「俺ね、“尾頭さん”って最初はあだなだと思ってたよ。なんてウィットに富んだ素敵な名付けだろうって、名付け親に握手とキスを贈りたいくらい、そしたら本名だっていうじゃない、もうね、俺はあれを感じてたよ、あれ。うん。ヒロミちゃんお代わりいる? イカ多めにしてあげよっか?」
アルコールに任せてつらつら訳のわからないことを話す男はたこわさを噛み締めながら上機嫌だった。テーブルを挟んだ相手の小皿が空になっているのに気づく程度の思考能力は残っているようだったが、彼女といえばつい先ほど有無を言わせぬ勢いで山盛りにされたイカ大根をやっと片付けたところだったので黙って首を振る。男は変わらず笑っている。
「あは、尾頭さんだって。久々の響きかもしんないね、オガシラさん、ねー。オガシラさん、んふふ」
男はテーブルに行儀悪く頬をつけた。使い込まれて色の落ち着いたハードメイプルのテーブルはひんやりとしていて、火照った頬に気持ちがいい。
熱い息を吐いて、思わず閉じていた目を薄く開いた。熱を持った瞳は光を吸って視界を妙に煌めかせる。対面で座る彼女の硬めの黒髪は、先ほどまで丹念に行っていたタオルドライのおかげで常より艶やかだ。
男と彼女の出会いはまさに偶然だった。
数多の人、人、人でごった返す大学の食堂で黙々と箸を口に運ぶ彼女がどうして目に止まったかといえば、食べているときの幸せそうな笑顔に惹かれただとかそんな少女漫画のような理由ではなかった。すぐ横にぴったりとくっついてくる茶髪をくるりと巻いた女子がカルボナーラを載せたお盆を持っているというのに、彼ときたら黙って彼女が向かい合う皿に痛烈なときめきを感じていた。
そも、男は要領のよい人間であった。外見も学力もそこそこよく育ってしまったもので周囲には彼を好いてくれた女子が後を絶たなかったが、どうしてだか長続きしない。それは彼の生い立ちにある、つまり男はおばあちゃん子だった。
「好みのタイプ? ええ、そうだな、煮物みたいな子かな」
彼の周りには、例えるならばショートケーキやマカロンやパフェやアイスクリーム、つまり甘くてかわいくてつやつやしたような女の子ばかりが居たので、この発言はいただけなかった。割と真剣に考えて出した答えを「聞いてよ、彼ってばこんなこと言うの」とイケメンのオモシロ発言として知り合いの知り合いの知り合いにまで拡散されてしまい、男はちょっと困ったように笑ったが、まあいいかとさっぱり諦めた。欲しがらないドライな現代人の気質を受け継いだ彼は要領よく諦めるのが得意だった。
煮物が好きってどういうこと、と尋ねられても理解してもらうのも面倒だったので「家庭的な子かなあ」と適当にはぐらかしてへらへら笑っていた。そもそも煮物が好きなのではなく、煮物みたいな子がタイプなのである。現代の情報は拡散力が高い割に背びれ尾ひれが付きやすく、正しい形をすぐに忘れがちだ。そうやって分かりやすいタイプを提示してやると、彼女たちは健気に料理に取り組んだりもした。これ筑前煮、これだし巻き卵、今度は肉じゃがなんてどう。背びれが波のように重なり合い、尾ひれが鎧のような巨大魚になった「家庭的な子が好きなぼく」に噛みつかれながら、おいしいよと笑ってもみせた。本当は料理が滅法得意な男なので、この子の家庭の味噌汁は鰹節なのね、とか出汁の取り方がちょっと残念、なんて感想を奥歯で噛んで飲み込んだりもしたが、口に出さずに笑顔でコーティングしたのは賢明だったろう。
さて、そんな男が見初めた彼女といえば、正直パッとしない。顎あたりで切り揃えられた髪は少し硬そうで耳にかけているせいで頬のあたりまではね返るようにカールしているし、顔色もばら色とは言いづらい青白さだし、何より表情に乏しかった。
ただ黙々と魚を食べていた。
「ね、あそこの子、誰だっけ。専門課目で見たことある、たぶん同級生だと思うんだけど、どこの子だろう」
「どの子?」
「あそこで魚食べてる子」
「……あっ、尾頭さん?」
「オガシラさん」
