「辞めさせてください」
指先の震えに反してはっきりと発された声、冷え切った視線、事務所の窓から差し込む夕陽を反射するローファーの鈍い光。座っていた椅子から思わず立ち上がると、それに引っ張られるように彼女の視線も持ち上がる。ああ、そうか。独り言でも台詞でもない。今の言葉は、他の誰でもない、俺に言ったのか。
午前五時。
まるで溺れかけた動物のような反応で跳ね起きるのも、もうすっかり慣れてしまった。原因はわかりきっている。例の夢だ。回数を重ねるたびにフィルターを上乗せされて鋭さばかりが上がっていく刃物みたいな夢。夢ならよかった。手に負えないのが、あれが山本にとって現実だったことである。
山本冬樹は芸能事務所に所属している。
芸能界といっても表舞台の華々しい輝きを支える裏方で、マネジメント業務の全般を請け負っていた。今まで担当してきたタレントたちにも精一杯尽くしてきたし、彼女らが目の前の仕事に全力で取り組めるように露払いすることにもずいぶん慣れた。これまで大きく当たったタレントを輩出してはいないものの、堅実な仕事をしてきたつもりだった。
その中でも、彼女は『とくべつ』だった。
オーディションで見つけたとき、彼女は内側から光っていたから。その場の全員の目を引いた。声を聞いてみたくなった。見たことのない表情を引き出したかった。そういう魅力のある子だった。てっぺんからの景色を知ることのできる選ばれた人間を見つけたという達成感が、乾いた砂漠のような胸に熱く湧きあがった。
すべて過去形だ。
山本がだめにした。
オーディションの合格通知と引き換えに彼女の人生をもらって、貴重な三年間をまるごと使い、そして失敗した。
一人のタレントとして上手に売り込む自信はあったのに、どの番組に送り出したって響かなかった。歌わせても、踊らせても、演技をさせても、なにひとつ期待した結果は伴わなかった。
彼女の申し出は至極真っ当だった。だから引き留めきれなかった。
三年間の全部を注ぎ込んだ彼女が本物の偶像になって、ぽかんと穴が空いたようだった。スケジュール帳を開くのも億劫で、目を閉じるたびにあの夕方がまぶたの裏に再放送される。限界は三週間で訪れ、出先で昏倒した山本に突きつけられたのは「過労」と「休職」の四文字だった。
「……おえ」
休職一ヶ月目、山本は空っぽの胃を擦りながら額と膝を擦り合わせた。頭を低く下げ、冷たい朝日が差し込むカーテンの隙間から目をそらす。今日もまた何もない一日が始まる。何もない一日が終わる。日が昇って沈んで、それでも、山本冬樹は空っぽだった。
生きる気力を失っていようが休職していようが、腹は減る。
空の冷蔵庫を見て、山本は重い腰を上げて外出を決めた。元々きっちり自炊をするタイプでもないし、そういう気分でもない。買い物用のメモも作らず、財布とスマホだけをポケットにねじ込んで玄関に向かう。靴箱に並ぶいくつもの革靴を避けて、スニーカーを選んで足を突っ込んだ。いつのまにか履きつぶした革靴ばかりが増えて、ずいぶん端に追いやられている。そういえば最近はフットサルもやっていない。前はたまに学生時代の友人とグラウンドで駆け回ったりしたものだが、この三年間はそれもなかった。本当に彼女が全部だったから。
「あつ……」
扉を開けると、帯のような熱気が体に当たった。季節は初夏、夏に片足を突っ込んだ頃。買い物の前に冷たいものを飲みたい。
休日に一人でこんなカフェに来るやつなんてのは本質的に暇人か、あるいは独特の空気にコーティングされて上等な生き物になったように錯覚したいやつのどちらかに決まってんだよなあ。
山本は自宅から一番近いカフェに足を向け、予想通りの賑わいに内心で悪態をついた。
こまっしゃくれたバースツールに腰掛けてステッカーだらけのラップトップを窓の外に見せつけている『意識の高い方々』は相変わらずそういうインテリアの一種に見えるし、店先で新作フラペチーノと自撮りしてる女が居るのも最早テンプレ。店員だけでなく客側にもマニュアルがあるんじゃねえの?
