氷点下の世界、吹きすさぶ風に震える杉元一行は今夜の寝床を古めかしい宿に決めた。雪国らしく最低限の防寒対策はしてあるものの、壁は薄く床は軋み、室内であってもとても薄着にはなれそうにない。
三人一部屋が精いっぱいだという女将に従って通された部屋は畳張りで、床一面に布団を敷いてなんとか全員が横になれるような有様だった。
「ったく、ツイてねえなあ」
「元はと言えば白石、お前が路銀を溶かしたのが悪いんだぞ」
「悪かったよお三倍にできるはずだったんだよお」
水面下で決断して水面下で所持金を溶かした白石は曇りのない輝く瞳を瞬かせて握り拳を両頬に当てたが、返ってきたのは杉元の拳だけだった。もう寝よう、とアシリパのあっさりとした声。無残に転がる白石に欠片も興味がないことがはっきりわかる淡白な声だった。いつものことだとしても、白石にはすきま風と共に染み渡る冷たさである。
しかし、今日のアシリパの機嫌はいつも以上に悪い。そもそも白石が旅費を使い込まなければマシな寝床につけたはずだし、何より夕飯に不可欠な食材を買い足す金までさっぱり消し飛ばしてしまったのがよくなかった。今日の夕飯は干し肉を少しと白湯みたいな汁で口を濡らす程度。そこらの育ち盛り以上に食欲旺盛なアシリパの逆鱗に触れてしまっていた。
このままではヤバい。
白石は今後の身の振り方まで思案を巡らせ、このカードを切ることにした。
「なあ、アシリパちゃん。俺のとっておきのお菓子が最後の一欠片なんだが、興味あるかい?」
背を向けていた艶やかな黒髪がぐるんとこちらを向き直る。「どうせ飴だろ」と杉元はアシリパを宥めるが、どっこい飴ちゃんではない。アシリパ相手に切るカードに飴ちゃんでは弱すぎる。
「ンフフ……こいつだ、おっとまだ手は伸ばすなよ! 俺だって大事に大事に取ってたのさ、匂いだけで幸せになれる最高の贅沢品なんだぜ」
「おい、アシリパさんにヤベーもん食べさせるつもりじゃねえだろうな」
「ンなわけないだろお! これは俺の反省の証なんだよ、だから瞬きしてねアシリパちゃん。怖いからねアシリパちゃん」
白石がどこからともなく取り出したものは、可憐な手拭いの中でさらに油紙に包まれた小さな欠片だった。桃色で細長く、何かを根元から折ったような断面をしている。
「食べる前に嗅いでごらん」
白石は猛獣使いのような格好でアシリパを制しつつ、手のひらに乗せた手拭いを彼女の鼻先に近づける。満腹でない胃に行動を支配されたアシリパはやはり瞬きせずに二度三度と匂いを確かめ、ほうと手で頬を包み込んだ。
「……なんだこれは? 鼻の粘膜にまとわり付くような甘さだ」
「なに?」
怪訝そうな杉元も謎の桃色に鼻を近づけて、合点がいったように目を丸くした。「チョコレートか」聞きなれない響きなのか、アシリパは首を傾げた。
「南蛮貿易で日本に伝わった甘いお菓子だよ、滋養強壮にいいっていう極上の高級品。白石、なんでお前こんなもんを」
「ご縁だよご縁、これが最後の一口だから俺も噛み締めさせてもらうぜ……よいしょ」
パキ、と軽い音を立てて細長い桃色は三分割された。心なしか少し大きな欠片をアシリパへ、明らかに小さな欠片を杉元へ。
口の中のチョコレートと同じように布団にとろけていったアシリパを眺めながら、白石はそっと上品な手拭いを撫でた。
それは白石だけの秘密だ。
ある夜、入念な下調べによって誰にも見つからず「お邪魔」した豪邸の離れに、たいそう美しいお嬢様が居たこと。病弱のため自由に外を歩けず、曲者である白石を密告しない代わりに素敵な冒険譚をと乞われたこと。三日間通ってその街を離れることが決まったとき、「一生忘れません」と握らされた手拭いのこと。
「わたくしのためにと父が用意してくれたものですが、山を越え谷を越える貴方にこそ必要です。……さあ行って、もう人が来ます」
細くて白くて、雪に溶けそうな人だった。白石は結局、懐からどこでも買えそうな飴をひとつ置いて踵を返すことしかできなかった。
灯していた蝋燭をふっと消す瞬間の美しい微笑みを、きっと一生忘れやしない。
そんな夢のような思い出に浸っていたから、白石はチョコレートを割った指先がぬるりと生ぬるいものに包まれてようやく異変に気がついた。
「……ウワッ、えっアシリパちゃん! だめこれは俺の! 俺の! アーッ指をしゃぶらないでベタベタするッ、アアッ、イヤーッ!」