高層ビルの立ち並ぶプロメポリスの街を縫うように、煙のような朝靄がひんやりと肌を撫でる。その内のビルの屋上、隣のビルの陰になる位置から柵に寄り掛かるようにして眼下を眺める男が居る。レザーのジャケットの裾を翻し、長く伸びたくせ毛の間から鋭い眼光をのぞかせ、ぼんやりと、しかし熱心な目をした男である。手にはすこし乾き始めたりんごがひとつ。真っ赤な皮を太ももに擦り付けて、大口を開けて齧った。
「――」
まもなく見下ろす先の建物のドアに括りつけられた鐘の音が鳴って、細身の人影が現れた。
箒とちり取りを手にしたエプロン姿の女。まだ朝も早く、横から朝日が差すような時間だというのに凛とした佇まいは朝露に濡れる一輪の花のよう。絡まるということを知らない絹糸のような髪をまとめているおかげで露わになった陶器のような頬は抜けるように白く、しかし不健康という印象を払拭するようにばら色の頬は瑞々しい。計算しつくされた配置で整えられた黄金比の顔立ちは、視線を吸い寄せるようでもあり、逸らしたくもなる魅惑の存在感を放っていた。
率直に言うと、ちょっと考えられないようなめちゃくちゃな美女である。ゲーラは今朝も彼女が健在であることを確認して、胸を撫で下ろしながら水気のないりんごを飲み下した。
そもそも、彼女を気にし始めたのは別に美しすぎる顔に惹かれたからではない。
マッド・バーニッシュとして活動するにあたって、ボスのリオ・フォーティアや相棒のメイスと共に炎上テロリストとして指名手配されているゲーラは、プロメポリスの街を大手を振って歩けない。加えて、リオやメイスと違って直情型のゲーラは『炎』のイメージをそのまま体現したように瞬時に燃え上がって騒動を起こしがちで、一所に落ち着いて生活がしにくい性質である。水面下で息を潜めるような生活を余儀なくされているバーニッシュの一人として、ゲーラはあまりにも“向いて”いなかった。
ある日、メイスと別行動で炎を暴れさせた逃走路でのことだ。しつこいフリーズフォースに攻撃されたダメージが蓄積されて、路地裏に逃げ込んだところでとうとう倒れこんでしまった。逃げ切ったことは気配で感じている。十分でいい、誰も通りがからないことを祈りながら荒い息を整えていると、すぐそばの裏口らしき扉が開いた。薄暗い路地に、室内からの光が降り注ぐ。見上げた先で、ゲーラは女神と出会ってしまった。
「あ」
美しいものだけを映して育てられてきたのだと思わせる澄んだ瞳、羽ばたきの音が聞こえそうなほど長い睫毛。それにまっすぐ見つめられている己。壁に半身をもたれさせ、脚を投げ出している薄汚いけが人を見て清廉な彼女が何を思ったのかはわからないが、今すぐ逃げなければと思う頭とは裏腹に本能と体が彼女に縫い留められてまったく動かなかった。
彼女は小さくて色のよい唇を薄く開いていたが、すぐにきゅっと噛みしめて、あろうことかゲーラの手を取って室内に引きずり込んだ。混乱したゲーラが大声を上げかけると、「静かに!」なんて短く叱咤されて言葉を失う。女に叱られるなんて、いつぶりだっただろう。
「まずは温かいものでいいかしら」
「……」
「すぐに救急箱を取ってくるから、絶対に動かないで」
無理やり座らされたのはゲーラには少し小さい椅子だったが、室内には椅子が一つしかなかったので彼女用のものだったのだろう。まだ温かくて湯気を上げる作り立てのホットサンドと温かいポタージュ、それにカフェオレが一杯。あとは手を付けるだけという完成された食卓に放り込まれて、ゲーラは戸惑いでいっぱいだった。
すぐにとの言葉通り、彼女は一分も経たない間に戻ってきた。嫋やかな手には救急箱があったが、それよりドアを開いた瞬間の彼女のかんばせに息をのんでしまった。薄暗い路地裏で見上げた光を背負う彼女を女神と錯覚したのを納得するほど、美しい女である。
