このところ月が沈む頃に寝て朝日が昇る頃に起きるような生活を続けていたものだから、仮眠が上手くなったのだと思っていた。
寝台の上でのっそり起き上がった男は、視界を覆う髪もそのままにぼうっとしていた。
男の名は聞仲。大陸の大帝国・殷の軍師を務める聞仲といえば、音に聞こえる指折りの道士である。はて、道士とは? 殷の栄える当代において、とある生命パワーを極めることで不老の力をも得た者たち、それが道士である。つまり百年をほんのひと時と感じられる程度の長寿や超常の力を持つ存在であるが、もちろん誰しもがなれるものではない。仙人骨の有無という生まれ持った身体的資質によって、割と非情に道は振り分けられてしまう。
しかし、この聞仲という男はそれを覆した。血反吐を吐き自分を殺すほどの努力、この世の苦しみを集めた澱みで身を染めるような所業によって、持たざる者だった聞仲は道士となり、この世に七つしかない宝貝を従えることすら成し遂げてみせた。もはや聞仲が二百年前にはただの一兵士でしかなかったことを笑うものはない。もはや常軌を逸した彼の原動力はただ一つ、『愛する殷の繁栄のために』。
殷のために生きて殷のために尽くす。それを至上の喜びとする聞仲にとって、休息などは二の次だ。人としての根源的な欲求が極限までそぎ落とされたかのような生活の中で、食事も睡眠も最低限を義務的に摂取するだけ。娯楽に興じることも少ない。兵の鍛錬に法整備、皇帝への教育と稽古に城内の不穏分子の排除、殷に仇なす妖怪仙人の討伐、城内で噂される謎の人影。市政の様子を窺い、諸外国への牽制も忘れない。目を光らせる場所は山ほどあった。
だからこそ、聞仲は最低限の睡眠で活動できるように自分を鍛えた。思考能力が落ちれば効率も落ちるのは聞仲も理解するところだから、道士となってから多少の無茶を耐えるようになった体の限界を探り、その縁を歩くような生活をしている。
そうして、三時間後に起こせと言った三時間後ぴったりに目が覚めるようになったのは、ここひと月のことだろうか。聞仲はそう思ったが、道士の時間の感覚は狂っているので実際は一年が経っていることに気づかない。
聞仲の執務室の奥、質素に設えられた仮眠室の戸が控えめに叩かれた。「聞仲様、三時間経ちましたが」張奎だ。
「ああ、起きている」
「さすが聞仲さま。少しでもお休みになれましたか?」
「頭は冴えた、続きを片づけなければな」
「すごいなあ……さすが噂の香ですね。よければ今度、教えてください」
戸を開いて寝起きの茶と果物を持って入って来た張奎は、まだ幼い顔を綻ばせた。張奎は聞仲を心から慕ってくれる優秀な道士で、聞仲もまた彼を腹心だと思っており、近いうちにどこか都・朝歌ではなく別の城を任せようと思っている。信頼に足る人物だ。
だからこそ聞仲は彼の無邪気な一言を流しかけて、些細な違和感に首を傾げた。
「あっ、呼び出しがあったのでお先に失礼します!」
張奎はしゃんと背を伸ばしてから一礼し、さっと駆けて行ってしまった。彼もまた聞仲のせいで労働と休息の基準が乱れている一人である。さて、残された聞仲といえば湯気をあげる茶器と瑞々しい果物を前に、掴んだ違和感をこぼした。
「……香?」
この一言が聞仲のこの先百年を変えるきっかけになるなんて、この時の誰もが知らないことである。
曰く、道士・聞仲の無茶な生活は、その“香”によって支えられているらしい。
甘く爽やかなその香は、短時間の睡眠で体を癒し、気分を高揚させ、身体の傷さえ治してみせるという。宝貝ではないかとの噂もあったが、聞仲の宝貝が禁鞭ひとつなのは周知の事実であるのでその説はすぐさま消えていったようだった。