自分だって客として来ておいて、と思わなくもないが、こういう系統の店やそれを好む人種が嫌いなのと店のコーヒーが好きなのは両立できる理屈だ。
「いらっしゃいませ!」
涼しい店内に足を踏み入れると、凜とした声に意識を引っ張られた。
惹き付けられる。耳障りでない歯切れ良さ、うるさくないが耳に入る程度の声量。言葉尻にストーンがキラリと光るような、ちょっとした特別感。
カウンターに目をやると、パッチリとしたネコ目と視線がぶつかった。
美人ではあるが、メイクが派手だとか奇抜な格好をしているとか、そういうことじゃない。いたって自然体なのに、ふしぎと華がある。背筋の伸びた立ち姿は堂に入っていて、しなやかな佇まいはネコ科の動物を彷彿とさせる。例えるならベンガル猫だろうか。昨日テレビ番組で見かけたあれに似ていると思った。
「ご注文はお決まりですか?」
自然な笑顔。
「ドリップコーヒー、アイス、トール。持ち帰りで」
「承知しました、トールアイスコーヒー!」
復唱の声もよく伸びる。喉を絞るような発声でなく、丁寧な腹式呼吸。劇団員だろうか? であれば姿勢のいい立ち方も発声のよさも作り慣れた笑顔にも納得がいく。いい素材だ。すこし磨けばすぐにでもカメラの前に立てるだろう。
ここまでが、コーヒーを注文してからレシートを受け取るまでの思考だ。職業病といっていい。山本はふと色濃い隈を思い出して目元を軽く擦り、促されるままに受け取りカウンターでアイスコーヒーを受け取った。
「はい、トールのアイスコーヒーです」
擬音にするなら、「ニコーッ!」という感じの笑顔だ。なのに押し売り感がない。彼女はすこし大人びた顔立ちだからそういう表情をすると結構幼く見えて、ちょっとアンバランスなところがまた可愛らしかった。
一枚ガラスを隔てた先の熱気は、涼しさを浴びてしまった後だから余計に堪えた。氷の浮いたアイスコーヒーの結露を指先で躙る。緑色のストローに口を付け、ほっとしたタイミングでカップを見ると、そこには名状しがたい何かが身を横たえていた。
「……ん?」
よくよく見ると、黒いマジックのイラストだ。いや、ニュアンス的には落書きに近いかもしれない。歪なじゃがいもの霊。そばに書かれたオーダーのメモの字は整っているから、余計に異様なオーラを放っている。
先ほどの無礼極まりない偏見に満ちた思考が伝わっていて、罰として手始めに呪われたのだろうか。そうでないなら、これはスマイルマークだと思う。おそらく、きっと。
「はは」
なぜかツボに入って、声を出して笑ってしまった。掠れている。前は喋りすぎて掠れていたのに。
もう一口コーヒーを啜って、ちらりと振り返る。カウンターの向こうで、ベンガル猫の彼女は同じように「ニコーッ!」を披露して注文を復唱していた。
その日、山本は久々に馴染みのライブハウスに足を向けた。
関係者としてではなく、客として。
「お箸お付けしますか?」
「あ」
「え?」
「……あ、いや、はい。お願いします」
普段ならコンビニのレジ先でこんなもたついたやりとりをしていたら後ろの客に睨まれそうなものだが、今は山本以外に客が居ないことが幸いした。もう日付も変わってしばらく経ったような時間帯である。少し外れた場所にある店にはひと気がない。
「温めますか?」
「はい、お願いします」
反射で答えてから、いや温めないわ、と気付く。この丑三つ時に弁当を食うやつがあるか。しかし訂正する間もなく山本の塩カルビ弁当は電子レンジに飛び込んでいった。駆動音。ああ、めちゃくちゃ温められている。
「700円でくじ引けるので、こちらから三枚どうぞ」
「あ、どうも……」
のろのろとくじを引く間に、山本の買った商品がビニール袋にのみこまれていく。ゼリー飲料、牛乳、惣菜、サラダ、チョコレート、ヨーグルト、菓子パン、その他。コンビニで買う必要のない物ばかり。寝付けなくて出てきた散歩がてらコンビニで目についたものをカゴに突っ込みました、というのがバレバレなラインナップだ。
「わ、当たり」
山本が何かを言う前に、レジ店員のほうが先に笑った。「ニコーッ!」という感じの笑顔。合わせるようになんとか作り笑いを浮かべる。
深夜のコンビニのレジに立っていても、服装やメイクが若干ラフになっているのに、ベンガル猫はやっぱりどこか上品だった。
まさか数日前のカフェ店員とこうして出くわすとは思わず、山本は勝手に気まずさを反芻している。相手はコンビニバイトとしてはありふれた格好だが、こちとら近所のコンビニだからギリギリ許されるくらいのラフさである。恥ずかしがることくらい許されてほしい。
「練乳入りいちごラテですね。商品取ってきますので少々お待ちください」
「いえ、いいです。引き換えなくて」
「そうですか? それじゃ、期間内に引換券と商品を持ってレジに」
いちごラテのパックが描かれた引換券が差し出される。見覚えのあるパッケージ。数か月前まで何度も買いに行った。他のじゃだめだ、これがいいと、言った、声、あの日の夕暮れ、再放送が。
「これ、要る?」
はた、とベンガル猫が目を丸くして山本を見た。山本も、自分の口が勝手に動いたことに呆気に取られていた。
「……いや、君みたいな子が飲みそうなやつだと思って。同じ年頃の女の子がよく買ってたもんだから」
「あは、確かに好きですけども。じゃあその子にあげたり――」
軽い口調で放られたパスを受け損ねて、表情が凍ったのがわかった。
「あーでも、くれるならほしいです。貰っていいですか?」
間髪入れず、鋭いキックが一閃。山本のこぼれ球に素早く反応した彼女は、首を傾げて表情を窺っている。聡い。頷きながら券を押し戻して、山本は少女に笑いかけた。
