「……しまった」
湯気を上げるコーヒーを盆に載せ、私は立ち止まった。上官の執務室は目の前だが、私の上官は正直“普通じゃあない”。しかしこれから引き返す時間もなく、中に居る上官の機嫌がいいことを願いながら、硬いドアをノックした。相手はこちらが誰だか分かりきっているようで、ただ「入れ」と短くいらえをするだけ。
「失礼します」
「久しぶりだな、」
「は、少佐」
「今は大佐だ」
扉の向こうには、いつも通りに偉そうに椅子に腰かけた私の上官が居た。メキシコに出発する前にはなかった右目の機械仕掛けのモノグラフィーがキラリと光り、ああ、見間違えるはずのない顔だと、私は今回の一件が真実であることを思い知った。
私の上官、ルドル・フォン・シュトロハイム少佐は、死んだ。メキシコでの秘密作戦に際して名誉ある自決をなされた――という報告書を、ほんの少し前に受けとったばかりだった。部下として彼の留守を預かっていた私はその一報を受け、任務の引き継ぎや新しい上官に対する準備だとかで慌ただしく駆け回ったりもした。
なのに。なのに、だ。
「……ん? なんだ、。随分と怖い顔をするじゃあないか」
ある日いきなり私の前に現れ、「生き返った」と言ってのけたシュトロハイム大佐の襟章は、確かに彼の言う通り、二階級特進の左右対称の幸運の葉を刻んだものに変わっている。そして、戦時において階級が変わるのは、それ相応の特務に就くことを必要とされるからであり、きっと彼はこうして地獄から舞い戻ってきて尚その身を死地へ送り込むのだろう。
「いえ、もう大佐はコーヒーは嗜まれないのかと」
「ン〜〜……確かに、この鋼の身に嗜好品はもう必要ないな」
「いつもの癖で用意してしまい、処分せねばと思っていたところです」
ちらり、彼の視線が私の顔とカップとを見比べた。そしてにたりと意地悪い顔をすると、背もたれに体重をかけ、こちらを見ながら一言。
「お前が飲めばいいじゃあないか」
「……はい?」
「何、そのまま廃棄されるよりマシというものだ。飲め」
その言葉に、上官から部下への労わりだとか、そういうものはない。私は思わず頬が引きつるのを隠せなかった。大佐は命令形で促したまま、私が行動するのを待っている。コーヒー嫌いの私が、カップを持つのを。
彼は逆らえない者に対して、ある意味無邪気に無体を働く。笑いながら残酷なこともやってのけるが、こうやって部下に対する嫌がらせもその内の一つだ。
私は諦めの溜息をぐっと堪え、並々と黒い液体の入ったカップを持った。大佐が飲む用に淹れたブラックコーヒーが、香ばしい匂いを漂わせている。彼はきっと私の一挙一動を見てにやにやと笑っているのだろう、それならば逡巡している情けない姿をこれ以上晒すのも潔くない。まだ熱いそれを一気に煽った。
「……。……。……っ」
「どうだ、? 苦いなら苦いと言ってもいいんだぞ、ン?」
「…………、……いえ。へいき、です」
カップを盆に戻し、空いた手で口を押さえながらもごもごと答える私を見て、シュトロハイム大佐はやっぱり腹を抱えて笑った。苦かっただろう、たぶん。それ以上にコーヒーが熱すぎて痛みしかないからよくわからない。今日の食事は地獄だ。
「相変わらず、妙に意地を張るやつだ」
「……大佐は随分と変わられましたね」
盆を脇のテーブルに置き、私は大佐に向き直った。彼も黙って私を見たまま、鋼鉄の身体をギシリと軋ませて立ち上がった。ぐんと顔の位置が上がり、私の視線も上向く。
「」
「はい」
「俺はこうして蘇ったが、それは果たさねばならないことがあるからだ」
「はい」
それはたぶん、彼が任されていた柱の男、メキシコで手を焼いたというサンタナやその上位種に関することだろう。彼のサイボーグの身体に応用されたデータとメキシコでの出来事の報告書を見せてもらったが、なんというかあまりに人間離れしすぎていて、私にはサンタナの姿や行動が想像できなかった。空気供給管に身をねじ込み、人間の中に入り込み、日光で石化する。
そのような怪物と同じ力を手に入れ、大佐は、まだ戦うという。
「だがまあ、まずはやつらの動向を掴むのが先だがな」
「では暫くはここに?」
「ああ」
私のすぐそばで立ち止まり、シュトロハイム大佐の両眼が私を見下ろす。プレッシャーに押し負けないように、私は視線を下げまいと唇を引き結んだ。何秒そうやって睨みあったか、呼吸のタイミングが上手く掴めずに苦しくてよく分からない。
「……。俺の部下に戻ってどう思う」
「は……?」
だから、その唐突な質問の意味を理解するのに時間がかかった。
「俺が死んだと聞いて、どう思った? ちょっとは泣いたか」
「え、ええと」
大佐の目は誤魔化しを許しそうになかった。私は火傷でヒリヒリする舌を無理やり動かし、言葉を選びながら口を開く。「そう、ですね」だめだ、なんといえばいいのかが分からない。
「新しい上官の好みのコーヒーの淹れ方を覚える手間は、省けました」
「……クッ、ブハハハハハ!!」
爆笑。身を折って苦しげに悶えながら、シュトロハイム大佐はこれ以上ない爆笑を返してくれた。なんだ、大きく間違えはしなかったのだろうか。しかし気まぐれな彼のことだからいきなり張り倒されても驚きはしないぞ、と私はこっそり歯を食いしばっておく。そんな私の考えを知ってか知らずか、大佐はまだ余韻が残っているのかヒィヒィと息を整え、背すじを伸ばした。
「そうだな、お前はそういう女だった」
「……はあ」
「よし、。次の作戦は貴様も同行しろ」
「私が、ですか」
「二度は言わん」
どうやら彼の機嫌がいい日だったらしい。彼は私の頬を張り倒すことなく、すたすたと椅子に戻って深く腰掛けた。ほっと溜息をついて、私は書類整理をしようと備え付けられた傍の机へと着く。
私は、大佐が鋼鉄の身体になったと聞いて、悲しかったが嬉しくもあったのだ。
人間でなくなり血を流さなくなったことで、たぶん彼が容易に死ぬことがなくなったのが、誇らしくて、少し寂しい。
「大佐」
「どうした」
様々な気持ちがない交ぜになった私の胸は、さながら先ほどのコーヒーと同じように真っ黒なのだろう。それでも私は煮えたぎったそれを飲み干して、ただ彼についていくだけだ。
「おかえりなさい」
私の上官は、彼一人なのだから。