「…」

 目の前を歩いてくる姿を見て、咥え煙草を、こっそりと先を指で握りつぶした。熱くないっていったら嘘になるけど、まあ軍手してるし大丈夫だ。俺の首に引っかかってるA級のNERVのIDカードはここじゃ中々の存在証明になるし身分証明にもなり、顔パスの材料でもある。でもまあ所詮A級、司令サマには首が上がらない。執務室や廊下では堂々とできるものを、こうやって司令とすれ違うときはこっそりひっそり、握りつぶす。
 コツ、硬い靴底が廊下を叩く音が、無駄に長くて分かりにくい廊下に反響する。俺も歩みを止めずに、ゆっくりと、歩く。ぺたん、引っ掛けているだけのサンダルが気の抜けるような音を立てて情けないったらない。でも堅っ苦しいのってだめなんだよね俺。無表情を作って固めて固めて固めて、すれ違う直前に、俺と司令の足音が、重なった。

「………はあ」

 その奇妙な足音から十歩、俺と司令の距離が二十歩以上になったところで俺は溜息をついて、張り詰めていた息をようやく吐き出した。眼鏡を外して、片目を掌で覆って歩みを止める。白衣のポケットの中で、じりじりと指先が痺れるように痛む。それでようやく何か足りないものに気がついて、俺はさっきの煙草を咥えて火をつける。…チッ、上手くつかねえ。

「火ぃ付けたばっかだったのになあ」

 勿体無い、といいつつ俺はそれを携帯灰皿に納めて、箱をとんとん、と叩いて新しい煙草を取り出した。今日二箱目、ここって給料いいけど、さすがに火気厳禁の場所やら「匂いが移っちゃまずい所」もあるから、そろそろ止め時なのかもしれねえなあ。ふわ、白煙を口から吐き出して、俺はまた咥え煙草のまま歩き始める。






くん」
「…あ、赤木博士。どうも、お疲れさまです」

 呼ばれたのが俺の名前だと気づいて、ぐい、とかけていた遮光眼鏡を引き下げて、俺は一息吐く。見上げた先には泣きぼくろがセクシーな赤木博士、技術開発部の上司に当たる人だ。前の開けられている白衣の間から覗くミニスカートとストッキングの組み合わせは相変わらず凶悪だ、部下が浮つくんであんまりその格好は…いやいいや。

「エヴァの修復の方はどう?」
「指示通り、初号機にパーツを回してどうにかしてますけど…」
「零号機の件はあとでプランをいくつか提示するわ」
「助かります。…予算は下りてないみたいですけど」
「残念ながらね」

 赤木博士が覗き込んだ先には、エヴァンゲリオン初号機が格納されるはずの第七ケージがある。
 どうして、どちらかといえば損傷の激しい方の零号機ではなく初号機の修復を優先させるプランを提示されたんでしょうね、お偉いさん方は。プロトタイプにはもう用は無いのか、それじゃあ司令が零号機の搭乗者にあれだけ良くする理由が分からない。ならば、それを跳ね除けてまで初号機に執着する理由を考えた方が早いに違いない。初号機だけじゃなく、エヴァンゲリオンについての資料は俺程度の技術者には開示されていない。この世界を救う、電気で動いて子どもに操縦させるロボット様には何が隠されてる? 半ば睨みつけるようにして、俺は初号機を見上げる。

「…初号機の搭乗者って」
「碇シンジくんね、どうかした?」
「司令の息子さんなんですよね」
「ええ、碇司令の実子よ」

 一度二度、休憩中に見かけたことがある。大人しそうで従順そうで、中二にしては可愛げのないガキだと思ったのが第一印象だ。もう少し笑えばいいのにな、若いうちにしかできないこと、わからないことだってたくさんあるのに勿体無い生き方してると思う。まあこんな大人失格な俺に言われたくねえだろうけれど、と思わず失笑が洩れそうになる。
 あと、やっぱり。

「似てますよね、あの二人」
「……、…そう?」
「ええ、似てますよ」
「…そういえばくん、煙草、止めたの」
「はは、ちょっと禁煙シーズンです」

 からん、咥え煙草の代わりに寂しい口元に突っ込んでおいた棒つき飴が歯に当たって音を立てた。
 だってまだ指が痛い。こういうときに、もう捻り潰す必要がなくなったってのは利点だ。やっぱり物足りないけど。ぺたん、カツ、カツ、ぺたん、二人分のかみ合わない靴音が廊下に響く。今日はなんの気兼ね無しに通り過ぎることができる。そう思ったのに、低い声が廊下を揺らした。

「…技術部副部長」
「はい」
「煙草は、止めたのか」
「はい、仕事に支障が出ると困りますし」
「…そうか」

 まさか気づいてくれるとは、思ってませんでしたよ司令。
 ああそうか、似てるって言うのは多分、負の方だけじゃない。この親子はきっと、気遣いが苦手で相手のことを考えすぎて自分のことばかりに気が向いて、それでも周りをよく見てる。…それにしても、ちょっと待て、ちょっと待てよ俺、なんでこんなに嬉しがってんだ?

「…はは」

 簡単だ、きっと、手の届かない遠い人が、ちゃんと「人間」だって確認できたからだ。