「悪いね、こういうの飲まないから」
「代わりにこっちあげます」
「え?」
背後で一仕事終えたレンジがけたたましい音を立てる。それに振り返りながら、彼女がエプロンのポケットから似たようなカードを一枚取り出した。
「さっき自分で買い物したときに引いたんですけど、“こういうの飲まない”んで」
するり、といちごラテ柄のカードとトレードされたのは無糖コーヒーが印刷されたカードだった。山本も飲んだことがある商品だ。結構おいしいやつ。
「でも、今日はちょっと欠品してて。また来てくださいね」
ほかほかの塩カルビ弁当を差し出したベンガル猫は、いつもの笑顔を浮かべた。
あの笑顔は、たぶん、ずるい。この時間に食べるつもりじゃなかった弁当をぺろりと平らげさせるくらいの威力がある。
山本は満腹になったことでようやく訪れた眠気の端っこを掴みながら、彼女だったらどんな舞台衣装が似合うだろうと、馬鹿みたいな夢を見ていた。
まさかその夢の答えを知る機会があるとは思いもよらなかったが。
「こんばんは! よろしくお願いします!」
新宿二丁目歌舞伎町。
不夜城の名を欲しいままにする街の一角、近くにそびえる巨大な建物に比べたらこじんまりとしたキャバクラのボックスシートで、山本は不意打ちのように「ニコーッ!」の洗礼を浴びることとなった。薄暗くていかがわしい雰囲気の室内に似合わない、明るくハキハキした笑顔だ。明らかに出力する表情を間違えている。
「どうかしたか、山本くん」
「え、あ、いえ。なんでも」
隣で怪訝そうな顔をした男に向け、さっと笑顔を作る。冬場は赤いセーターがお気に入りの小柄で丸っこいタヌキ顔の男は、山本の所属する芸能事務所での上司だ。まだ業界内では若手である山本をよく気にかけており、今日も適当な口実を使って呼び出して息抜きをさせようとしているらしい。
するり、とベンガル猫が山本の隣に滑り込むように腰を下ろした。深緑のロングドレス。肢体の曲線に沿って布地の光沢が波打っている。黙ってすまし顔のまま脚の一つでも組み替えれば、そういう趣味の男が跪きそうなオーラがあった。
ふと視線がぶつかる。
ニコーッ。
台無しだ。
「あら、今日はイケメン連れてきてくれたのねえ」
「なんか近くの、なんてったっけ、ホワイト……なんとかに客取られちゃったって言ってたろ? こいつ山本っていうんだ、優しくしてやって」
上司の隣に座った、人生の酸いも甘いも噛み分けたシャム猫のような美魔女が、意味深な流し目を送ってくる。店内の照明や座席の角度なんかを全部知り尽くして、最高の一瞬で目を合わせてくる人だ。さすがの山本も一瞬ドキリとさせられた。若い頃はさぞかし浮名を流したろう。
シャム猫が酒を作っている間、タヌキ顔の上司がベンガルを指して言う。
「そういえばその子、初めて見るね」
「たまにヘルプで来てる子なの、新人だから優しくしてやってね」
「へえ。名前は?」
「えーと……ユウガオです!」
おいおい、言い淀むなよ。源氏名くらい考えておけ。
「いいね、この時代に本当に源氏に絡めた名前の子なんて居るんだなあ」
「あ、わかっちゃいました? すぐバレちゃうなんて恥ずかしいなぁ」
「まあ、こういう仕事してるとね」
「どんなお仕事なさってるんですか?」
「芸能事務所だよ、小さいけどね」
へえ、とベンガルが山本を見上げて微笑んだ。そういう笑い方もできるのか、と感心するほど大人っぽい。
「じゃあヤマモトさんも、お仕事大変なんですね」
「ええ、まあ」
「こいつは失恋してマネ休職中なんだけどな」
「し……ちょっとッ」
「まあ、よくある話ね。マネージャーとアイドル、禁断の恋?」
「違いますって……まあ、担当してた子が辞めちゃったんで、リフレッシュ休暇中みたいなものですよ」
外野に説明するなら、それが一番近いのかもしれない。
失恋。山本は彼女という輝きに恋をしていて、そして振られた。
ここまでこっぴどい失恋は未経験だったが、確かに、結婚を考えていた恋人に浮気されて捨てられた友人のやけ酒に一晩中付き合わされたとき、彼の半狂乱っぷりといったらなかった。今ここで死ぬと言われたとしても驚かなかった。
第三者から見た自分があれだと考えると、案外納得が行く。そうか、俺はあんな感じに見えているのか。
「じゃあ、新しい恋ね」
シャム猫がウイスキーのグラスをすいと差し出した。
「恋の傷は恋で埋めるのが一番」
「お、言うねえ」
「はは、勉強になります」
「ヤマモトさん、どうぞ」
「どうも」
上司とシャム猫のなんでもない会話を聞いて相槌を打ちながら、隣のベンガルの様子を窺う。
あちこちに現れて、どれもが同じようでどれも同じでない。
この子はいったいなんなんだ?
ふと視線が絡む。
ニコーッ。
台無しだ。
「ヤマモトさん、きっと今日はゆっくり眠れますよ」
ベンガルの作ったウイスキーのロックは、少し濃かった。
四度目の再会は路端だった。
「キャンユースピークイングリッシュ!?」
「は?」
「あ、違う違う」
夏真っ盛り、体温並みの気温にのぼせそうな日々。日差しを避けながら買い物に出た山本は道の端で困った顔をした少女と吸い寄せられるように目が合った。まるで川が上から下に流れるように、定められていたお約束のように、今日ここで起こる固定イベントのように。
彼女は安心した顔で、ニコーッとした。
山本がびっくりしている間に先ほどの訳の分からない言葉を投げかけられ、気が付いたら手を引かれるまま渦中に巻き込まれていた。なんという早業。どういう仕掛けかわからない。
「あのね。この人、郵便局に行きたいらしいんだけど」
