昼の授業が始まった頃から降りだした雨は、どうやら夜まで続くらしい。
「ちゃん」
延々と続く雨音を聞いてすこしうとうとしていたを、幼い声が揺さぶった。まだ男女の差のないやわらかな手が、遠慮がちに肩を叩く。
ぼんやりとする視界をこすって目を瞬かせると、黒々としたランドセルを背負ったお隣さんが立っていた。昇降口の蛍光灯は光が弱くなっているのに、それでもつやりと煌めくぴかぴかのランドセルだ。
「……なぁに?」
「帰らないの?」
「かさ、わすれちゃって」
朝は降るなんて知らなかったし、折り畳み傘なんて持っていない。の家は共働きだったから迎えも呼べない。友人が帰っていくのに引っ付いてここまできてしまったが、結局ぼんやり雨音を聞くことしかできないのだ。走って帰ろうかとも考えたが、は首を振った。服を濡らして怒られたくなかったし、お隣さんと同じくぴかぴかのランドセルを濡らすのはとても勇気のいることのように思えたから。
「じゃあ、僕と一緒にかえろうよ。おかあさんが迎えにきてくれるって」
「いいの?」
「うん。そしたら、ちゃんのおかあさんが帰ってくるまでうちで一緒にあそぼうね。おやつもあるから、きっと楽しいよ」
「……そうする!」
の答えににっこり笑った彼の目が細まって、頬がふんわりと赤くなる。
は彼の青とも緑ともいえない難しい色合いの瞳が好きで、彼の表情が変わると引っ張られるように違ったものに見えるから、万華鏡みたいだとも思ったりした。目の縁いっぱいに涙が張ったときなんて光があちこちに散って揺らめくから、まるで水槽みたいでどきどきする。でもふとしたときに見たいなあと思うのは、やっぱりこの笑顔だった。
彼はの隣にぴったりと寄り添うように腰を落とした。大粒の雨がぼたぼたと音を立てる中、校門に向かう傘の花がちらほらと見えるほか、二人きりだった。触れ合った肩の熱が唯一、曇天の肌寒さをやわらげる。
「あめあめ、ふれふれ……」
ふと口ずさんだそれは、今日の音楽の授業でも歌ったばかりの童謡だった。先生の号令と共に我先にと家路についた同級生たちもそろって歌っていた。いつの間にか隣の彼のまだ高い声も重なり、ささやき程度のの声までつられて大きくなる。
柳の根方で泣いているあの子に、「ぼく」は優しく傘を貸す。
それってなんだか、本当に私たちみたいだ。はそう考えて、もう一度目元を擦った。
「ちゃん?」
「……ねえ、ジャノメってなあに」
「じゃのめ? そういえばなんだろう、ジャノメ、ジャノメかあ」
ごまかしの些細な質問だったが、「ジャノメ」の正体を由来までちゃんと理解するには、ちょっと時間がかかった気がする。どうやって知ったんだったか――――。
昼の授業が始まった頃から降りだした雨は、どうやら夜まで続くらしい。
「」
延々と続く雨音を聞いてすこしうとうとしていた私を、落ち着いた低い声が揺さぶった。幼馴染とはまた違った大きな手が、遠慮がちに肩を叩く。
ぼんやりとする視界をこすって目を瞬かせると、そばに呆れた顔の友人が立っていた。彼の前髪が湿気でいつもよりうねっている。教室が暗いのは濃くにごった雨雲のせいかと思ったが、どうやら本当に少し寝ていたようだ。指先が冷えている。
「……なぁに、花京院」
「きみ、帰らないのかい」
「傘、持ってないから」
雨音を聞きながらうたた寝したせいで、ずいぶんと懐かしい夢を見た。もう十年は前の夢だ。幼馴染が有名な不良になる前の、きれいな思い出。私の好きだった泣き出す直前の水槽のような目なんてもう何年見てないだろう。
「持ってない? 午後から降るって言ってたろ、天気予報見る癖つけなよ」
「見たよ」