ちょうど一年ほど前から噂はまことしやかに拡散され、もはや城内で知らない者は聞仲ぐらいのものだったらしい。隠し事は人を結託させる。聞仲は張奎が口の端を引きつらせてぎこちない笑みを浮かべているのを見ながら、それを学んだ。
「では、その、聞仲様は何の力も使わずにあの生活を」
「お前も道士だ、この身体が多少の無茶ぐらい通せるのは知っていよう」
「いえ、多少の域は超えているかと……しかし、そのような効能はなくとも香は焚いているのでは?」
「私に香の趣味はない」
「でも、仮眠室に甘い香りが」
張奎が口をつぐんだ。聞仲の眉間が深い皺を刻んだのを見て、咄嗟のことだった。
「香など焚いていない。お前が持ってきてくれる果物の香りじゃないか」
「いえ、確かに果物のような香りなのですが……なんというか、別物で。鼻を掠めるだけでかの噂を信じさせるような、心の安らぐふしぎな香りです」
聞仲は首を傾げた。張奎も首を傾げる。
これでは埒が明かない。聞仲はこの話を打ち切り、噂はでたらめであると張奎に念押しして、もう一つの『噂』に水を向けた。
「城内の不審な人影、白い女だったか。何か動きはあったか」
大帝国・殷の皇帝の住まう城内に、不審な人影が見られるようになったのはここ数か月の話である。最初は誰かの衣が人影に見えたのではないか、月影が人の形に見えたのだろうと笑い話であったのが、とうとう目撃者が両手の指を超えたので侵入者騒ぎとして表面化したのだ。
“白い女”――決まって月の美しい夜にだけ現れる、目撃者の誰もが遠目でしか見たことのない謎の侵入者である。
「昨夜も明け方に回廊を歩いているのを目撃されています。声をかけるため近寄ろうとしたところ、柱に紛れた一瞬で姿を消したとか」
「妾の誰でもないな。仙女か、妖怪か。いずれにせよ、放ってはおけん」
「今宵は満月。また現れるでしょうか」
「そのつもりで警備にあたるよう、衛兵に伝えねばな」
心得たと指示を出すために駆けていく張奎に背を向けて、聞仲は廊下を進む。今日はこれから皇帝と手合せだ。当代の皇帝は勉学より鍛錬を好む性質で、柔らかい体で振るわれる剣の鋭さは中々心地よいものがある。
今日の手合せの後には、また座学への意欲を高めてやらねば。ああ、先代は室内で勉学ばかりする人だったというのに、親子でどうしてこうも違うのか。勇ましい英雄譚と殷の発展を語り、彼もまたその礎となるのだと自覚を促してやろう。なんだかんだと言いつつ皇帝の自覚が芽生え始めたお方だ、二十年もすれば賢帝となるだろう。
聞仲の足取りは軽く、眉間の皺も今はない。
夜が更けていく。
聞仲は目の霞みに集中力を切られ、思い出したように深く呼吸をした。外は明るいが、もはやたっぷり太った月は中天を過ぎており、彼が思っていた以上の時間が過ぎている。
「……休まねば」
慣れ親しんだ体の限界値が近いのは感覚でわかる。気だるく重い体を引き上げるように腰を上げ、奥の仮眠室へ足を向ける。戸に手を掛けたところで、ふと張奎の話を思い出した。
香、謎の甘い香り。聞仲の体を気遣う部下の誰かが黙って差し入れていた何かだろうかとも思ったが、そもそも聞仲自身そんなものに気づかないほど鈍くはない。自覚がなかったからこそ、こんなにも居心地が悪い。
寝台に身を投げ、目を閉じる。満月のせいか、なんとなく空気に力が満ちているような気がする。無機物でさえ太陽と月――自然の光を浴び続ければ生命を宿し、いずれ仙人にも至るというのだから原初の力というのは恐ろしい。
そういえば、仮眠を取るのが上手くなってから寝付きもよくなった。今だって横になってからほんの三呼吸だというのに、頭に靄がかかったように意識が遠のいている。さら、と衣擦れの音。目を開く。