彼女の爽やかな色のネイルがスマートホンの液晶をゆっくり撫でる。
困り顔の外国人と困り顔のベンガル、似たような表情の二人が並んで山本を見上げていた。
「隣町までの道がうまく説明できなくて」
「……スマホは? グーグルマップ出せばいいでしょ」
「電池切れてるんだって」
「……じゃあ地図書いてあげれば」
「紙持ってない」
「……はい、これ」
「わあ! ありがと!」
紙とペンを渡したところで、山本の脳裏にじゃがいもの霊がよぎった。
彼女は意気揚々とペンを持ち、ぐーっと線を引いていく。この地図でいうヘアピンカーブの続く峠が目の前の国道だとすると、これを見てさ迷うことになるだろう外国人が急にかわいそうに思えた。
「ちょっと貸して」
山本はさっさと地図を完成させ、丁寧に赤い線で目的地までの順路を示してやった。これならよっぽどの方向音痴でなければ無事に郵便局にたどり着けるだろう。マネージャーをやっていく中で身についたスキルが大いに役立った。
ベンガルは最低限の情報で完結した地図を見てニコーッと大喜びし、アリガトゴザマスと唱えながら遠ざかっていく迷子の背中を山本と一緒に見送った。
「ありがとう、すごく助かった」
「喋れないなら話かけなきゃいいのに」
「だって気になっちゃったから……」
「ああそう……」
見下ろすと、彼女はショートパンツにシャツというこれ以上ないくらいラフな格好だった。今日はカフェ店員でもコンビニ店員でもキャバ嬢でもない、ただのベンガルらしい。彼女が山本を見て首を傾げる仕草があまりに無防備だったので、八つ当たりがてら大人としての忠告をする。
「キミ、なんか騙されやすそうだからそういうのやめたほうがいいよ」
「そういうの」
「ぜんぜん連絡取ってなかった同級生からあやしいサイドビジネスの誘いが来ても一応最後まで話し聞いちゃうタイプでしょ。変な動画見せられてどう思ったって言われて、当たり障りない感想言って愛想笑いすることになるよ、ぜったい」
「妙に具体的で生々しいなあ」
肩を揺らして笑う姿はあどけない。かと思えばふと大人びる。本当に妙な子だ。
「……ていうか、年下だろ。敬語」
「お友達はいいでしょ?」
「友達?」
「ん? うん。だって、もう四回目だし」
山本はまたびっくりした。気付いていたのか、というのが顔に出ていたのだろう。彼女は心外という表情をして、山本のシャツの背中を小突いた。
「あんな死にそうな顔の人、なかなか居ないよ」
ド正論である。
ひどい顔をしていた自覚はあるので、山本はそれ以上なにも言えなかった。
その日から、ベンガルは山本の年下の友達になった。
落ち着いて考えれば、客の顔を覚えていたことと友達になることは絶対イコールでないのだが、そのときの山本はまったく冷静でなかったのだろう。
「山本くん、今日ヒマ?」
「『くん』って」
「ヒマならご飯食べようよ、パスタ食べたいんだけど」
「パスタならいい店知ってるけど……」
「え、チョロいな。好きなの?」
そこで初めて聞いたベンガルの名前はもちろんユウガオではなかったが、なんだか有名人の名前を切り張りしたような響きがあった。なんとなく据わりが悪かったので、山本は内心ではこっそりベンガルと呼び続けることにした。
年下の友達は、意外にも付き合いやすかった。
彼女はよく食べ、よく話し、よく笑った。気がつけばパスタばかりになる山本の外食先に幅を持たせたのは彼女だったし、隠れ家的レストラン(山本はこの言い方が大嫌いだ)をこっそり教えてもらってお気に入りの店が増えたのも想定外の幸運だった。
また、付き合いを重ねていくうち、ベンガルは人を見るのが得意なんだろうな、とも気づいた。
そう考えた理由は簡単、山本が喋っていて楽ができるからだ。あれこれ気を回す必要がなく、脱線した話をレールに戻すのだって阿吽の呼吸でこなす。
「そういえば、山本くんカラオケとか行く?」
「接待とかでな」
「わー、合いの手名人だ。踊れる?」
「踊らねえよ。俺が踊って喜ぶお偉いさんが居ると思うか?」
「居るんじゃない? 少なくとも、私は見たいなあ」
……阿吽の呼吸でこなす。
「人ごとだと思って……じゃあお前は? 歌えて踊れんのか?」
「え?」
「人に言うんだ、そりゃ上手にやるんだろうなあ?」
「やだな、カラオケ引っ張りだこだった私に聞く? 十八番はあゆだよ?」
「お前いくつだ、俺と同世代か!?」
「ちょっと! あゆ馬鹿にしないで!」
「してねえよ!」
…………こなす。
「まあ、それはさておき」
「さておくな」
「山本くん、デザート食べてもいい?」
「それ以上食べると太るぞ。止めとけ、今がちょうどいい」
「あれっ、私マネジメントされてる?」
はっとして、山本は口につけていたコーヒーのカップを離した。
話題が切れて、ようやく周囲の喧噪が耳に入るようになる。駅ビルのレストランフロアのパスタ屋は退勤した人々でそこそこ賑わっていたのに、さっきまではまるで気にならなかった。
テーブルを挟んだ先で、ベンガルは名残惜しそうにメニューをいじっている。いつの間にか彼女がニットを着るような時期になっていた。
驚くことに、山本はその可能性に今の今まで思い至らなかった。
人の目を惹く顔立ち。通りの良い声。魅力的な笑顔。
手持ち無沙汰に手遊びする指先ですら嫋やかでいい。
「キミ、芸能界とか興味ある?」
磨けば光るのは間違いない。なんせパーカーとジーンズで突っ立っているコンビニバイトでさえ評判になるくらいの器量よしだ。先ほどの証言が事実であれば歌えもするし踊れもするらしいし。これはもしかしなくても、もしかするのでは?