「ごめんなさい、治療の腕は人並みなのだけど」
「……何が目的だ、アンタ」
「目的? 普通の人助けじゃない、こんなの」
開いた救急箱の中身はあまり減っていなくて、彼女が穏やかな生活を送っていることがわかる。クレイ・フォーサイト司政官によって統治されている自治共和国プロメポリスにバーニッシュの居場所はない。その証左としてバーニッシュは発見され次第捕縛され、バーニッシュ――とくに炎上テロリスト――を匿った者に対する法まで整備されている。普通の生活ができている彼女に対してメリットなど何もないはずだった。
「強いて言うなら、兄がバーニッシュだった。それだけ」
「あ?」
「理由を言わないと、あなた治療もさせてくれなさそうだから」
困ったように微笑む彼女のチェリーピンクの唇が眩しい。ゲーラはぐちゃぐちゃに絡まる思考と頬に血が上るのを隠すように俯き、ぐっと目を閉じた。視界が閉ざされ、鋭敏になった鼻が香ばしいホットサンドの匂いを嗅ぎ取る。チキン、チーズ、トマトソース、少しピザ風のそれはたまらなく空腹を思い出させた。
「腕の傷だけ見せて、そしたらいっぱい食べてね」
人並みだという治療の腕は確かに看護師やメイスに比べたらたどたどしかったが、自分でやるよりずっと丁寧だった。大人しく治療されている自分になぜか腹の奥が煮え返りそうになったが、目が合うたびに淑やかに微笑んでくれる彼女の瞳が、燃え上がりそうになる胸に氷を落としてくれているようだった。
ゲーラが二人前のホットサンドとポタージュを流し込んだところで、彼女はバスケットを手にして戻ってきた。
「これ、よかったら持って帰って」
「はあ?」
「ああ、バスケットが気になるなら紙袋に入れなおすわ」
「そうじゃねえ! アンタ、マジで何なんだ」
「普通よ。私は普通」
プロメポリスにおいて全く普通じゃないはずの彼女は、なぜか有無を言わせない口調でゲーラを丸め込んでしまった。今考えれば直情型のゲーラが何も言い返せず、爆発もせずに呆然と突っ立っていたせいかもしれない。だって、今までの人生でこんなに優しくされたのなんて片手で数えられるほどだった。
「私のことは気にしないで、お腹が空いたらまた来てね」
裏口をそっと覗いて通行人もフリーズフォースも居ないことを確認した彼女に手を振られ、ゲーラは何もわからないまま紙袋片手に駆け出していた。あの空間は現実だったのか? まさか路地裏に転がっていた自分が見た白昼夢だったのでは? それとも、切り取られた別次元に招かれてしまったのか? 怖くなって振り返ったが、もう彼女の姿は見えなかった。それでも胸元に抱いたホットサンドはまだ温かかったし、巻かれた包帯はゲーラの右腕を守っていた。
「美人だな」
いつの間に背後に立っていたのか、メイスが長い髪を風に揺らしながらゲーラと並んで下を覗き込んでいる。持ち帰ったホットサンドに二人で舌鼓を打ったのがどれほど前だったのか、激動の日々の中ではもう思い出せない。あれから彼女の前に現れたことはない。しかし、あれほどの美貌の彼女が厄介ごとに巻き込まれやすいということを知ってから影で見守ってしまうのが習慣づいてしまっていた。
「顔で好きになったんじゃねえ」
「でも顔も好きだろう」
「…………ん」
訳知り顔をするメイスに苛立ちが湧いたが、しかし朝早くから大声で喚いたら彼女に届いてしまう気がしたのでりんごと一緒に飲み込んでやる。今日も朝から彼女は美しく、健康で、健全だ。それでいい。
ゲーラは芯だけ残ったりんごを屋上の床に放り投げ、そっと炎で消し飛ばした。