超難関と言われた海帝高校に合格して浮かれていた俺は、入学式の日に期待不安希望のすべてを打ち砕かれた。碁石をポケットに潜ませていた俺を見つけたあいつに声をかけられた瞬間から、高校生活三年間が決まってしまったのだろう。
「碁を打つんですか」
打つも何も、碁は青春で人生だ。小学生で院生になってから上位ランクに居座り続け、来年冬にはプロ試験を控えた身である。趣味や遊びで打っている奴らとは気合も覚悟も違うのだ。
ただまあ、入学初日ということもあって緊張していた俺は曖昧に笑ってそいつを受け入れ、戯れのように一局打って、そして負けた。
何度も何度も数え直した。結果は変わらず一目負け。ハンデはいらないと言われて中盤までナメた打ち方をしていたせいだと思いかけて、いや全て言い訳だと脳内の自分を繰り返し繰り返し刺し殺した。
「お強いんですね」
「お前、名前は」
「僕は森園億人。きみは」
「」
森園億人。それが俺の三年間の全てになった。
あの一敗で俺は簡単に調子を崩し、一度も落とさなかった院生のクラスを初めて落とした。来年のプロ試験は辞めた方がいい、院生で居られるのは十七歳の三月までなのだしまだチャンスはあるとも諭された。冗談ではない。昨年受けるはずだったプロ試験をやむなく病欠した手前、万全の態勢で迎えねばならない大一番である。それを、あんな一局で。
高校生活に慣れた頃、当たり前のように囲碁部に入部して先輩たちを蹂躙することに満足した俺はふと森園億人が囲碁部に居ない事実に気づいて愕然とした。二つ離れた部室で、そいつはまったく別の盤面を見ていたのだ。差し込む陽を白い頬に受けて長いまつげを伏せているその顔を見て、これ以上ないくらいに腹が立ったのをよく覚えている。
その日、俺は将棋部に乗り込んでそいつの手を引き、空き教室に連れ込んだ。大人しくついて来た億人は狼狽えることも怯えることもなく、静かな目をしてこちらを見ていた。俺は碁石をやつの目の前に掲げて低く唸る。
「俺と碁を打て、森園億人」
「ええ、構いませんよ」
「ハンデはない、全力で行く」
「その方が嬉しい」
その日も俺は負けた。盤面を見て泣いたのは初めてだった。頬に一筋の涙を滴らせる俺を見る億人は、しかし何も言わなかった。
この一局から院生・は復調した。対局者がのちに語るに、あの日からの俺は血を流しながら振り絞るような一手を打つようになったそうだ。億人が傷つけた俺の心臓は激しい鼓動を取り戻したが、だからこそひと際派手に出血し続けていたのだろう。
一度落としたランクを引き上げ、Aクラス一位の座に返り咲いた。海帝高校では好成績を収め、友人を作り、先輩方を負かして、やっぱり億人に負かされた。
ひと月に一度のペースで、吹っ切れた俺は億人に碁を挑むようになった。やつは微笑んでその挑戦を受け、白熱した戦いを繰り広げて、そのどれもに勝ち続けた。将棋で負けなし、千手先を読む男と言われる森園億人はどの日も楽しそうに笑って俺の起死回生の一手を躱していたのである。
「くんは負けず嫌いですね」
「億人ほどじゃない」
お互いひどい負けず嫌いだった。だからこそ一年も二年も同じことを繰り返していたのだろう。
畑違いの囲碁でも無敗の森園億人。その彼に無様にも連敗の囲碁部の鬼才、かっこかり。俺の評判は学内と学外で雲泥の差があった。しかしそれでも俺はまったく気にしなかった。億人との一局は先輩や院生仲間の誰よりも勉強になったし心が躍って、何より純粋に楽しかった。
やつが生徒会長になって海帝高校の改革に乗り出し、凝り固まった体制に容赦なくメスを入れ始めたとき、ふしぎと懐かしさを覚えた。今の海帝高校はあの日の俺だ。入学式のあの日、驕りと虚栄心で塗り固められていた俺をズタズタに切り裂いて余計なものを剥ぎ取った森園億人は、また同じことをしようとしているのだと思った。
