いちばん好きな背中だ


「これ、いつものな」

 バールのカウンターに寄りかかっていたリカルドがカッフェ代の代わりに寄こした紙きれは、リラでもユーロでもなかった。彼の分のカップを渡して空いた手でそれを持ち上げ、ああ、と呟く。

「ありがと。もうそんな時期かぁ」

「一応言っとくけど、悪さすんなよ」

「親友と親友の相棒に誓って」

 このやり取りも、もう三回目だ。近々ジャポネに旅立つことになった我がイタリア代表のガンプラファイター、リカルド・フェリーニは笑いをかみ殺しながらカップを傾けた。同じくカップに口を付けた私は、そのユーロより少し硬い紙をひらひらと揺らして彼の長くて骨ばった指先をくすぐる。銀色の箔押し装飾がチカリと光った。

 世界大会出場者に数枚だけ渡されるプラチナチケット。会場であるジャポネ・シズオカまでの飛行機代、宿泊代、さらには観戦シートの予約までこれ一枚で済む貴重品だ。しかも、イタリアチャンプのコードが入っているから、これで何かしでかせば彼の信頼やプライドに関わる丁重に扱わなければならないもの。

 初めてこれに触れたときは、手が汗ばむほど緊張したものだ。今だってそりゃ緊張するが、三度目ともなれば少しは見慣れる。

「まあ、今年も行けるかわかんないけどね」

「去年は来なかったもんなあ、お前。あの決勝リーグのグレコとの一戦を見逃すなんてついてないやつ」

「ちょっと、来なかったんじゃなくて行けなかったって言ってよ。人聞きの悪い」

 暮れなずむ頃ののバールは、学生に社会人にとさまざまな人で溢れている。ざわめきの中でもリカルドののどを鳴らす低い笑い声は私の左耳を心地よく打った。

 このまま額に入れて飾っておきたいほどきれいなチケットを、私は丁重にしまい込んだ。世界大会の日程は大体夏季と決まっているので、今年は早めにスケジュールを調整しておこう。イタリアの予選大会は他の国々に先駆けて終わったから、休暇の申請ができるくらいの余裕はある。

「で、相棒の調子は」

「良くなかったことがあるか?」

「ないね」

 面映ゆげに目を細めたリカルドは、もしかしたら自分より相棒を褒められるほうが好きなのかもしれない。彼のフェニーチェを何代も前から知っている私だって、改修を重ねるたびに美しく整えられていく不死鳥が好きだ。幾多の戦いの中でつけられた傷を残したアシンメトリーな立ち姿も、ピーキーさののために変型機構を捨てたところも、もちろんトリコローレなところも。

 私がまだ熱いカッフェを恐る恐る啜る横で、リカルドは悠々とカップを傾けている。

「今年はいつごろから出かけんの?」

「そうだな、そろそろ出るつもりだ。まずはこれから地区予選が行われるジャポネで敵情視察を……」

「ジャッポネーゼにグイグイ行くと引かれるから気をつけなね」

「誰に言ってんだか」

 なぜか眉を下げて、やれやれっていうポーズをされる。確かにナンパ成功率は私に助言されるまでもないくらい高いし、司祭にラテン語だったか。でもいらっとしたのでリカルドの手を抓ってやった。

 でも結局、こいつは女の子と同じくらい、もしかしたらそれ以上にガンプラが好きだっていうことも知っている。

 ジャポネはガンプラの聖地だ。イタリアとは比べものにならないレベルの専門店が並び立つと聞くし、こっちではなかなか手に入らないキットも平然と積まれているらしい。まさにガンプラファイターにとっては宝の山、現代のジパングというわけだ。どうせお気に入りの道具も持っていくのだろうし、数日間ホテルに缶詰めになってそれを組む生活をするのだろう。それを“何”に使うかは、まあ別の話だ。

「ああ、今年はアメリカにも行く予定だ。、何か欲しいもんあるか?」

「ヌガー以外」

「即答かよ。まあいい、楽しみにしてな」

「なんでアメリカ?」

「グレコの試合があるんだ。久々に会いに行こうと思ってな」

 カップを煽って空にしたリカルドは、一年ぶりか、としみじみ呟いた。前大会の好敵手を懐かしんでいるようで、その好敵手がどれだけ強くなったかが楽しみでしかたない、そんな色んな気持ちが混ざった声色だった。もう大人のくせに、目の輝きは昔のままだ。感情が意外とストレートに顔に出るところも変わらない。

「じゃあリカルド、今日時間あるよね」

「おう」

「私が飲み終わるまでにどこがいいか考えといて」

「もう決まってる」

「……じゃあちょっと待ってて」

 全世界のガンプラバトルファンが欲しがるプラチナチケット代がカッフェ一杯となると、さすがに私の良心が痛む。だからカッフェ代とチェーナ代を出させてほしい、と言い出したのは私からだったが、リカルドはそれをいまいち理解してくれない。余らせるだけのものを配ってるだけで気にする必要ねえよ、というのが彼の弁だ。

 やっと適温になったカップの中身は、残り三分の一というところ。

「こっから近いんだけど、美味い店があるんだ」

「へえ。近いってどのくらい? 徒歩圏内?」

「いや、バイクで行けるくらい」

 リカルドがポケットから出したキーケースを鳴らした。私は地下鉄で来たが、彼はもう一人の相棒のベスパを駆ってきたらしい。ということは、飲む気がないのだろうか。と考えて、私はすぐにそれを打ち消す。たぶん私が運転して帰るのだ、いつも通り。

「ほんと、お酒気を付けるんだよ。飲むと格好つけてんの全部剥がれるんだから」

「……」

 嫌いなものぜんぶを口に詰め込まれたような渋い顔だ。思わず噴きだすと、リカルドはせっかくの色男をくしゃくしゃにして、さっさと飲めと手だけで促した。大人しく飲み干して、指先でうっすら残った口紅の跡を消す。

「じゃあ行くか」

「あ、ちょっと待って、私サイドカーは嫌だよ」

「分かってるよ、外してきたから心配すんな」

「さすがリカルド」

 バールの扉を開くと、日の長くなった空がようやく夜の顔になったところだった。リカルドからヘルメットを受け取り、彼の広い背に身を預ける。

 私を乗せるベスパの運転手は残念ながらグレゴリー・ペックではないけど、それにしたってなかなかいいやつだ。親友の贔屓目かもしれない。でも何より彼の選ぶリストランテに外れはないから、今はただそれが純粋に楽しみで、胸がぼんやりぬくまった。