しかしベンガルは微笑んで、アイスティーで唇を潤した。
「ノーコメント」
「なんで」
「友達からあやしいサイドビジネスの誘いを受けてる気がするから」
「一応話くらいは聞いちゃうタイプだったろ」
「優しい友達から、やめたほうがいいよって教えてもらったんだよ」
うん、そりゃあ、すごくいい友達だ。
山本はそれを持ち出されると弱くて、残っていたコーヒーを黙って飲み干した。
暑さが和らぐ時期、それは四半期の切り替わりの時期でもある。
事務所から定期的に送られてくる資料や業界の噂話なんかを整理しながら、山本は私用端末にメッセージが来たのに気づいた。深夜である。片手間に動画サイトで地下アイドルの映像をサーフィンしていた目がしょぼついた。
『山本くん』
『おきてる?』
短文が二つ。ベンガルからだった。
『起きてるけど、なに?』
返信は迅速にという教えが身についているせいで反射のように答えてしまう。ノータイムで既読がついた。
『迎えにきて』
『コンビニ』
山本は疲れ目を擦りながら続きを待ったが、一分待ってもそれっきりだった。
「なんで?」と打ち込んでいる間に、もうひとつ。
『だめ?』
山本はため息を吐きながら、ちょっと考え、やっぱり腰を上げた。
理由は到着してすぐにわかった。
コンビニ前で所在なさげに立っている男がちらちらと店内を窺っていたからだ。
自動ドアをくぐると、わかりやすくレジ前の笑顔が華やいだ。安心しました、という信頼が全面に出た表情。そんな顔をされたら文句も言えない。
まだ芸能誌には手が伸びなくて、週刊漫画の雑誌を手に取って時間を潰す。それでも水着ピンナップの美少女を見て所属事務所をそらで言えてしまうことに、なんとなくほっとしたりもした。
「あの!」
シフト終わり、裏口から出てきたベンガルが声の主に流し目を送った。
車止めに腰掛けていた男が早足で寄ってきたので、山本は慣れた動作で二人の間に割り込む。男はさすがに怯んだようだったので、長身とガタイの良さを存分に使いながら、畳みかけるように目を眇めた。
「なに」
低い声に身を竦ませた男は、噛みながら何やら愛称のような単語を口にした。聞き覚えがあるような、ないような。ちょっとベンガルの名前に似た音だ。
「あの、もう顔も見られないと思ってたから、嬉しくて」
「ごめんなさい、人違いです」
「でも」
「ちょっと、人違いだって言ってるんだから。こんな夜更けに女の子怖がらせて、しつこいと警察呼びますよ」
急に物騒な言葉が出てきて、今度こそ男は狼狽えたようだった。今にも泣き出しそうな顔をして、もつれる舌で「ごめんなさい」を繰り返すと、尻尾を巻いて素早く逃げていった。
は、と軽い吐息が漏れる音。見下ろすと、彼女が指先だけで山本の袖を掴んでいた。
「ごめん、山本くん。助かった」
「ああいうの、結構あるの」
「たまにね」
街灯に照らされて伸びる影が二つ並んでいる。大柄な山本と比べると、もう片方はあまりに頼りない。袖を掴んでいる手はまだ離れない。
「送る」
するりと出た言葉は、この場において正解だっただろうか。
こんな深夜にアルバイトをするだけあって、コンビニから彼女の部屋までは案外近かった。なんとなく想像していた通り、山本とはご近所さんと言って相違ない。
だが、想定外なこともひとつ。
「よかったら、お茶飲んでいく?」
広々としたエントランスの灯りを背に、ベンガルが笑った。
高層マンションの中層階。少なくともフリーターが住めるような物件じゃない。あの訳のわからない掛け持ちバイトは家賃のためなのか? そう思わせるくらい、立派な建物だった。
「いや、それは」
「ごめん、間違えた。今、ちょっとだけ、一人になりたくないのかも」
山本の手を取ったベンガルの細い指が、手の甲に浮かぶ太い血管を撫でた。びくりと腕が跳ねる。不覚。
「お前、危機管理能力がないよ」
「今の山本くんにそういう元気ないでしょ」
「ないと思うか?」
「ない」
いやに断定口調だ。見透かされている。山本だって、いくら元気でも女を無理矢理暴く趣味はない。
室内は寒々しいほど簡素だった。
無地のカーテンに最低限の家具、床に置かれた電子レンジとスカスカの冷蔵庫。
「引っ越してどれくらい?」
「十ヶ月」
二週間前に荷ほどきが終わりました、という想定解を大きく外し、山本はそれ以上の言及を止めた。ここまで生活感のない部屋は初めてだった。
「はい。夜だからハーブティーね」
差し出されたマグカップには雑にティーバッグが突っ込まれていた。いつ取り出していいのかもわからなかったので、そのまま啜る。熱い。
「最近涼しくなってきたよね、あったかい飲み物がおいしい」
「先週はナントカフラペチーノを有り難がってたくせに」
「ほら、柔軟性ってやつ」
ベンガルは両手でマグカップを包み、クッションに腰を下ろした。まだ顔色は優れない。ちらりと腕時計を見て、あと十五分したら出ようと決める。
「なんか面白い話して」
「すげー無茶ぶりだな。さすがのイチローでも捕れねえよそれは」
「イチローでもオオタニサンでもいいから」
どうあがいても引く気はないらしいと察して、山本は口を開いた。マネージャー業をしていて聞きかじった大物芸能人の伝説、煩悩……なんとかとかいう前座芸人の大失言、タヌキ顔上司の酒の失敗。あれやこれやと引き出しを覗いては話題を提供する。これはどうですか、あちらはいかがですか。まるで貴族の娘さんに品物を売り込む行商人になったような気分にさえなった。
ベンガルはその話に微笑んだり、相槌をしたり、ぼんやりと山本を眺めたりしていた。
「ねえ、山本くん」
声が溶けている。体が温まって、少しでも綻んだのだろう。
「なに、眠い? なら寝ろ、肌にも悪い」
「ありがとうね」
「それ、もういい」
「わがまま聞いてくれて、ありがとう」
こちとらわがままには慣れている。年頃の女の子の気難しさにも。