「はあ?」
「ねえ、花京院はあめふりのうたは歌える?」
寝起きのせいでまだ少し呂律がまわらない。まとわりつく眠気を払うように伸びをしていると、花京院は怪訝そうに首を傾げた。「あめふりって、ぴちぴちちゃぷちゃぷのあれかい」「そう。らんらんらんのそれ」質問に答えたのに、花京院の顔は依然すっきりしないままである。
「私さ、あの「ジャノメ」が分からなくて。なんとなく蛇の目だろうなってのは分かってたんだけど、蛇の目って鋭いイメージがあったから、それ怒ってんじゃんって」
「それいつの話?」
「小学生のとき」
「よかった。最近って言われたらどうしようかと思った」
「花京院って結構ひどいよね」
花京院は乾いた笑いをあげて、私の隣の席の椅子を引いた。どうやら雑談に付き合ってくれるらしい友人に向けて鞄に入っていた飴玉をひとつ投げると、「傘はないくせに」なんてお小言をもらった。
「だから、あめふりのイメージは傘を忘れた子どもを怒りながらも迎えにくる母親って感じだったの」
「怒りながら。それで嬉しがるのかい」
「私はね。鍵っ子だったから憧れてたし」
そっか、と頷いた花京院の大きい口に飴玉が放り込まれる。カラコロ、飴玉が歯に当たる軽い音と、包み紙の立てる音。
「そのあと、承太郎の家の図鑑で、蛇って意外とかわいい目してるのを知ったんだけど。やーっぱりまだ怒ってるようなイメージが抜けないんだよね」
「濁音で強い音だしね。わかる気がする」
「でしょ?」
同じように飴を口に含み、私はちらりと窓の外を見やった。窓は水のカーテンをかけられたように風景を歪めているし、雨音はどことなく激しさを増している。その視線をどう取ったのか、花京院が「」、と声を掛けた。
「職員室に行けば貸出し用の傘あるんじゃないのか」
「ううん、いいの。待ってるだけだから」
「待ってる? 今夜中は止まないだろうからむだだと思うけど」
「止むのじゃなくて、承太郎」
私が窓から花京院に視線を移すと、彼は解せぬという表情で、でも口だけはもごもごさせていた。
「彼、今日は三限目にはもう帰っちゃったじゃないか」
「帰ったね。聖子さんのお昼ご飯でも食べに帰ったのかな」
「……きみって、……で、その承太郎を待ってるって? 連絡でもしたの」
花京院の呆れを隠さない口調に、私はゆったりと首を振った。それから声を潜めて、窓を打つ雨音に紛れてしまいそうに囁く。「あのね、花京院」
その声をかき消すように、教室の扉が乱暴に開けられた。先ほどまで雨音がうるさいとも感じられた静寂が破られ、花京院の肩がわずかに跳ねたのを私は見逃さなかった。
扉を行儀悪く足で開けたらしい改造学ランの男は、ぶっつりと不機嫌そうな双眸をぎらつかせて幼馴染を睨む。
「わあ、承太郎。濡れてるよ」
「……。てめーそろそろ学習しやがらねえと次こそ見捨てるぜ」
「怖いなぁ」
そういって立ち上がる私の声色は、自分でも分かるくらい明るい。
同じように腰を上げ、教室の入り口を――本当に現れた幼馴染をふしぎそうに見ている友人の肩を叩く。それから私が自分の耳元を指すと、それが耳打ちのサインだと気付いた彼は身を屈めた。ふっと吐息がピアスにかかる。
「ね。ほんとに『ジャノメ』で来てくれるでしょ?」
いたずらっぽく笑うと、花京院は合点がいったように目を瞬かせて、それから眉を下げて笑った。しょうがないなきみは、と呟かれ、返す言葉もない。
「おいてめーら、ちんたらしてねーでさっさと動け」
「はーい」
「今行くよ」
ぴちぴちちゃぷちゃぷ。外のサッシの水音が歌う。
一足先に廊下を歩き始めた大きな背中を追って、花京院と二人、教室から飛び出した。