それ、あだな? と聞きそびれるくらいぼんやり口の中で繰り返した。オガシラさん。なんて素敵なあだなだろう。
だって、彼女の皿ときたら本当に尻尾と頭しか残っていない。
尾頭ヒロミは同じ学科の同級生だった。もう大学生活も二年目に入ろうかというのに今まで気にしたこともなかったのは不覚だった、とは淀みなく包丁を動かしながら考える。趣味と実益を兼ねたイタリアンレストランでのアルバイトは男にとって充実したひと時だ。
呆けたような気持ちである。剥き続けた芋が山となり、先輩に肩をどつかれるまで延々包丁を回す機械になっていた。それほど、衝撃だった。
食堂の出会いから三ヶ月、男はフットワークの軽さと交友関係をこれでもかと言わんばかりに活用して尾頭ヒロミについて知った。大学内でも変わり者で、生物学に精通する教授のもとに入学当初から通い詰める勤勉な性格。物静かかつマシンガントーク。そして、魚の食べ方がきれいだ。
あれやこれやとツテを介してご飯会を企画してもらい、ただ尾頭ヒロミの食事を眺めたりもした。しかも三回も。結論として、男は観念した。
「いや、参った」
間違いない。これは恋である。
目を吸い寄せられた切っ掛けが魚の食べ方がきれいという一点だったものの、観察してみれば尾頭ヒロミという人間はなかなかどうして興味深かった。図書館の自習スペースを占拠する姿は衣食住を忘れたかのように一所懸命だし、表情に出ないくせに緊張するときは手を強く握るところはいじらしく、たまに口元を緩める姿なんて見かけてしまえば、もうとどめである。
「尾頭さん」
大学構内で見つけた後ろ姿に声をかけ、振り返った彼女の鋭い目に見つめられると、声が詰まった。だけれど衝動的に口をついて出た言葉があった。
「二番目でいいから、俺」
この時の不意をつかれたような、怪訝そうな、奇妙なものを見たような。そういう彼女の表情は、たぶん一生忘れないだろう。
過程をすっ飛ばしたと気づいて、内心の焦りを隠しながら軸足を変えるふりをして呼吸を整える。絵に描いたように緊張していた。初めてだった。
「ごめん、間違えた」
「……」
「ええと」
プレゼンだと思えばもう少し言葉が出るかと思っていたのに、真っ白になった頭はぎこちなく軋むだけで気分が悪くなってきた。湿った肌に無理やりスキニージーンズ着せようとしてるみたい、とよそ事ばかりが浮かぶ。
「その」
彼女は辛抱強く、または呆然としているのか、言葉を待っていた。
「好きです」
結局それしか言えず、いつも余裕だねと言われたはずの自分の耳が熱いことに気づいて叫び出しそうだった。
出会う友人たちに「帰らないの?」と「バイトは?」を何セットか尋ねられたのを笑顔でかわして、図書館でレポートを進めて二時間になる。目当ての資料が一冊貸出中だったこと以外は概ね想定通りの進捗で、さして切羽詰まっていない課題まで手をつけ終わってしまった。
バイトは休みだ。そして帰らずに急がなくていい課題を進めているのは時間つぶしである。鳴らない携帯を眺めて、これは今日も空振りかなと心の準備を始めた。
「二番目ってこういうものよね」
二番目になったことのない二番目初心者だが、確かにそう思った。
尾頭ヒロミというふしぎな人を好きになって、告白をして、当たり前のように振られた。だって当然だと思う。なんせ彼女ときちんとした友人関係すら築けている気もしていなかったし、思い返してみれば入学直後に「尾頭」と「」でデフォルトの席順が隣だったくらいで接点もろくになかったのだし。
しかしも転んでただで起きる男ではなかった。「知らないなら知ればいいよ」「お試しとか言わない、知ってほしい」と自分でも驚く食い下がり方でもぎ取った『最終コマに授業がある日、気が向いたらご飯に行く』約束は、まあ分かってはいたものの高確率で反故にされ続けている。しかし律儀でまじめな彼女なので、なんと七回に一度は本当に付き合ってくれるのだ。は大層喜んで、和洋中イタリアン沖縄インドとさまざまな店を見つけては彼女を誘い出した。
携帯が震える。