「――――」
非常に希薄な気配。
見慣れぬ白い影が、傍にある。
聞仲は目を見開き、被っていた布を跳ねのけて飛び起きた。寝台に忍ばせておいた短刀を抜き、目の前の気配に突き付ける。陰りのない月光は、そこに立つ侵入者の姿を露わにした。
女だ。質素で飾りのない最低限の衣服を身に着けた、白い女。背に垂らされた髪は月光を受けて光沢の輪を作り、驚いたように丸く開かれた瞳は透き通るように美しい色をしている。大層な美姫だが、見覚えのない顔だ。
「何者だ、なぜここに居る」
なぜか頭が重い。女はふしぎそうに首を傾げるだけで、何も言わない。なぜか視界が霞む。女はゆったり微笑んで、寝台で片膝を立てて警戒している聞仲に一歩近寄った。なぜか手元がおぼつかない。
女がそっと手を伸ばしたところで、聞仲は短刀を振るい上げた。
「!」
女が息をのんだ。聞仲が振り下ろした短刀が深々と肉に刺さる音。
「――妖術使いか、その程度で私を欺こうなどと!」
聞仲の太腿から血が噴き出す。痛みで冴えわたった視界、先ほどまで鈍っていたすべての感覚を取り戻すやいなや女を引き倒し、引き抜いた血まみれの短刀を女の細首に構えた。捻りあげた手首は華奢で、嫋やかな指先が戸惑うように宙を掻いた。
「どこの手の者だ、どうやってここまで来た」
そこまで問うたところで、聞仲は女の正体に当たりを付ける。西岐か、北の大諸侯か。皇帝ではなく聞仲を狙ってきたところが妙に賢しく、気に食わない。だがそれこそ命取りだ、と依然口を開かない女へのしかかる。
揺らめく瞳から、一筋の涙が落ちた。
「私に泣き落としは通用せん。情に訴えるなど時間の無駄だぞ」
ここまでこの女、悲鳴ひとつ上げやしない。よもや口の利けぬ者ではないかと思う。密偵や暗殺者の喉を潰し、捕縛されたときに情報を吐かせないようにする輩も居る。では恐らく字も書けず、聞仲を陥れるための引き放たれた矢として使い捨てられた哀れな女なのだろう。
ならばいっそここで死なせてやるのがいい。聞仲は女の柔肌にそっと刃先を食いこませた。
直後、女から滴り落ちる液体が、血の色をしていないことに気づいてぎょっとした。
「な――」
女は傷つけられたというのに抵抗してもがくこともせず、ただ首の傷と聞仲を交互に気にするそぶりを見せるだけだった。首の傷から滴るのは、無色透明の液体。頭の芯が痺れるような甘い香り。覚えのある匂いだ、これは――。
「――仙桃か? まさか、お前」
聞仲の力が弱まった隙をついて、女がさっと腕から逃れた。そうして少し幼いが婀娜っぽい見た目とは裏腹の剛力で短刀を奪うと、反応が鈍い聞仲が止める間もなく、女は自らの腕へと振り下ろした。首の傷とは比べものにならないほどの液体が噴きだす。
ためらいない行動の意図が読めない聞仲へ――否、今も出血の止まらない太腿の刺し傷へ、滴った雫が注がれた。
「何を」
女は微笑んで、まだ足りないとばかりに腕をもう一筋切りつけた。甘い香りがより一層強まる。
ただの水を酒に変える力を持つ、仙人界で貴重品とされる『仙桃』。破邪の力を持つとされる桃が仙人界の環境によって力を帯びた食べ物だが、この女はその仙桃で作られた上質の酒を体液としている。
聞仲は傷の変化に気づいた。女から滴る体液を浴びた傷の痛みが徐々に引いている。深く刺し貫いたはずの傷が、少しずつ塞がりはじめていた。
「なぜ」
女は答えない。ただ滴る液体をすべて聞仲に捧げるように、健気に腕を支えたまま微笑んでいる。邪気も策謀も悪意も何もない、ただ澄み切った水面のように穏やかで凪いだ目が聞仲だけを見ていた。
