろさせている。しかし醜態を見せたくはなかった相手がもはや眼前に居るとなれば逃げ場もなく、加州はせめてと肘を額につけるように腕をかざし、俯くことで抵抗とした。
「ご、めん、ごめんなさい、簡単な遠征、だったのに」
見ないで、汚い、ぼろぼろで。そんなことを取り留めなく呟いた加州を見下ろす主は、茫洋とした目で、唇を噛みしめ、そこにある加州を見ているようで何か遠くを見ているようだった。
審神者の厭う一番の穢れは、血だ。穢れを畏怖するようすり込まれた主には、四肢から血を流す加州は何より毒だろう。今までは十年かけて叩き込まれた引き際を心得た采配で重傷者は出なかった。だが、これは少し状況が悪い。ここは主を下げさせ、多少なりとも応急処置を挟んでから主の力を借りて手入れをさせるべきである。
あるじ、と声をかけ、ぴくりとも動けず固まっているその肩を引いてやろうとした。が、深呼吸をして胸を膨らませたそれは、おもむろに膝を落として、手を伸ばすに。
「ある、じ」
信じられぬという顔をしたのは抱きしめられた加州であって、声を上げたのは無傷の短刀らを湯殿へ向かわせてきた燭台切だった。己もその声で、肩に触れようとしていたときのままの手を下ろすことができた。
「え、だ、だめだよ主、よ、汚れるからッ」
混乱の極みに叩き込まれた加州といえばもはや泣きそうな顔になっていては、しかし血と土に汚れた手では触れられぬと二進も三進もいかぬ状況。助けを求めようにも大和守安定は短刀らを追って消えたあとで、燭台切は未だに目を剥いて固まっているので頼りにならない。
それでは、とやはり己に視線は流れてくるのだが、目を細めることで返事としてやった。
「あ、あ、アンタそれでも近侍なわけ」
「はて、何のことかな」
「主、ねえ」
わめいていた加州が、ふと黙り込んだ。主の一言が耳を打ったからだった。
――大丈夫。汚れてない。
それは呟くとも言い聞かせるとも取れそうな、力強い声。何度も何度もそんなことを繰り返し言葉にして、人の温もりを恐れた審神者は、いま自らの温もりを他者に分け与えていた。恐る恐る加州の手が主の腰あたりをさまよい、赤い爪が縋るように布を掴んだ。
「お、俺、まだ、大事にされていいって、ことかな」
その問いに、主の頭が、ゆったり頷いた。
「大将、ちいと柔らかくなったよな」
煮立った湯の前に立った燭台切の横で、薬研が笑った。
「そうかな」
「ああ、アンタはいつも一緒だからわかんねえかもな。表情がやさしくなったよ」
「そう、か」
今日の湯は、布巾ではなく枝豆のために沸かされていた。案外甘いものの好きな主のために、とずんだ餅を手ずから作り始めた燭台切を手伝いに現れた薬研は、喉を鳴らしながら己が薄皮を剥いたずんだ餡の緑を満足げに眺める。
「それは嬉しいな、本当に。主は、もっと楽しげに笑える人だと思うから」
「アンタも三日月も、大将のことを理解してんだな」
「へ」
「アンタらみたいな理解者が居てこそ、大将も気ィ抜けるんだろ。これからも、しっかり息抜きさせてやれよ」
ぽちゃん。急須に注ぎかけていた湯が勢い余って跳ねた。笑う薬研は、駄賃代わりだと言ってずんだ餅をひとつかすめ取って行き、いつかのようにさっさと厨を出て行ってしまった。残された燭台切は、やっぱりあなどれないなどと考えながら、今度こそ丁寧に湯を注ぎこんだ。
――ひとつ壁を越えたとはいえ、あれはまだ脆い。いつかあの手袋がいらなくなる日が来ればいいと思うのは真実なれど、それでもまだ今は。もう少し、あれの休める場所は自分たちだけでありたいなどと密かに思う。主には言えないな、と格好のつかない燭台切光忠は苦笑した。