メールを開くと、絵文字ひとつない文面で業務連絡のように謝罪とお断りが並んでいた。やっぱりダメかあ。この曜日の最終コマは彼女がひと際興味のある課目だ、振られる確率が高いのがわかっていてもがっかりする瞬間だ。さりげなさを装った返信をして、いそいそと帰り支度を始める。
恐ろしいことに、二時間の待ちぼうけを食ってもなお「次の機会」を楽しみにしてしまう。恋は得てして人の頭をばかにしてしまうが、この場合はその二時間が成績アップに役立っているというから笑えもしなかった。
「あなたが理解できません」
フォークを皿に置いて、彼女がぽつりと呟いた。は目を瞬かせ、なんで、と言う。先を促すように、しかし急かすことのない、純粋な疑問から出た返事だった。
「あなたのような人が私に興味を持つ必然性がありません。話をするにしても食事をするにしても、もっと適した人材が居るはず」
「尾頭さんと難しい話するの楽しいよ。予習がはかどる」
「私も森林林業保全法が夕食の席での話題に不適切であることくらいは理解しています。ですが、バラエティーや音楽の話はできませんので」
「いいよ。尾頭さんの話したいことを聞きたいんだから」
が本音で話しているのが伝わっているのかいないのか、尾頭は微妙な顔をしてデザートプレートの端あたりに視線を落としている。「わからない」噛みしめるような呟きはほんとうにひとり言だったのだろう。
「こんなに単純なのになあ」
好きな子と向き合ってご飯が食べられる、それだけで幸せだというのに。回数が両手両足の指を超えた今でもなお、新鮮に嬉しいというのに。
「あ、おいしい。尾頭さん、ここのチーズケーキおいしいよ」
口に運んだチーズケーキは底面がクッキー地になっていて、軽やかかつ香ばしい。尾頭はちらりと男を見て、それからケーキを小さく一口食べた。
大学三年生の冬ともなれば、いろいろと忙しくなる頃だろう。は自主学習の甲斐あって好成績を収め、学内でも指折りの出世コースと言われるゼミに所属していた。何が目当てかといえばお役所勤めの未来だとか安定だとかそういうものではなく、ただ尾頭がそのゼミを志望しているという一点に集約される。
大学院に進む気はない。そもそも就職先だって大学とは関係なく、バイト先の店長のツテで洒落たレストランに決まってしまった。レポートを書き、授業に出て、バイトをして、彼女とご飯に行く。ご飯に応じてくれる回数が三回に一度に増え、なんと休日に一緒に出かけることさえあった。それがたとえ山にゴミ拾いに行くボランティアであっても、は幸せ者だった。
あの怪訝そうな顔をされた日から二年弱が経ったが、尾頭から話を振られたことはない。断るタイミングを失ったのだろう。優しい彼女は苦しんでいるかもしれないが、だとしても、にとって彼女との小難しい会話を挟んだ食事会はもはや生活の一部になりつつある。無理にせっついて失くしてしまうのであれば、もう一生このままでもよかった。
「拗らせてる」
初恋だ、好きに拗らせさせてほしい。そんな不毛なことを考えながらベッドでとろとろ寝落ちては目を覚ますを繰り返して深夜二時を回った頃、寝ぼけた頭を騒音がぶん殴った。携帯の着信音。
舌打ちをひとつして相手も見ずに通話に応じる。低く掠れた唸り声だった。
「だれ、こんな時間に」
「さん」
ベッドから転げ落ちる。
「夜分遅くに大変申し訳ありません。ですが利用予定の交通機関がことごとく停止して帰宅もままならない状況になってしまったもので」
「え、あ、は、うん、ちょっとごめんいまなんじ? いまどこ? なんでそと」
「午前二時十分です。場所は都内ですが、教授にお誘いいただいたご縁で学会の集まりに、さん」
「どこ、まって、ちょっとまってて、ごめんジーンズがみつかんない」
「さん」
電話越しの彼女の声は固かった。きっと痛いくらい拳を握りしめているんだろうなと思うと、今すぐ飛んでいってその手を解いてあげたかった。電話を肩で耳に押さえつけ、ジーンズに足を通す。寒い、冷たい。財布と鍵を掴んだ。