聞仲には珍しく言葉を失っていると、ふと女が視線を彷徨わせた。窓を背にした聞仲の影が長く伸びていく。陽が昇っているのだ。
女は握っていた短刀を離し、斬りつけた腕を押さえながら一歩引いた。聞仲が目いっぱい腕を伸ばしても届かない絶妙の距離感。待て、と声を張り上げる前に、女は目を伏せ、ふっとその姿を消してしまった。
残されたのは聞仲と荒れた室内、鮮血と酒で濡れた寝台と、先ほどまで血の噴き出ていたはずの傷だけ。
「……塞がっている」
服の上からなぞった血塗れた傷は、薄く痕を残すばかりになっている。
おそらく、あれは人ではない。
あれは妖蘖。ただのモノが千年の太陽と月とを浴びて生き物となり、人間体を取るようになったそれだ。
元となっているのは仙桃――元より仙人界の力を帯びたものが成長したのだから、そこらにうろついている輩よりは立派な力を持っている妖蘖だろう。しかし月の力がなくなった瞬間に掻き消えてしまったのだから妖怪仙人には至っていない未熟者だ。
何をしに聞仲の元へ現れたのかは不明だが、良からぬことを考えてのものではないだろう、とは直感だった。数々の謀を前に勝利してきた聞仲だが、どんなに取り繕った者でもあんな目はできない。水に一滴の墨を垂らすほどの悪しきものすらない幼子のような目だった。
女が消えてからの聞仲の行動は素早く、張奎に気づかれない内に部屋の惨状を整え、窓を開いてたち込める血と酒の匂いを逃がした。服を整え、寝付けなかった疲労をおくびにも出さずに『平時の大師・聞仲』を取り繕う。だから仮眠室を抜け、執務室から出たところで果物を手にした張奎と鉢合わせたときも落ち着いた顔ができた。
「あ、聞仲さま。おはようございます」
「ああ」
「そうだ、昨夜ですが――例の白い女は城内のどこでも目撃されていないとのことです。あんな見事な満月の夜だというのに、兵たちもふしぎに思っています」
「ああ……」
それは、きっと聞仲の部屋に居たからだ。月夜の晩にのみ現れる白い女。煙のようにかききえる謎の女。きっと満月の力で月夜だけ歩き回ることができ、力が尽きる頃に姿を消してしまうせいで妙な噂に発展している。ではなぜ昨夜はここへ?
「あれ、聞仲さま」
張奎がスンと鼻を鳴らした。
「甘い香りが。なんだかいつもより濃いですが、昨夜も何かお試しになられたんですか? ……あ! いえ! “噂はでたらめ”でしたね、なんでもありません!」
すべてが繋がる。
「お前だったのか」
次の夜も、寝る素振りを見せれば女はあっさり姿を見せた。寝台の側に近寄ってきたところで腕を掴んで引き寄せ、しかし昨夜のように組み伏せはせずに座らせる。掴んだ腕をちらりと窺えば、きめ細やかな肌に二本の赤い線が刻まれている。薄皮が繋がって塞がってはいるものの、なかったことにはならないようだ。
状況が飲みこめていないのか、聞仲の青い目を覗き込んでは枕へ誘おうとする女はおっとり微笑んでいる。
「私を眠らせていたな」
女は鷹揚に頷く。
「なぜだ」
女は笑っている。
口が利けないのだから、質問で尋ねてはいけないのだ。聞仲は溜息を吐いて、単純な問いを並べ立てた。
「お前は仙桃の妖蘖か」
頷き。
「ここ数年で顕現したのか」
またもや頷き。
「この力を使って私を眠らせ、何かしたか」
首を横に振る。
「殷に害を加えるか」
女は目を丸くして、瞬きをした。美しい色の瞳が、疑問を訴えているように見える。
「――殷が何か分かるか?」
女は逡巡ののち、眉を下げて、また首を横に振った。
聞仲は考えることをやめた。
顕現して数年しか経たぬ子どものような妖蘖相手に、ましてや殷のことすら知らぬとなれば警戒とは別の感情さえ湧き上がる。
「殷とは、お前の居るこの国だ。この大陸だ。この世の全てだ」