「お礼に今度しよっか」
「はいはいどうもごちそうさん」
結局山本はハーブティーを飲み残し、かなり乱暴にドアを閉めた。
それでも、ちゃんと鍵が掛かる音がするまで、その場に立っていた。
四半期が切り替わる忙しない時期がようやっと過ぎ去った。
タヌキ顔の上司が、今は新しい事務所を構える準備の真っ最中なのだとこっそり教えてくれた。まだテナント探しの段階で、候補が三つほどあるものの、現段階では世田谷の雑居ビルが一番よい、とのことだ。
「そろそろ本腰入れて、アイドル事業もやりたいし」
それは、遠回しに山本の復帰を示唆した言葉に聞こえた。
薬は飲み続けている。あの春よりずっとマシになった。まぶたの裏の再放送で跳ね起きる頻度もぐっと減ったし、少しずつ芸能記事も読む気力が湧いてきた。
復職。
半年前は考えられなかった言葉が、徐々に輪郭を持ち始めていた。
じゅう、とロースが網の上に横たわる。肉厚のカルビも隣に。
「この人、これから死にに行くんだって思った」
厚手のカーディガンの袖を捲りながら、ベンガルはカフェで初めて会ったあの日を振り返ってそう言った。自分の陣地にタン塩を扇形に並べ、つやつやの唇を満足そうに尖らせている。
「そこまで?」
「最期の一杯なのかと思って、すごく丁寧に淹れたね」
「俺は、あいつすげえ絵が下手だなと思ったけど」
「元気出ますようにって念じながら描いたのに!」
そろそろ復職を考えている、という話題を振られた彼女は目を丸くして、それから大変嬉しそうに山本の手をぶんぶん振り回した。どうやら冗談ではないらしいとわかったのだろう。満開の「ニコーッ!」を披露して、あれよあれよと大きい体を引きずって上等な焼肉屋のランチに飛び込んでしまった。
絶対に払わせない、と豪語していたが、それはプライドが傷つくので全力で阻止する予定だ。
「まあ、つまり、あのネコが福を招いたってことだ」
「は? ネコ?」
「えっ、ネコ以外の何に? 確かにちょっとキツネっぽくなっちゃったけど」
「いや、どう見たってネコでもキツネでもねえよ。よくてスマイルマーク、悪くてじゃがいもの霊だったぞ」
「じゃが……見たことあるの?」
「急に神妙な顔になるのやめろ」
ベンガルはしたり顔でサラダを頬張った。どうやら今の山本の元気はあのネコ(審議中)の効能であると信じている様子だ。変なところで調子に乗らないでほしい。
山本は何事かを言い返そうとしたが、いざ声に出そうという瞬間に思い当たる節がなくもないことに気づいてしまって、開いた口にサンチュを押し込むことで場を持たせた。幸いなことに彼女はタン塩の焼き加減に夢中だ。揺れる睫毛の影。薄いまぶたの上のアイシャドウの主張が強い。
「しょうがないから、次も私が助けてあげる」
じゅう。網の隙間に落ちる玉ねぎ。
「……いや、どこに妥協してやった感出してんだよ」
「ええ? 山本くん、支え上手の甘え下手じゃん」
じゃん。と言われても。
「大丈夫だよ。まただめになりそうになったら、私が駆けつけるから」
「急に合唱曲の歌詞みたいなこと言うな」
「わ、懐かし。支えてあげるよ、なんとかかんとか」
「うろ覚えかよ……」
アイ、ビリーブ、イン、フューチャー。
口ずさむ唇が妙に艶めいて見えて脳裏に焼き付いた。たぶん上等な肉から滴った脂のせいだ。そうに決まっている。
復職を目指す。
口に出すと現実味が湧いてきたのか、はたまた上等な焼き肉の力か、山本の生活は徐々に元通りになっていった。元々が仕事が恋人のワーカーホリック気質である。ズブズブにぬかるんでいた足元さえ落ち着けば、また忙しなく歩き始めるのに違和感はなかった。
「ええ、来月あたりから……」
すっかり体に染みついた早めの報連相を済ませると、スマホ越しの上司はやんやと声を張り、山本を労った。少し鈍感なところのある人だが、言い換えればいつでもどっしりとしていて頼りがいがあると言ってもよい。
電話口の激励に頭を下げ、山本は今さら新しいスケジュール帳を買うことを決めた。もう一月始まりのものが出回る時期になっていた。
新品のスケジュール帳に予定を書き入れた。
お気に入りの革靴のソールを修理した。
ジャケットを新調して、髪を切って、ちょっとフットサル仲間に連絡して、それから。
「じゃあ、こんな時間に散歩に来ることもなくなるのかあ」
ガムのバーコードを読み取りながらベンガルが首を振った。
深夜のコンビニは店内放送がよく響く。女子アイドルグループの計算されたユニゾンの上に、不意に鼻歌が重なった。散々聞くので嫌でも覚える、とうんざり顔をしていたのは記憶に新しい。
「不規則なのは変わらないけどな」
「それもそうか。お弁当温めますか?」
「あ、お願いします」
慣れた様子で弁当を電子レンジに突っ込む生白い手。
「体に気をつけて、野菜も残さず食べるんだよ」
「お前は俺のおばあちゃんか?」
「年上の孫かあ……」
「なんでまんざらでもないって顔すんの」
唸る電子レンジの音を背景に交錯する視線。こんな時間なのに気合いの入ったカーブを保った睫毛がぱちりと瞬いて、ネコ目がニコーッと弧を描いた。
「山本くん、手え貸して」
「変なことするなよ」
「元気の出るおまじないだよ」
山本はなんの警戒もなく利き手を差し出してから、瞬時に後悔した。彼女がごんぶとマジックのキャップを取ったのが見えたからだった。
「ちょっと」
制止は間に合わなかった。不要なくらい力強く引かれる線、ペン先が皮膚にめり込む感覚。真剣な眼差しは山本の手の甲だけに注がれている。
歪んだ輪郭。皮膚にインクが滲んで、出来はぐずぐず。
でも、山本はもうこれがじゃがいもの霊でないことを知っている。
「……お前これ油性じゃねえか」
「クレンジングで落ちるよ」
レンジがひと仕事終えましたよ、と一声。満足そうな彼女が、いつかの再放送のようにほかほかの塩カルビ弁当を差し出した。