「今まで遠回りをしてきました。私はずっとあなたが何を考えているのかわからずに考え続けてきました。なのに答えが出なくて、ずっとずっと袋小路に居たような気がします。ですがそれは足りていなかった、あなただけでなく私自身。こういう状況で、あなたひとりを頼りたくなった事実でハッキリしました」
「まって、ほんとごめん、なに」
「あの日の答えを、今お返しします」
止める暇もなかった。
は最後の理性で部屋の鍵を閉め、階下の駐車場に駆け下りていく。
「私もです」
「えっ、卒業旅行行かないの?」
「卒業しませんから」
大学四年、卒論の合間にと旅行雑誌を広げていたが尾頭に行き先の希望を聞いた返答がこれである。
「じゃあヒロミちゃんの進学祝い旅行だ、どこがいい? ナポリ、パリ、ロンドン、ウィーン。エジプトで神秘に触れてみる?」
「……どこでも?」
「どこでも」
正直に話せば、はヨーロッパ推しだった。本場のイタリアンを味わって活かしてみたかったし、キラキラしたファッショナブルな通りに尾頭を立たせてもみたかった。
しかし、一筋縄でいかないのが尾頭ヒロミその人である。
の部屋には一枚の写真がある。帽子を被った無表情の尾頭と、同じような格好の笑顔の。そしてキツネザル。写真の隣にはマダガスカルのペナントが飾られている。
今から振り返っても一番だろう、尾頭のとびきりのわがままだった。
「ヒロミちゃん、課長補佐昇進おめでとう!」
帰る部屋が同じになって楽なのは、こんなサプライズがやりやすくなったことだろう。扉を開けた状態で固まっている尾頭が、クラッカーのテープを髪に乗せたまま赤みのない頬を引きつらせていた。
「びっくりした?」
「はい、とても」
「嬉しいな。はい、今日はビーフシチューだよ。シャンパンあるから開けよう」
「まだ課長補佐なのに」
「もうだよ」
はフットライトを蹴らないように廊下を進み、ヒールも脱がないまま玄関で立っている尾頭の手を取った。冷えている。
その手を引いて、ひんやりしたトレンチコートごと痩躯を抱きしめた。
「ヒロミちゃんががんばってる証拠だ、ほんとうに偉い。おめでとう、俺はほんとうに嬉しい」
はいつだって本音だ。それが伝わっているのかいないのか、尾頭の反応もいつだって薄いが、ゆるりと白い手が背中に回った。言葉は要らない。
「ごめんなさい」
丁寧なタオルドライによって艶やかな黒髪が、俯いた横顔を隠している。それをそっとめくり上げて顔を見たい気がしたけれど、はがまんしてソファの隣に腰かけた。
「なんで」
もう尾頭が出勤するまで五時間を切っている。早く寝てもらわなければいけないのに、彼女はベッドに向かおうとしない。
いつの間にか長い付き合いになった。初めてを重ねてきた。だからこそ、彼女はをもう理解してしまっている。どんなに彼女が逃げてほしくても、彼女がここに居る限りは東京を離れない。
「ヒロミちゃん」
髪のカーテンの隙間から、そっと視線が絡んだ。
「きみに恋して十年経ったけど、今さら変わらない。やっぱりきみのために生きたいと思うよ」
耐えきれずに抱きしめて、薄くて背骨の浮いた背中を撫でる。この背中に東京駅に佇む巨大な彼を破る秘策がかかっているなんて到底思えないほど華奢な体。
あの日、蒲田に上陸したという巨大不明生物を見て、思い出したのは『ぼく』だった。背びれが波のように重なり合い、尾ひれが鎧のような巨大魚になった『ぼく』。あの日、笑顔でコーティングした下の膿んだ傷の原因を、彼女が倒してくれるというなら。
「明日のお弁当、おにぎりにたくさん具を詰めとくから、楽しみにしててね」
夜明けが近い。黙ったままの彼女を寝かしつけるために、は尾頭を軽々抱き上げた。
――ヤシオリ作戦発動三十分前
『ヒロミちゃん、留守電に失礼します。帰ってきたら生まれ年のワインを開けましょう、ずっと考えていた大事な話をしたいです』
「私もです」
「ん、尾頭さん、なんか言った?」
「いえ、なにも」
image song/イッツマイソウル(関ジャニ∞)