我が子、我が母。我が全て。聞仲の全てが殷だ。
滔々と説いてやれば、女は目を瞬かせ、頬を緩めた。果たして理解できているのか定かでないが、殷が聞仲にとってとてつもない意味を持つものだということは伝わったのだろう。
「では、お前はもう――」
ここへは来るな、どこへなりとも行くがいい。そう伝えようとして、一閃、聞仲は枕にびたんと沈められた。抵抗しようにも昨夜の短刀を奪い取った剛力で力強く、しかし優しく押さえつけられていた。聞仲が目を白黒させていると、女の白皙の美貌がすぐ傍に寄せられる。
そっと白魚の手が聞仲の髪を避けた。月光を受けて、水面のように凪いだ瞳を縁どるけぶるようなまつげが煌めく。
金の髪を撫でられ、聞仲の頭がじんと痺れる。体の根幹に訴えかける、この女の得意技だ。
慈しみと親愛と、優しくて柔らかくて甘いもの、そういうものと一緒に真綿で包まれたような心地になる。聞仲は仙桃の味にあまり詳しくないので、これが仙桃の力なのか女の仕業なのか推し量ることはできない。
――ならば、明日の夜でいい。明日また現れたら、もう現れるなと伝えよう。昨夜の疲労もあって今日のところはもう口を開くことさえ億劫で仕方がないから、だから、明日でいい。
夢さえ見ない深い眠りだった。
目が覚めるときっちり五時間後、昨夜の疲労まで抜けて頭が冬の早朝のように冴えわたっていた。女の姿はどこにもない。
次の夜、女は現れなかった。その次の夜も、そのまた次の夜も、聞仲が仮眠室で横になっても衣擦れの音が立つことはなく、城内で白い女が目撃されることもなくなった。
女が現れなくなって、半年が経った。
聞仲はまた不規則で質の悪い睡眠を気まぐれに取る生活に戻った。仮眠を取るのが下手になり、三時間のつもりが五時間になり、寝起きの思考は猫に弄ばれた毛糸玉のようなものになることさえあった。
書簡を支える腕が重い。
「聞仲さま、どうかお休みください」
「この仕事が片付いたら休む」
「二時間前にも同じことをおっしゃっていました」
張奎にたしなめられ、聞仲もまた仕事が捗っていないことを自覚したので、のろのろと腰を上げた。すでに夜は深く、少し欠けた月が夜空に煌々と光っている。「張奎、お前ももう休め」、そう言って仮眠室に足を向けたものの、寝付くまでに時間を取られるのだから実質は何時間眠れるのだろうか。戸を開く。
鼻先を掠める甘い匂い。
布を張っていない窓から射し込んだ月光に、照らされる人影があった。
背に遊ばせた艶やかな髪を揺らして、白い服の女がぼんやり光るように立っていた。聞仲は戸を開いた格好のまま、固まって動けない。女は聞仲を見て嬉しそうに駆け寄ってくると、自分の袖を捲りあげて腕を差し出す。見れば、そこには何もない。いや、半年前にあったはずの二本の赤い線がすっかりなくなっていた。
「……傷を治すために人型になれなかったのか」
素直な頷きが返ってきた。それから、女はやっと気付いたかのように聞仲の頬に触れ、表情を曇らせた。この半年、何のせいかは知らないが聞仲は安眠を失っていたので、この反応は妥当なものだった。
「ああ――おい、引っ張るな」
女の白い指が案外力強く聞仲を引き、寝台へと導く。もはや逆らう気力もない。もういい。知らぬ間に条件付けでもされてしまったのか、これもまた女の力なのかは知らないが、月光に照らされる女を見ると眠くて仕方がなかった。
寝台に横たわる聞仲の髪を撫で、女がとろけるように笑った。ここに女の幸せすべてが詰まっているのだと言わんばかりの微笑みだった。もうこの裏に悪意があったのなら、聞仲をしてこの世全ての何もかもが転覆して滅ぶだろうと思わせるほどの甘い女。
