知らぬは


「おれはもうだめだ」

「だめじゃないよ、大丈夫」

「だいじょうぶじゃない」

「平気だよ、なんにも心配することないよ」

 落ち着いたジャズの流れるバーに、扇風機の前のアイス並みにぐずぐずに溶けて泣き言をもらす男がひとり。その男に水を差し出す女がひとり。二人を隔てるカウンターは磨きこまれたオーク材で、とろりとした飴色が吊られた灯りを鈍く写し取る。

「ほら、水飲んで。オレンジも食べていいから」

「ひえてるやつか」

「冷えてるよ、どっちも」

 ペティナイフで切り落としたオレンジを適当に盛って水の横に添えてやると、突っ伏していた男がのっそり顔を上げた。白煙をまとうほど冷えたデザートグラスに、瑞々しいオレンジが眩しい。

 男の頬は赤い。呼気はアルコールで湿り、思考もでろでろに絡まっている。バーテン相手にくだを巻く客なんぞ碌でもないに決まっているが、男ももれなくその内の一人だった。

 そもそも、男と女の出会いも、そりゃあ人に話せないほど情けないものである。

 自分に自信を持って格好つけて生きている男は、その日気まぐれに通った横道で、どことなく洒落たバーを見つけた。それは派手にネオンで主張することも、道行く人に食らいつく勢いで客引きをすることもなく、ただひっそりと建っていた。その雰囲気に妙に惹かれて――ついでにバーで飲むという行為に強烈に憧れて――男は意気揚々とバーに足を踏み入れ、そして、見事に酔いつぶれた。

「お兄さん。大丈夫?」

「ら、らいじょうぶ、らいじょうぶら」

「飲みやすいからってぐいぐい行きすぎだって言ったのに」

 男の失敗は、聞きかじった知識でなんとなく格好のつきそうなカクテルを適当に頼んだこと、そのカクテルのグラスの飲み口に塩がついていたのに露骨に驚いてしまったこと、それとそれをなかったことにするため「いや知ってましたよ、こういうお酒だって知ってましたよ」みたいな顔をして同じカクテルを何杯もお代わりしてしまったことだろうか。

 フルーツで飲み口が爽やかな割にアルコール度数の高いカクテルを景気よく飲み干した男は自信満々にニヒルっぽい笑みを浮かべていた口を徐々に歪ませ、とうとうオーク材のカウンターに額をくっつけてしまったところで水を差し出したのが彼女だった。

「立てます?」

「らい、らいじょう……おえ」

「あら」

 その夜、男は記憶を失くしたいくらいの大失態を犯して、女が呼んでくれたタクシーで兄弟の待つ家に放り込まれた。柔軟剤のいい匂いのする借り物のタオルと、ぐわんぐわん回る世界と、野口さんが一人だけ減った財布。今でも思い出しては死にそうになる悪い記憶は失くせなかったが、そのおかげで彼女と逢瀬を重ねられているのだから、とは男の胸裏である。

 後日、男が借り物のタオルを念入りに洗濯したうえにお詫びにと奮発した花束を添えて店の扉をくぐったとき、女は相変わらずカウンターの向こう側で凛とした立ち姿で笑っていた。そこで先日の失態を取り戻すくらいスマートにバラを差し出そうとしたところ、「お忘れ物ですよ」とスマートにサングラスを差し出されてしまい、出鼻を挫かれたうえに思わず口にしたのが「どーもすみません」な時点で、キマるものもキマらない。

 そういう経緯があって、男にとってこのバーは格好いい自分ではいられない、気を張れない場所になってしまった。ここで男はいつもカウンターに座り、気を緩ませ、肩肘張らないひとりのだめ人間に戻る。

「じゃ、あ、じゃあ、おれ、カッコいいか」

「格好いいよ。そのジャケットもいい」

「ほかには」

「凛々しい目つきとかワイルド」

「もっと」

「バックルのドクロが危険な感じ」

「もっと」

「花束が似合うわ」

「つぎはもってきてやる」

「ありがとう」

 冷えたオレンジを噛みしめ、溢れそうな果汁を味わってから、男はもう一度、まるで確認作業のように聞き直す。「かっこいい?」「格好いいよ」女は嫌な顔せず、望んだ答えを返してくれる。

「あそこの客より?」

 男がのろのろ指差した先には、街を歩けば八割が目で追ってしまうだろう美貌の男。

「ううん。消防車と変身ヒーローを比べるようなものだね」

「難しい話か」

「どっちも“かっこいい”って話」

 女は軽やかに笑って、男の食べ終わったオレンジの皿を引き取る。

「今日はそろそろお開きにして、また明日がんばって」

「おう……」

「大丈夫。格好いいよ」

 今日は正体を失うこともなく、比較的しっかりとした足取りの男は、今宵の飲食代には足りないくらいのお札と小銭を置いて、ゆらゆら出口に向かう。サングラスをしっかりジャケットに引っ掛ける程度の余裕さえあった。

「また来る」

「じゃあ、また今度」

 いつ、だとか、何時、だとか。具体的なことは決して言わない。ぼんやりと輪郭のないつながりだったが、その“今度”が近いうちに来ることを、お互い知っていた。

 男がこの店に来るのは自信を失くしたときだと気付いたのは、いつだったか。だから女はべこべこに凹んだ男に向けて男が望む言葉をかけたし、それが明日からの男の無駄に格好つけるキザったらしい素振りの源になっていると思うと、どうにも構うのを止められない。

 扉の閉まる直前、男が振り返った。

 凛々しい印象のある目元をアルコールで緩ませ、目じりを下げて笑った。

 先日整備したばかりのドアクローザーのおかげで、扉は音もなくゆるやかに閉まった。穏やかなジャズと、和やかな笑い声が耳に戻ってくる。女は先ほどまで男を男の望む言葉で褒めていた口で微笑み、呟いた。

「かわいいなあ」