「話がある」
だから卒業式の日、俺は同級生や後輩や現生徒会長に囲まれて笑う元生徒会長の親友を連れ出して、あの日と同じ空き教室に押し込んだ。
億人は室内に入ってから初めて驚いたように目を丸くして、少し首を傾げてからゆるゆると唇を解いた。「きみって、そういう男だよね」そう、お互い負けず嫌いの塊なのである。
「一局指そう、億人」
盤面にばら撒いた駒を並べながら、顔も見ずに呟いた。胸に挿した造花が眩しい。
粛々と行われた式の余韻を残すこの対局を、一生忘れないだろう。
崩された穴熊、串刺しにされたまま逃げ場のない王将。行き場を失った駒たち。最後まで足掻いた醜い一局だった。
「棋譜、やっぱり残せばよかった」
投了を宣言して頭を下げたままの俺にそう宣ったあいつは面映そうに笑っている。碁打ちの俺が将棋を指して、かの森園億人に敵うわけがない。ただ、あの日、俺の三年間を決めたのが囲碁だったのであれば、最後くらいはやつの土俵に上がってみるのもいいと思ってしまったのだ。三年前の俺には考えつかなかったことだろう。
「俺は、ここに入ったのに深い理由はなかった。難関と名高い海帝に挑んで、呆気なく入学できてのぼせ上がってた」
「うん」
「でも、今だから思う。俺はお前に会うためにここに来たのかもしれん」
高校二年の冬、プロ試験に合格した。平日に休むようになっても学校を辞めなかったのは、なんとなくで選んだここを捨てがたかったからだ。
億人は柔和な笑みを浮かべたまま、黙って盤面を眺めていた。泣かないかな、と思ったが、結局やつは一粒の涙もこぼさなかった。
さて、ここで少し時を戻そう。
森園億人が次期生徒会長候補だった頃、俺は将棋部の部室でたった一度だけ将棋を指したことがある。
「森園億人に挑み続ける理由? そんなの決まってる、負け続けなのが耐えきれないのと、億人が挑んでほしそうだから」
パチリと軽やかな音を立てて香車で逃げ道を塞ぐと、対局者が感心したように笑いを漏らした。するりと金が前進してきたので銀で寄り添い、牽制する。
「それが連敗の理由?」
「腹立つ言い方だな」
「すんません」
やつは爽やかに笑って、ちょろりと歩を進めた。俺は間髪入れずに手駒を盤面に戻す。「王手」「うわ、ミスった。銀が死んでてカバーできない」人の一手一手に反応して、素直に感心する。楽しそうに将棋を指す男だ。笑いながら頭を掻いて俺と膝を突き合わせている男は、大鷹弾という。
人気のない将棋部部室。会長選の準備に追われる億人が不在の隙を縫った密やかな一局は、大鷹弾からの提案だった。
「俺が億人に構ってもらってるんだと言われているが、実際は逆だ。俺が億人に付き合ってやってる」
「その心は」
「あいつ、千手先が見えてるくせに、たまに勝つ手じゃなく負けない手を打つ」
それはお互い最適手が見えているからこそわかる暗黙の了解だ。あの森園億人が十手不要な手を打って何をしたいかというと、これは自惚れだが、引き延ばし工作だろうと思う。間違いなく。
「終わらせたくないって?」
「おそらく」
「そんなこと思ったこともなかった」
「うん。だが俺は、そういう不器用な男が億人だと思う」
基本が小器用すぎて、本当の奥底に眠っている気持ちまで隠すのが得意だ。だからそれを一手にこっそり込めてしまう。なんて素晴らしく面倒な男だろう。
「それをわかっちゃうさんも相当な面倒な人ってことか」
「面倒だよ。なんてったって二年前のことをまだ根に持ってるんだから」
そう、だからそれを受けて少しでもいい手なおかつ盤面に広がりが出るような一手、そんなものを探してしまっている。広がった中からまた戦略が広まれば、また新しい手が生まれれば。
「そっか。似た者同士だ、二人とも」
腑に落ちたように言った大鷹弾はすっきりした顔で笑った。