「あしたもこい」
思考を通さずに零れた声だったが、女は心底嬉しそうにそっと頷いた。
はてさて、女の正体が何であるかといえば、聞仲の読み通り仙桃の妖蘖である。
ただしそんじょそこらの時間ばかりをかけた妖蘖ではない。この女、なんと百年の一度にしか成らないと言われる仙桃の中でも一級品の『仙桃大吟醸「豊満」』を核とする妖蘖であった。誰かが落とした『仙桃大吟醸「豊満」』が月日を重ね、誰かが零した酒を夜露として、これでもかと言わんばかりの豊穣の環境で五百年を過ごした末に顕現した未熟な妖蘖。本来ならば千年でやっと形になるはずの精霊を飛び越して五百年の顕現であるため、姿は育っているものの中身はまったくの無色であった。
そこに、自分を痛めつけては苦しみ痛めつけては強さを求めるような男が居た。
人間体を取れるようになるまで、男をずっと傍で見ていた。
「そう、それで君は自分の力を使って彼を労わることを至上の喜びと――ああ、聞仲くんは君と相性が悪い、いやイイのかな? そりゃあよく眠ってくれたろう! 健気だね、君はその力の使い方を考える悪い心さえ育っていれば第二の妲己くんになれただろうに。まあその場合はもっと早くに聞仲くんに切り捨てられていただろうけど! アーッハッハ!」
女は変わらず微笑んで、それでも久々に言葉の通じる相手に出会ったのが嬉しいのか常より多く小さな口を覆って笑った。
「しかし、聞仲くんの傍に百年も居たんじゃそろそろ疲れたんじゃないかい? 植物を元にした妖蘖となれば、僕の妹も同じこと。金鰲島でもっと優雅で楽しい生活を――ああ、そんな顔するくらい嫌かい! よっぽどじゃないか、聞仲くんも隅に置けない!」
楽しそうに謳い上げた鮮やかな金髪の男――金鰲三強が一人・趙孔明は高らかに笑いながら聞仲の仮眠室の壁を剥いだ。窓の布を裂いた。質素な寝台に触ろうとしたところ、女が悲しげに立ちふさがり首を振ったので断念した。
「さて、正規ルートを通らない顕現とはいえ、人間体を取れるようになって百年も経てばそろそろ口くらい利けてもいいはずだが。さてはいざというタイミングのために取ってあるな? いいじゃないか、そういうサプライズ僕は大好きだ! アッハハ!」
壁に見知らぬ絵がかかる。窓を覆う布が光沢と重みのある赤いものへ張り替えられる。床がいつの間に白黒の規則的な石になったのか、女にはよくわからなかった。
「さあ、じきに午後三時。アフタヌーンティーの時間だが、君はもう限界みたいだね。僕と話したいあまり無理をして日中に顕現している君に敬意を表して、今度は本場のピーチティーを振る舞ってあげよう! アデュー!」
「なぜ止めなかったんだ、お前は」
結局、趙孔明と妲己の訪問によって午後の仮眠を取り損ねた聞仲は、変わり果てた仮眠室を急ごしらえで修復し、暗くなったころに寝台に潜りこんだ。その寝台だけは女が指一本触れさせなかったのだとは知らない聞仲は、百年前にはしていなかった仮面を外して、寝そべりながら女を見上げる。女は百年変わらない美貌で、聞仲の髪を梳いた。
「まあいい、四時間で起きる」
聞仲はそれだけ言って、長いまつ毛を伏せた。女は変わらず微笑みながら、聞仲の眠りをほんの少し手助けする。実は彼女の力はほんの微々たるもので、仙桃の特徴である「後に残らない極上の酔い」を相手の意識に垂らしてやるだけなのだが、酒精に弱い聞仲にはよく効いた。
何より、この眠りには安眠には欠かせない安らぎが満ちている。
「――」
女はそっと桃色の唇を開いた。あの花の男の言う通り、女はここ一番というときだけ、口を利くことができる。
――おやすみなさい。
鈴を転がしたような一声が、そっと聞仲の額に落ちた。