ヒロミちゃん、いい匂いする


 抱き締められることに慣れる日が来るとは思わなかった、と尾頭はある日急に思った。欧米ならまだしも、恥の文化の息づく日本において日常的にハグをするの感覚がわからない。外では一応控えているようだが、家ではその分よく引っ付いてきた。

 なのには人を見るのが上手い。尾頭が来ないでほしいときには絶妙な距離を取ってシャンプーの匂いすら感じさせない。だからこそ距離感のおかしいときを許容できている。

 だから、今だと思った。

「あの、ヒロミちゃん」

 の声が彼の胸を通し、ゴツゴツした背骨に当てた額へと骨伝導する。困惑しきった声。眉を下げた困った顔をして、どうしようかな、と思っているのだろう。顔は見えないが、容易に想像できた。

「はい」

「重くない?」

「いえ、平気です」

「苦しくない?」

「とくには」

 いま、尾頭はソファに座る彼と背もたれの間に無理やり体をねじ込んだみたいな格好だ。風呂上がりのスウェット姿のがタオルを頭にかけた状態でのろのろ出てきたのを見てソファに呼び寄せ、指示して実現した体勢だった。は落ち着かなさそうに背中を動かし、まるで風船でも敷いているように背中を強張らせている。

「力を抜いて」

「抜いたらヒロミちゃん潰れちゃうよ」

「人間はそう簡単に潰れません」

「潰れちゃうって」

 子どもを相手にするような言い草に、少し腹が立たなくもない。彼の腹の前に回してゆったり組んでいた手に力を入れて、腕力さえあれば胴体を泣き別れにする勢いで締め上げた。「あいたたた」は半笑いで手足をばたつかせただけで、決して尾頭を振り払ったりしなかった。

「もう、なに。なんかあった?」

「なにも」

 あったとするなら、そちらだろう。

 珍しくが態度に出すほど落ちていた。彼は生来あまり弱音を口にしないので、尾頭にも目新しく映ったから気づいてしまった。しかし、表に出さない男の慰め方など尾頭は学んできていない。

 だから一番身近な人間の慰め方に倣うことにした。だから、ハグだ。ハグヒーリング、タッチセラピー、医療機関で用いられるくらい実績もあるのだから合理的で効果的だと思った。

「ヒロミちゃんなんか細いなあ、もっと食べさせよう」

「十分に食べています。昼食のお弁当も少し多いくらいです」

「うん、今日も空にしてくれてありがとう」

 尾頭は一瞬黙った。毎日卵焼きとおかずをひとつずつ、高確率で出くわす元巨災対の面々に分けているのを知られたいような黙っておきたいような、複雑な気持ちになったからだ。この優しい人が作ったもので、おいしいと笑顔になる様子を見るのが好きだった。

 すう、と鼻先で肺が膨らむ気配がした。

「ヒロミちゃん、痛くない?」

「はい」

「じゃあ、ちょっとだけリクエストしていい?」

「どうぞ」

「振り返りたい」

 はい、と呟くと、のそりと長身が反転した。ソファの背もたれとに挟まれ、あっという間に抱き抱えられる。はあ、とスカスカのため息みたいなものが耳元で零される。この人の弱音は春の日にオオルリを探すようにしなければ掴めないと知ったのはいつだったろう。

「ヒロミちゃん、いい匂いする」

 鼻先が首元に埋まってくぐもった声がそう言ったが、広い背中をたどたどしく撫でながら、同じボディーソープの匂いだろうと返した。「違うなあ」と笑うの声が明るかったので、尾頭はくすぐったいのをあと少し我慢することにした。