死んだものしか居ない世界で、動く心臓を持っているはずのやつが誰より死者らしかった。いつも通りに鏡をすり抜けた俺に視線も向けず、はソファで膝を抱え、ぼんやりつま先を見つめている。
「なあ、。ほら、お前の好きなカンノーロだぜ。ちゃんとしたリコッタクリームだ」
「食っていいぞ」
「お前のだよ。食えって」
「欲しくねーの」
欲しくない、だって。
がカンノーロを欲しくないなんて言う日が来るとは思わなかった。俺は危うく箱を握りつぶしそうになって堪える。前に俺がお前のカンノーロを食べたとき、わざとじゃないっつったのに構わずボコったくせに。好きだっつったくせに。
「口に押し込んでやる」
「やめろイルーゾォ。ほんとうにいらねーんだよ」
「そう言ってもう三日食べてねーだろうが! なんでもいいから食べろ、オレンジもある!」
「欲しくねえ」
俺がどれだけ語気を荒げても、は顔色ひとつ変えず、俺を見ることもない。ぼんやりとソファで背を丸めるだけ。その背に生えた薄羽のように、いつかそのうち透けて消えてしまいそうだった。
やつの背の羽は、スタンドビジョンだ。最初は背中にこぶができたようだったのが日増しに膨れ、やがて半透明の萎れたものが飛び出してきて、それがスタンド攻撃だと気付いたのは相手のスタンド使いを殺してしまってから一週間経った後だった。
宿主の感情を糧に育つ自動スタンドは、もうを食べカスにしようとしている。きっとそのうちこの羽はを食い破り、コイツを殺すだろう。進行を留めるには俺のマン・イン・ザ・ミラーの死の世界が効果的だとやつを引き込み、もう五日目になる。
「頼む。一口でいい」
俺の哀れっぽい口調にも、一瞥すらよこさない。やつは今、呼吸と睡眠だけを繰り返す亡霊だった。
「わかった」
「! ほんとかっ」
「食うよ。カンノーロ」
なんの気まぐれか、いや気まぐれだっていい。俺はようやくもらえた色良い返事に飛びつき、にカンノーロを差し出す。メローネのバイクを飛ばして買ってきたカンノーロ・エスプレッソは香ばしく、柔らかそうなクリームは溢れそうだ。
やつは俺の手からほんの一口かじると、まるでゴムでも噛んでるような味気なさで咀嚼し、飲んだ。「ありがとう」その言葉も、冷え切っていた。
「うまいか? もう一口どうだ。カッフェもあるぜ」
「ごめんな、イルーゾォ」
「何言ってんだよ、こんなんどうとも……」
「イルーゾォ。うまいのかどうかも、もうわからん」
言葉が出なかった。ようやく俺を見たのアンバーは濁り切っていて、その奥にくすぶるものがざわめいてる気がした。泣きたいのか、となんとなく思ったが、は表情ひとつ変えなかった。
「好きだったはずなのに、うまいはずなのに。何も感じねーんだ。お前に申し訳ない気持ちもあるはずなのに、本当に、何も」
「……」
「ここは落ち着くな。静かで、いい」
泣きたいはずのは涙ひとつこぼさなかったが、その代わり俺はばかになったみたいに泣いた。特効薬はまだ見つからない。
(は背中から蝶の羽が生えてくる病気です。進行すると感情がなくなってゆきます。人魚の涙が薬になります。)