山本は黙ってそれを受け取る。家にクレンジングオイルなんてないことはわかっていたが、もう何も買い足すことはしなかった。
世田谷のテナントはタッチの差で借りられてしまったらしい。
「はい、次は西大井の三階と、あと上目黒の六階。上目黒のほうはちょうどよさそうですね、ぜひ内見させてください」
風が冷たくなってきたのは、利き手の甲を隠すのに幸いした。太いペンでしっかり施されたおまじないは未だにうっすらと形を残している。薄くなったことによって逆に凄みが増した気さえした。
山本は通話を切り、日の落ちるビル街の影を見た。ビルの根元あたりで輝く太陽が眩しければ眩しいほど、谷間の闇は色濃く口を開いている。目に痛いコントラストに、思わず目を眇めた。
明日の予定もできたことだし、もう今日は退散しよう。これから夜を迎える渋谷の喧噪を逆走して、山本は駅前の芸術的なスクランブル交差点の雑踏に飲み込まれていく。
『渋谷の皆さん、こんばんは!』
その足を、縫い止められた。
『……二夜連続でお送りします、本格派サスペンスです』
思わずたたらを踏んだ。心臓が早鐘を打つ。目眩。吐き気。
ま行の発音が特徴的な甘い声。笑ったときの語尾の上がり方。
知っている。
この声を、山本冬樹は知っている。
山本は汗が背中を伝うのを感じながら、半ば無意識に空を仰いだ。
渋谷駅前大型ビジョン。煌々と輝くLEDパネル。
『ぜひよろしくお願いします!』
――辞めさせてください。
耳の奥で、画面で笑った『彼女』が言った。
半ばこじ開けるようにした扉の先、彼女は幽霊でも見たような顔をした。
強盗じみた動きで細腕を捕らえ、身動きを封じる。
「山本く」
「俺が」
全身が震えるほど冷たいのに汗が止まらない。いま立っているのかどうかも定かじゃない。どうやってここまで来たのかもわからない。どうしてここに居るのかも。
「失敗した」
「山本くん」
「わかってた、わかってたのに、俺は」
『彼女』は一人で輝ける子だった。
その輝きは確かに目を見張るものだったが、芸能界というジュエリーボックスに落としてしまえばすぐに紛れてしまう一粒だった。荒削りの原石。ルースの限界。
「俺のだったのに…………」
醜い本音が止める間もなくこぼれ落ちた。
売り方を間違えた。それを理解できなかった。山本はそうやって見限られて、慧眼を持った彼女は山本でない誰かに『てっぺん』まで誘われていった。
力の加減ができないせいで、肩を掴む掌に華奢な骨の感触がくっきりとある。痛いだろうに、彼女は健気に唇を閉じたまま、じっと腕の中で黙っている。
膝が震え、気力が途切れた。玄関先、彼女を巻き込むように崩れて膝をつく。抱き込んだ体温ばかりが鮮烈に熱かった。
「なあ」
悪い考えが首を擡げた。
「俺と一緒に、芸能界行かないか。お前ならやれるよ、俺が死んでもお前を上に連れて行く。てっぺんからの景色を見せてやれる」
「山本くん」
「今度新しく事務所を構えるんだ、所属第一号として全力でサポートするよ。約束する」
「山本くん」
「だから断るなよ、お前が、お前にまで、俺は」
逃げ道を乱暴に塞いで、凶暴な感情が牙を剥く。
懇願の隙間で、静かな声が山本を呼んでいる。ひび割れた傷に塗り込まれる薬のような声。抱き潰された格好で、今、あの手が男の背を撫でている。
「ごめんね」
息が止まる。思考が鈍る。今ここでこいつを殺しても文句は言われないだろうと思った。
かっとなって彼女の肩を引き剥がすと、凪いだ目に射竦められた。
「私は一緒に行けない」
それは、まるで告解のような響きだった。
本名を少しもじった芸名にしようと言ったのは母親だった。
典型的なステージママだった。
彼女の言うことがたった一つの正解だと教え込まれ、物心つく頃にはあちこちのオーディションに連れ出されては意味もわからない台詞を唱え続けていた。
「あなたはそういうのが似合うの」
好きな色も好きな服も好きな音楽もわからない。
言われるがまま黒髪を伸ばして、毎日面倒な手入れを欠かさなかった。日焼けなんてした日には目をつり上げて散々叱られたので、日傘を手放すことが怖かった。
「どうしてうまくできないの? もっときちんと台詞を言って。あの子たちよりお芝居上手にならなきゃ。下手な子は二度と使ってもらえないんだから」
泣きながら諳んじた外郎売りは、今でも脳裏にこびりついている。
「CM出演、子ども服モデル、単発ドラマの端役。求められるまま、与えられるままやってきた。ずっと、ずっと」
微笑んでいるこの女は誰だろう。
押さえつけていた手から力が抜け、なだらかな曲線を描くまろい肩から滑り落ちた。
「やりたくてやってたつもりだったけど、思い返してみればそうでもなかったみたい。夢を見続けるには長すぎて、気づかずにいられるほど子どもでもなくなっちゃった」
フローリングに垂れた腕を拾って、握る手がある。細い指だ、山本ならへし折れる。だというのに、逆らえない力があった。
「居るよ。中途半端に磨かれて光ってるように見えるまがい物じゃなくて、本当にきれいな宝石みたいな子。そういう子を見つけてあげてよ、山本くんならできるよ。だって」
「……」
「だって、私を見つけてくれたでしょ」
下がった視線の中、利き手の甲に切れかけの魔法が、それでもまだそこにある。
衣擦れの音がして、山本の視界が暗くなった。頭を抱かれて耳が擦れ合う。もうこれ以上くっつかないと思うのに、彼女は山本の背を求めるように引っかいた。
そのまま、二人でもつれ合いながら床で夜を明かした。
翌朝あちこちが痛んだが、その代わり、殺意も絶望も、もうどこにもありはしなかった。
上目黒の六階はいい場所だった。
一階に飲み屋のテナントがあるくせに人通りが少ないので、経営は大丈夫なんだろうかとちょっと心配になったくらいだ。まあ事務所であれば、騒がしいよりはいい。穏やかな顔をした不動産屋の強い推しもあって、その場での決断はしなかったものの、ここが新しいスタート地点になるだろうという確信があった。
背伸びをすると、背中の変なところが悲鳴を上げた。
「起きられそう?」
マスカラもアイシャドウもない、いつもよりシンプルな顔をしたベンガルが、山本の目をのぞき込むように笑っている。
カーテンの隙間から射す光が、床に広がった彼女の髪に当たってキラキラ輝いている。まだ朝になりきらない時間帯だろう。殺風景で寒々しい白い壁が鋭い角度の朝陽に照らされていた。
「シャワー浴びる?」
「……怒らないのか」
「怒ってほしいなら怒るけど」
こういう変に感覚が鈍いところは、思春期を特殊な環境で過ごした弊害なのだろうか。それとも単にこの女の生まれ持った悪いところだろうか。普通の人間であれば急に押しかけてきた男をあやしながら一晩固い床に転がることを余儀なくされれば、たぶん力いっぱい殴っても許される。
「あ。じゃあ私が先にシャワー浴びるから、その間に帰ってもいいよ」
「訳がわからない」
「気まずいかと思って」
「お前」
山本はのろのろ起き上がって、軋む足腰に呻いた。床で寝るなんて久々だった。それはたぶん彼女も同じだろうに、ベンガルはしなやかな動きで体を起こすと、悠々と体を伸ばした。やっぱりベンガル猫だな、と現実逃避が進む。
「あのね、山本くん」
クリアケースからタオルを探しながら、ベンガルはのんびりとした口調で話す。本当にシャワーを浴びるつもりらしい。
「私、山本くんが眩しいよ」
はっとして顔を上げたが、視線は合わない。
「私が手放したものを手放すまいとする、それが眩しい」
「……お前」
「勝手なのはお互い様。私が勝手に山本くんに期待してるだけ」
まるでドラマのワンシーンのようだった。これから死にに行くんじゃないかと思うくらい起伏のない一瞬だった。
だから、山本は大股でにじり寄り、まだタオルを見つけられない女の華奢な手首を握り込んだ。
「俺は、辞めない」
口に出すことで退路をなくす。これは宣誓だった。
彼女はこぼれ落ちるんじゃないかと思うくらい瞠目して、それから、「ニコーッ!」と笑った。
その場をキスのひとつで済ませたのは、とても偉かった。
「週末にでも、整理しに来ないとな」
トントン、と腰を叩きながら、山本は大きく息を吸い込み、胸を膨らませた。
この上目黒六階の事務所から始まる。平坦な道ではないだろうが、今なら何だってやってみせる。まだ見ぬスターをこの手で押し上げる。その日が来たら、きっとあの笑顔も、ずっと同じようにあり続けるに違いない。
そう信じていた。
これから人生でも最悪の貧乏くじを引かされ、社会のクズどもと一蓮托生、地獄に繋がる道を歩まされるなんて、知らなかったからだった。
上目黒の事務所に、金剛石がやってきた。
「別れてほしい」
あの日と同じく、油断しきった格好をした彼女は目を丸くした。玄関先でするには重苦しい話だったが、これ以上は彼女に近づけない。足は動かなかった。
「急だね」
「悪いと思ってる」
「何かあった?」
「金剛石を見つけたんだ」
突拍子もない例えに彼女は当然きょとんとしたが、すぐに察したのか、ゆるりと目を細めた。
「そっか」
「今度は三人組にする予定で、センターに」
「可能性感じた?」
「ああ、すごく。オーディションから態度悪くて、若干キレ気味で、なのに、ふしぎと目が離せない」
「うん」
「あの子らをてっぺんに連れて行く」
うん、と優しい頷き。いつの間にか彼女がすぐそばに寄ってきていて、そっと手を取られた。もう山本の手の甲に魔法はかかっていない。
「名前決まってるの?」
「『ミステリーキッス』」
「覚えた。私、ミステリーキッスに振られるんだね」
意外なくらいさっぱりとした口ぶりだった。こんなに罪悪感を覚えている山本のほうがおかしいのかもしれない、と誤認させられそうになって、ぎゅうと掌を握りしめて爪を立てることで正気を保つ。
くい、と腕が引かれた。玄関先に突っ立っていた山本が一歩踏み出す。
「じゃあ今日まで一緒に居ようよ、記念に」
「なんの」
「ミステリーキッスの始まり」
彼女は穏やかに微笑んだ。
その日、二人で汗だくになって絡まりながら眠ったベッドは狭かったが、ぬくくて、幸せだった。
――今さらこんなことを思い出しているのは、それ以来ずっと動かし続けていた足を止めたからだろうか。
山本は無機質な部屋のパイプ椅子に腰掛け、瞬きもせずに床のタイルを眺めている。真冬の面会室は冷え冷えとしていて、体は芯から凍えている。部屋の隅の警察官が痰の絡んだ咳をした。
山本の夢は終わった。
どこから間違っていたのかもわからない、長くて短い夢だった。
タクシーの運転手を殺せなかった夜から?
三矢ユキの死体を解体したあの日から?
上目黒の六階でヤノと関口に出くわしたときから?
どこで掛け違えたのかもわからないボタンを探して、山本はぼんやり俯いている。今日もまた何もない一日が始まる。何もない一日が終わる。日が昇って沈んで、それでも、山本冬樹は空っぽだった。
部屋と同じくらい冷え切った声が時間を告げて、扉が開かれた。今日はこれで三度目の面会だ。ゴシップ誌の記者、三矢ユキの父親、それから。
真っ先に目に入ったのは、軽やかに扉の間から滑り込んできた足元だった。
「この前ネットで知り合った友達と、面会できる推しって貴重ですよねって話をしたんだ。確かにって思ったよ」
懐かしい声。
反射的に顔を上げると、面会室のやけに眩しい蛍光灯に照らされ、立っている人影の顔がすぐには見えなかった。思わず眉根を寄せる。
徐々に目が慣れ、おぼろげだった輪郭が像を結ぶ。
「駆けつけちゃった」
ピースサインを頬にくっつけたネコ目の女は、「ニコーッ!」と笑った。
山本冬樹は冷え切った掌で顔を覆い、背中を丸め、のどをぐうと鳴らした。